大正から昭和初期にかけて一世を風靡(ふうび)し、「総理大臣の名は知らなくとも、岡本一平の名を知らぬ者はいない」とまで言わしめた男。妻は歌人で小説家でもあった岡本かの子、息子は1970年の大阪万博の際、シンボルである「太陽の塔」を制作した芸術家・岡本太郎である。まさに芸術家一家の大黒柱であり、時代のスーパースターだった。
しかし、現代においてその名はほとんど忘れ去られ、かの子や太郎について語られることはあっても一平が話題にのぼることはほとんどない。彼はいったいどんな人物だったのか。いろいろな人々の言葉や視点を借りながら、その生涯をたどってみた。
※アイキャッチ画像は、『松本幸四郎』(七代目)渡邊綱(戻り橋)岡本一平画
岡本一平の生い立ち
ニヒリストでクールビューティ
岡本太郎は父・一平を次のように評している。
一平の本質はニヒリストだった。
外見はほれぼれするほど美貌の都会っ児だ。京橋という江戸文化の匂いの濃い巷に育ち、遊びの水にもさらされて、いい意味の世間智と、軽み、ダンディズムも身につけている。
しかも天性の、父性というか、兄貴分としてたてられる器量がそなわっていたようだ。いつでも心服し、とりまく人間がまわりに集まっていた。が、いわゆる「親分」として大きな顔をするような野暮は嫌い。ひょうひょうと笑いとばしてしまう洒脱さはあった。
『一平かの子 心に生きる凄い父母』チクマ秀版社刊
若き日の一平の写真を見ると、確かにクールビューティ。いささか翳(かげ)りを帯びて見える端正な顔立ちには近寄り難さを感じるほどだ。
彼が生まれたのは1886(明治19)年。父の岡本竹二郎は「可亭(かてい)」という号を持つ書家で、当時、北海道の函館で教職についていた。可亭は北海道からシベリアに渡り、一旗上げるつもりだったらしい。しかし、目論見(もくろみ)通りにはいかず、やがて家族を連れて大阪に移り、後に東京に転居した。
父の内弟子だった北大路魯山人
一家は現在の京橋1丁目付近に移り住み、可亭は書道教授業を営むかたわら版下書きの仕事を始めた。版下とは本来、木版印刷で版木に彫り付けるために書かれた文字原稿をいう。可亭は当時の東京における版下書きの二大勢力の一派となり、その生活は安定していった。
1905(明治38)年、1人の男が可亭に入門した。彼の名前は福田房次郎。後の北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)である。不遇な幼少期を過ごした魯山人だったが、独学で書の才能を開花させる。可亭は魯山人の書く字を高く評価。内弟子として約3年間にわたり、版下書きのノウハウのすべてを彼に伝授した。魯山人は1907(明治40)年に可亭のもとから独立。その際、鴨亭(おうてい)という号を贈られている。
彼が可亭に弟子入りした時、一平は東京美術学校(現在の東京藝術大学)の学生だった。二人はすぐに意気投合し、あちこち食べ歩いたり一緒に遊んだりしたようだ。魯山人は可亭の死後も彼の墓参に訪れたり、一平やかの子、孫の太郎とも交流している。

画家よりも小説家になりたかった
可亭は「これからは書ではなく絵の時代だから」と、小学生の一平に絵を習わせた。可亭の父・岡本安五郎は三重県津市の出身で、藩主・藤堂家に仕えた儒学者だった。ところが明治維新で没落し、安五郎は息子に岡本家再興の夢を託して死んだ。可亭もまた幼い一平に祖父から託された悲願をくどくどと語り、それは一平にとって大きな重荷になった。彼は画家よりも小説家になりたかったのだが、父はそれを許さなかった。心優しい一平は父に反抗できず、内心複雑な思いを抱きながらも、狩野派から浮世絵画家、さらには洋画家の藤島武二らの指導を受け、1905(明治38)年、東京美術学校西洋学科に入学した。
最初は成績優秀だったが、やがて放蕩生活に身を投じ、卒業時はビリから2番目の成績だったという。父祖二代に渡る岡本家再興の妄執が一平の心身を蝕(むしば)み、その強迫観念から逃れようと酒色に耽(ふけ)ったのかもしれない。
運命の女性・かの子
1910(明治43)年、一平は運命の女性と結婚する。その女性こそ、岡本かの子(旧姓は大貫 本名はかの)である。
かの子の生まれた大貫家は江戸時代から続く豪農で、現在の神奈川県川崎市の二子(ふたご)地区、いわゆるニコタマにあった。父の寅吉は10人兄妹の長女だったかの子を偏愛し、乳母は彼女にいわゆる早期のエリート教育を施した。早熟で利発だったかの子は感受性も人一倍鋭く負けず嫌い。東京の小石川柳町にあった跡見女学校(後の跡見学園)に入学し、書道や和歌といった芸術的素養を身につけ、開花させていった。
一平がかの子の両親に結婚の許しをもらいに行った時のエピソードがすごい。息子の太郎が『一平かの子 心に生きる凄い父母』の中で次のように書き残している。
多摩川の出水の時などは、裸で泳ぎわたる覚悟でかけつけたエピソードは有名だ。そんな非情な状況にロマンティックな夢をぶつけて、かの子をもらいにいったのだ。かの女の両親から「この娘は普通の子じゃない。一生めんどうをみてくれますか。」と念をおされて、誓ったそうだ。しかも血判をおしたという話もある。その誓いの言葉はかの子を対象にしているけれど、つまり人生に賭けたのだ。そしてついに賭けとおした。
時にかの子は「タイラント(暴君)」と言われるほど激しい気性の持ち主だった。結婚後、一平の放蕩、実家の没落、文学青年であった兄・大貫晶川(おおぬき しょうせん)の死など、さまざまな不幸がかの子を襲う。絶望して自殺を考えたこともあったようだ。一方で早稲田のイケメン学生やエリート医師との恋愛など、恋バナにも事欠かなかった。一平との「奇妙な夫婦生活」については瀬戸内晴美の小説『かの子繚乱』に詳しい。
二人は男と女である前に芸術家だった。

ストーリー漫画の原型を創り出した岡本一平
朝日新聞社に入社し「漫画漫文」という新スタイルを確立
1912(明治45)年、帝国劇場で舞台美術の仕事に携わっていた一平は、友人で日本画家だった名取春仙(なとり しゅんせん)のピンチヒッターを務めたことがきっかけで、東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社版の前身)に漫画社員として入社する。当時の新聞社には挿絵や漫画を描く専門の社員が在籍していた。
最初はコマ画と呼ばれる挿絵を描いていた一平だったが、それだけでは飽き足らず、試行錯誤してコマ画に軽妙な短い文章をつけるという独自のスタイルを編み出した。これが「漫画漫文」である。
大正デモクラシーの嵐が吹き荒れるなか、1925(大正14)年3月に普通選挙法が議会で可決され、一平は朝日新聞に「普選案早わかり」というタイトルで10作品を発表。それまで一定額以上の納税者にしか与えられなかった選挙権が財産に関係なく25歳以上の男子に与えられるようになったことを、わかりやすく表現している。
文豪・夏目漱石も激賞
漫画漫文は評判も上々で、文豪・夏目漱石の目にも留まった。漱石が同僚に「新聞に掲載された挿絵を集めて一冊の本にしてはどうか」と話したというのを聞いた一平は、手持ちの絵を持って漱石宅を訪問する。漱石は一平の本の序文を書くことを快諾。序文の中で彼の作品、特に解題(げだい)の文章(画に添えられた文章)について激賞している。
普通の画家は画になる所さえ見付ければ、それですぐ筆を執ります。あなたは左右(そう)でないようです。あなたの画には必ず解題が付いています。そうして其(その)解題の文章が大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方が優(まさ)っているように思われるのさえあります。中略 貴方は画題を選ぶ眼で、同時に文章になる画を描いたと云わなければなりません。その点になると、今の日本の漫画家にあなたのようなものは一人もないと云っても誇張ではありますまい。私は此絵と文とをうまく調和させる力を一層拡大して、大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いて頂きたいような気がするのです。
夏目漱石 岡本一平著並画『探訪画趣』序 青空文庫より

一平がめざした「新風流」
1914(大正3)年、大正元(1912)年8月から翌(1913)年2月までの間に朝日新聞に掲載された一平の記事を集めた初の作品集が、『探訪画趣(たんぼうがしゅ)』というタイトルで出版された。彼は一躍時代の寵児(ちょうじ)となり、スターダムを駆け上がっていく。
一平は自身が目指した漫画の精神について次のように述べている。
「世態人情を穿って、それに可笑味(おかしみ)を差し添へる一風変つた風流」(岡本一平『漫画の世の中』(一平全集 第三巻)先進社 昭和4年 389頁 引用)
「一風変わった風流」こそ「新風流」であり、この言葉は一平漫画を考えるうえでの重要なキーワードだ。そして、それは高尚な趣味をいうのではなく、「古い芸術の型を破って、新しいものを創造する(『一平かの子 心に生きる凄い父母』岡本太郎)」ことであった。
ストーリー漫画の元祖として
1915(大正4)年、新聞社の漫画記者たちによって日本初の漫画家集団「東京漫画会」が組織され、一平は会長格となる。1921(大正10)年にはこの会の同人18名が日本橋を起点に東海道自転車旅行を行い、翌年に『東海道五十三次漫画絵巻』を制作。一平は日本橋、神奈川、静岡、三島を担当している。「東京漫画会」は1923(大正12)年に発展的解消して「日本漫画会」(一平は会長格)となり、日本の漫画界を盛り上げた。
一平は『探訪画趣』に続いて、活動写真館の思い出を書いた『へぼ胡瓜(きゅうり)』(1921年)や映画の表現方法にヒントを得て漫画の中にストーリー性を盛り込んだ『映画小説・女百面相』(1922年)、関東大震災直前の夜の銀座を描く『漫画漫詩の東京』を収録した『一平漫画』(1923年)などを続々と刊行。
一平漫画は、都市のインテリ層、文学作品の愛読者層にも共感を与え、大衆化しつつある漫画のファン層をさらに拡大することになる。
『岡本一平 漫画漫文集』清水勲編 岩波文庫
彼は後に唯野人成(ただの ひとなり)という人物を主人公にした、『人の一生』という長編漫画小説を書いている。彼のすばらしいデッサン力とユーモアのセンスが漫画をアートの領域にまで高めたとされた。一平の作風は「漫画の神様」とも呼ばれた手塚治虫にも影響を与え、同時代に活躍した北澤楽天(きたざわ らくてん)とともにストーリー漫画の元祖ともいわれている。

世界という桧舞台へ 一平の海外取材旅行
岡本一平はその生涯で二度、海外へ取材旅行に出かけている。
最初は1922(大正11)年。当時、漫画や記事を寄稿していた「婦女界社」からの要請を受け、同社の社長であった都河龍(つがわ しげみ)と共に出発し、4カ月間にヨーロッパやインド、東南アジア諸国をめぐった。この旅行のことは『世界一周の絵手紙』、『紙上世界漫画漫遊』(1924年刊)にまとめられている。一平はアメリカの新聞社で記者たちが見守る中、漫画を描き、その作品はワールド紙(当時、ニューヨークで発行されていた新聞)に掲載されたという。
二度目は1929(昭和4)年。朝日新聞の特派員としてロンドン軍縮会議の取材でヨーロッパへ。2年3カ月の間に9カ国をめぐるという長旅だった。同年5月に刊行した「一平全集」全15巻に5万セットという途方もない数の予約が入り、金銭的な余裕もあったようだ。東京美術学校の生徒だった太郎は休学し、かの子と共に同行。パリで両親と別れ、以後、約10年をパリで過ごす。
岡本一家の洋行は新聞記事にもなるほどだった。
この時、一平は家族以外に二人の男性を連れて行った。縁あって岡本家に下宿し、執事のような役割を果たしていた恒松安夫(つねまつ やすお)と、慶応病院の医師・新田亀三(にった かめぞう)である。新田はかの子の恋人であり、当時、恒松と共に岡本家に同居していた。
一平はロンドン軍縮会議に出席した各国の要人たちの様子や政治情勢、訪問したヨーロッパの国々の暮らしぶりなどを、朝日新聞に『軍縮会議漫画』や『ドイツ画信』、『ふらんす画信』として連載。名刺代わりに「朝日新聞」で連載していた『新水や空』を持って行って、海外の漫画家に贈っている。日本の漫画が欧米のそれに比べて勝るとも劣らぬものであると認識できたからだろう。

戯画の真髄を継承する『新水や空』
一平の二度の海外旅行を挟み、東京朝日新聞で新たな連載が始まった。それが『新水や空』である。これは当時人気のあった俳優と政治家の風刺似顔絵で、そもそもは文人・坪内逍遙による一平への画の注文がきっかけだった。
坪内逍遙はシェイクスピア全集を翻訳するなど日本の近代文学の発展に貢献した人物である。感激した一平は、原画をすべて早稲田大学演劇博物館に寄贈するつもりで描き始めた。演劇博物館は坪内逍遙(つぼうち しょうよう)の古稀(70歳)の祝いとシェイクスピアの作品全訳を記念して建てられている。
『新水や空』というタイトルは、江戸時代に大坂で活躍した浮世絵師で戯画作者の耳鳥斎(にちょうさい)が描いた『水や空』にちなんだものだ。耳鳥斎は俗称を松屋平三郎といい、独学で学んだ脱力系の絵を洒脱なタッチで描いた奇才であり、これまでに和楽webでも紹介されている。
しかし、『新水や空』は耳鳥斎のパロディではなく、物真似でもなかった。一平は『鳥獣人物戯画』に始まる日本の戯画の歴史にも造詣が深く、毛筆によるシンプルだが流麗なタッチは人物の特徴を見事に捉えている。原画は「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」に所蔵されている。
アイキャッチに使った画像は、『新水や空』に登場する7代目松本幸四郎だ。鬼退治で知られる渡邊綱(わたなべのつな)を演じる幸四郎はぎょろりと目を剥(む)き、左手を刀に添えて見栄(みえ)を切っている。劇場内の目が幸四郎一点に集中する。迫真の演技だが、一平の手にかかると、どこかユーモラスで愛嬌(あいきょう)たっぷりの綱になる。特にその表情は新聞読者の目を釘付けにせずにはおかない目力の豊かさと気迫に満ちている。それは歌舞伎の本質をついているのではないか。







一平漫画界から引退 そしてかの子の死
大人気だった一平の漫画塾
大正末期から昭和初期にかけて一平は漫画家として絶頂期にあった。近藤日出造や杉浦幸雄など数多くの若い漫画家志望者が一平の家を訪ねてくるようになり、一平は彼らを集めて漫画について語り合う会をつくった。いわば一平の漫画塾である。しかし、授業料は一切とらず、時には近所の料理屋で飲み食いしながら語り合うこともあったらしい。一平が鍛えたのは彼らの技術ではなく、漫画家としての精神だった。最盛期には60人もの青年たちが一平の話に耳を傾けたという。そして彼らは後に漫画界の主流になっていく。
こうした時代の流れの中で、1936(昭和11)年、一平は東京朝日新聞の漫画ページに連載した風俗漫画「ニュースモンガー」を最後として同新聞への定期連載を終える。事実上の漫画界からの引退だった。
観音さま・阿弥陀さま
1939(昭和14)年2月18日、旅行中に脳溢血で倒れ、療養していたかの子はこの世を去った。パリに留学中だった太郎のもとには「いのちをしぼり出すような、絶望と苦悶にみちた父の手紙が届いた。」という。
親父はかの子の死をだれにも知らせず埋葬をすますや一週間ほど泣きくらした。ようやく訃報(ふほう)がもれて、集まって来る弔問客の前で、流れる涙をぬぐいもしなかった。『一平さんは本当に血の涙を流しましたよ。』と人はいっている。『一平かの子 心に生きる凄い父母』
かの子は妻としても母としても、良妻賢母には程遠く、常識という物差しで測るのは難しい女性だった。彼女の行動は人々から理解されず、非難を浴びることも多かった。しかし、一平はかつて自分が放蕩に耽って彼女を傷つけたことを深く反省しており、苦しみ悩んだあげく、二人は仏教に拠り所を見出した。一平はかの子を観音さま、かの子は一平を阿弥陀さまと呼んだという。
多くの場合私はパパと呼ばれ、私は彼女をカチ坊ちゃんと童女的な名で呼び慣わし、私が父長の位置に立つように思われたが、かの女が眠り去ると、私は実質的に、彼女の並々ならぬ母性に覆われていたことを思い知り、今更孤児の感に堪えなかった。」(『かの子の記』岡本一平著)
一平、「第三の外遊」で岐阜へ
土着の文芸・狂俳と出会う
かの子の死後、しばらく遺作の整理や発表などに追われた一平だったが、1941(昭和16)年、浜松で知り合った山本八重子という女性と再婚。1944(昭和19)年、58歳の彼は家族を連れて浜松に疎開する。しかし、浜松も空襲が激しくなり、岐阜県西白川村に戻っていた新田亀三の家に身を寄せる。
西白川村は現在の加茂(かも)郡白川町の一部で、岐阜県の東部に位置する。世界遺産の白川村ではない。東濃ひのきという材木や白川茶の産地としても知られる。一平はここで、「狂俳(きょうはい)」と呼ばれる土着の文芸を知る。
狂俳はお題に対して、5.7または7.5の計12文字で笑いや風刺を表現する言葉遊びの一種だ。江戸時代に三浦樗良(みうら ちょら)という伊勢の俳人が考案し、美濃の俳諧師・東坡(とうは)に伝えたとされる。季語も使わず、普段使いの口語で詠めるとあって東美濃を中心に庶民の間に広まった。
「漫俳吟社」の設立
もともと文芸に強い関心のあった一平は、狂俳との出会いをきっかけに「漫俳(まんぱい)」という新しい文芸を提唱していく。漫俳は漫風ともいい、「俳句の持つ風雅と川柳のねらう穿ちとユーモアを盛り、生活や感情を表そう」(『白川町と岡本一平』丹羽平一 出典は『漫俳のふるさと 岡本一平の文学と絵画』)というものだった。一平の『漫俳作句控帳』の冒頭にある「お粥腹減らさぬように笑わそう』という句は、当時の一平の思いをよく表している。食糧難でおなかをすかしていた人々に、笑いとユーモアで生きる活力を呼び覚まそうとしたのだった。
1946(昭和21)年8月、白川町三川で「漫俳吟社」が設立され、翌年には同地の小学校に漫俳発祥を記念して、「三つ川の水を盥(たらい)にうぶ湯かな 一平」の句碑が建てられた。
三つ川とは地名ともなっている。合流する三川(白川・黒川・赤川)という意味と、俳句・川柳・雑俳の三文芸の総合する意味がかけてあり、新文芸の発祥を祝っている。『「第三の外遊」と「第三の青春」岐阜の一平』 可児光生著 出展『岡本一平展図録』
同時に季刊誌『漫風(まんぷう)』が創刊された。親交のあった濃飛新聞編集長の一ノ瀬武(いちのせ たけし)が紙上で漫俳を紹介すると、多くの人々の知るところとなり、一平は各地へ講演会に招かれることも多くなった。当時の新聞コラムによれば、一平は狂俳を新時代の文化にあわせて改良しようという思いを強く持っていたようだ。


美濃加茂への転居と糸遊庵
西白川に住んで1年4カ月ほど経った頃、一平は同じ加茂郡内の古井町(こびちょう)に転居する。
古井町は美濃太田と並んで現在の美濃加茂市の中心部に位置し、町の中を旧中山道が通る交通の要衝。南には木曽川が流れ水運も盛んだった。また人々の文化交流や活動も盛んで、県内では岐阜市と並ぶ岐阜県南部の中核都市だった。
一平は一ノ瀬武や渡辺和郎といった新聞記者たちと交流を深めながら、地域に溶け込んでいった。
太田宿中山道会館の敷地内には、一平が家族と共に暮らしていた糸遊庵(しゆうあん)が移築(一部復原)されている。一平の肖像画、作品、仕事場の様子などが再現されており、ありし日の一平を偲ぶことができる。

一平が夢見た地方文化の革新
戦争終結と共に地方に疎開してきた知識人が東京へ戻りつつあるなか、一平は家族と共に悠然と古井に暮らしていた。「いつも子どもを連れて町を歩き、『いっぺいさ』と町の人から慕われていた。」と、美濃加茂市民ミュージアムが発行した「岡本一平展」の図録の中で、学芸員・可児光生(かに みつお)さんが書いているが、それを裏付ける体験談を私は友人から聞いている。そして、それが本稿を書くきっかけにもなったのだった。
友人のおかあさんは美濃加茂市の出身で、戦後、電車の中で岡本一平に遭遇したというのである。ベルトの代わりに荒縄を腰に巻くといった、たいへんみすぼらしい格好をしていたが、気品があり“一平先生”であることはすぐにわかったようだ。別れ際におかあさんは一平が描いた掛け軸をもらったらしい。
息子の太郎も「一平かの子 心に生きる凄い父母」の中で、当時の父の様子を『つばのすっかり垂れ下がった敗れ帽子に草履履き、水筒など肩から下げて、不精ひげは伸ばしほうだい、コジキ同然のかっこうで、『フンニャラ、フンニャラ、フンフンフン』と歌のような、わけのわからない文句をくちずさみながら、ひょうひょうと町をあるいていた」と書いている。
一平はなぜ、東京に戻ろうとしなかったのか。都会育ちだが、彼には自然に親しむ地方の暮らしは新鮮で性に合っていたらしい。そして岐阜で出会った狂俳をこれまでにない日本文化の一ジャンルとしてブラッシュアップし、地方から都会へ発信することに今後の人生を賭けようと考えたのだろう。それは岐阜に来て彼が見出した生きがいであり、新たな芸術を生み出すことへの挑戦だった。
一平は壮年期、漫画に新たな価値観を与え、改革した。その実現過程が第二の青春であるとすれば、図らずも「第三の外遊」の機会を得て可能となった、地方文化の革新活動(※「将来に重要性を持つであろう地方文化の研究のため」と一平は述べている。『漫俳日記』昭和21年11月8日条)こそがまさに一平の「第三の青春」であった。一平は全情熱を傾け、地方に居続けて自らそれを実践しようとしたのである。 『岡本一平展』図録 美濃加茂市民ミュージアム学芸員 可児光生
美濃加茂で一平が詠んだ漫俳の一つに次の一句がある。
「木曽川と枕を並べ昼寝かな」(漫俳誰が門はしがき(三十五))
なにものにも煩わされず、木曽川のほとりでのんびりと自由気ままな暮らしを謳歌する一平の姿が見えるようだ。

一平の終焉
しかし、一平の思いは途中で潰(つい)えてしまった。
1948(昭和23)年、美濃加茂市古井町の自宅で脳溢血(のういっけつ)で急逝。62歳だった。
葬儀には東京から太郎や横山隆一(よこやま りゅういち)、近藤日出造(こんどう ひでぞう)など一平の弟子たちが駆けつけ、師の早すぎる死を悼んだ。そして太郎の提案により、「岡本一平万歳!」の声に送られて一平は二度と帰らぬ旅に出た。
一平の急逝により『漫風』の発刊はとん挫したが、発祥の地・白川町では今も漫俳の研究や投句が続けられ、「こども漫俳」が行われるなど地域の人々に親しまれている。一平が岐阜に来て描いた色紙や短冊、掛け軸などもいくつか残されている。
一平は文才と画才を併せ持った稀有な漫画家だった。新聞というジャーナリスティックな活躍の場を与えられ、社会や世相を鋭く観察する視点を持ちながらウイットに富んだユーモアと人情ある温かみを添えることで、ポンチ絵(滑稽な風刺画)に過ぎなかった漫画を芸術の域にまで高めた。
甲子園の大観客席を「アルプススタンド」と名付け、また、昭和のお茶の間を賑わせた「ドリフ大爆笑」のテーマ曲の原曲になる「隣組」の歌詞を作ったのも一平である。
「常に、若さと創造の熱意をもっていた」(『一平かの子 心に生きる凄い父母』岡本太郎著)一平は、新風流を求めて生きる永遠の青年だったのかもしれない。



(取材協力)
美濃加茂市民ミュージアム
〒505-0004 岐阜県美濃加茂市蜂屋町上蜂屋3299-1
太田宿中山道会館 〒505-0042 岐阜県美濃加茂市太田本町3丁目3-31
(参考文献)
岡本太郎『一平 かの子 心に生きる凄い父母』(チクマ秀版社)
美濃加茂市民ミュージアム『世態人情を描く 岡本一平展』
清水勲編『岡本一平 漫画漫文集』(岩波文庫)
細木原青起著『日本漫画史 鳥獣戯画から岡本一平まで』(岩波文庫)
瀬戸内晴美『かの子繚乱』(講談社)
岡本一平『かの子の記』
『漫俳のふるさと 岡本一平の文学と絵画』白川町文化協会

