松平定信が隠密を使って集めた膨大な風聞
『よしの冊子』は天明7(1787)年〜寛政5(1793)年頃まで、江戸城及び市中に流布していた「噂」「流言」の類いをまとめた風聞集です。文末に「候由(そうろうよし)」、すなわち「〜ということのようです」という意味で「由(よし)」を使っていることから、文政年間(1820年前後)に『よしの冊子』と呼ばれるようになりました。

根拠に乏しく、真偽も定かではない風聞を大量に集めているという性格上、歴史学の研究対象にはなりづらい文書でした。しかし、編纂(へんさん)した水野為長(みずの・ためなが)は御三卿の田安家家臣で、寛政の改革を主導した松平定信の側近です。『べらぼう』の9月7日放送回で、屋敷の廊下を歩く定信に家臣が文書を手渡す場面がありましたが、あの家臣が為長、文書が『よしの冊子』の草稿という設定と思われます。そう、つまり『よしの冊子』は為長が定信に提出した極秘の“報告書”でした。
何を報告していたのか——主に世間で噂されている役人たちの性格・評判などで、当然悪い噂も多くありました。歴史学者の山本博文は「これほどの情報が権力者(定信)の手元に集められていたのかと思うと背筋が寒くなる。それだけに面白く稀有な記録」と述べています(『武士の評判記』新人物ブックス)。
ドラマではさらに、「もっと(噂話を)集めよ」と指示した定信の意を受け、為長が廊下の襖を開けると、庭に老若男女がズラリと侍(はべ)っていました。あの者たちは江戸城内部や市中に散って情報を収集していた隠密、つまりスパイです。
実際、定信は隠密を駆使して風聞を収集し、それが『よしの冊子』に結実したといわれています。では、どのような“ネタ”を定信は得ていたのか、『べらぼう』の登場人物を例に見ていきましょう。
何の害もない松平康福
【松平康福(まつだいら・やすよし)/演:相島一之さん】
康福は定信の仇敵・田沼意次が実権を握っていた時代の老中で、娘は意次の子・意知に嫁いでいました。本来であれば意次が失脚したときに粛清されていたはずですが、その後約10カ月、なぜか政権に居残っていました。評判が次のようなものだったからです。
「温厚、何の害もこれ無く」
定信が老中首座になると、江戸城内で十間(約18メートル)も後ろをひっそりと歩いたと書かれています。また、老齢を理由に「登城勝手次第、退出勝手次第」、つまりいつ老中を辞めても良いと申しつけられると、世間では「まもなく御役御免のようだ」「もっと早く自分から身を退いた方が良いのに」と、噂になったようです。免職されたのはその噂の2カ月後でした。
次第に定信と対立する本多忠壽
【本多忠壽(ほんだ・ただかず)/演:矢島健一さん】
定信が老中首座に就いた頃の江戸城では、「学問は西下(定信のこと/屋敷が江戸城西の丸下にあったため)、経済は本多」といわれていました。教養は定信、経済政策は本多忠壽が長けているという意味です。
先祖は徳川四天王の本多忠勝で、忠勝の曾孫にあたる本多忠以(ただもち)の末裔です。名門であり、周囲から一目置かれた譜代大名だったでしょう。定信によって若年寄に任命され、のちに老中格(老中に準ずる)となります。

定信が忠籌を抜擢したのは、
「賄賂無きは越中様(定信)と本多ばかりなれば」
賄賂に無縁の清廉な人柄と評されていたから——と、『よしの冊子』にあります。一方で、忠籌の藩(陸奥国・泉藩)の財政が厳しかったことから、権力の中枢にいる以上は取り入ようとする者も出てくるから、清廉のままでいられないだろうとの噂も流れていたようです。
そこで定信は、まず忠籌を側用人に登用し、次いで泉藩に5000石を加増して老中格(老中に準じる)とします。資金繰りが厳しいなら加増で賄えという意図だったのでしょう。
ところが、逆に悪い噂が立ち始めたらしいのです。
「本多候は(賄賂を)御取り無くとも、家来悪しき由」
忠籌はともかく、家臣が賄賂を取るようになった——というのです。9月21日放送回、定信が「そなたが賄賂を受け取っているとの報告があった」と忠籌を詰問するシーンは、『よしの冊子』にあるこの記載を受けてのものでしょう。
この件が影響したかは不明ですが寛政5年(1793)7月、忠籌は徳川治済(演: 生田斗真さん)と協力し、定信の失脚を画策することになるのです。
天明の打ちこわしで失言を吐いた(?)曲淵景漸
【曲淵景漸(まがりぶち・かげつぐ)/演: 平田広明さん】
8月24日放送回、米不足の窮状を訴え出た群衆から「奉行所の役人が、飢饉が起きた昔は犬を食材にしたのだから今度もそうしろといった」と、怒りの声があがりました。この叫びが大衆を煽動(せんどう)し、「天明の打ちこわし」が始まります。
実際に「犬を食材に」と口にした役人がいたことは、『よしの冊子』も記しています。発言者は北町奉行の曲淵景漸です。
「昔飢饉の節は犬を食い、犬一匹が七貫文ずついたし候。この度も申され候」
この失言に激怒した町人たちが打ちこわしに及んだため、曲淵は責任をとらされて町奉行を更迭。江戸城西の丸留守居役という閑職へ異動になりました。もっとも、本当に曲淵が吐いた暴言だったかは定かではありません。幕府としては曲淵の失言と認知されてしまった以上、世論の収拾を優先して奉行の職を解かざるを得なかったのでしょう。

ただし曲淵は吏僚として優秀な人物だったため、定信は後に勘定奉行に任じ寛政8(1796)年まで要職にありました。
『よしの冊子』に頻繁に登場する長谷川平蔵
【長谷川平蔵/演:中村隼人さん】
天明の打ちこわしの鎮圧に力を発揮できなかった奉行所(曲淵)を尻目に、株を上げたのが将軍の警護や江戸城の警備を担当する実働部隊、御先手組(おさきてぐみ)の弓頭・長谷川平蔵です。
平蔵の名は『よしの冊子』によく登場します。というのも、江戸市中の町人から評判が良い半面、編纂者の水野為長が平蔵に嫌悪感を隠そうとしなかったからです。このため、評価は以下のように変遷していきます。
「長谷川平蔵は姦物と申し候。しかし時制をよく呑み、諸事物の入らぬ様に(出費がないよう)取り計らうので、町方ことのほか悦び候由」(天明7/1787年11月頃)
長谷川は姦物(かんぶつ/悪知恵などが働く人物のこと)といわれている。だが経費を削減しようとしている人なので、町人は歓迎しているという。
「長谷川平蔵、出精相勤め候(精を出して励んでいる)、されど高慢する事が好きで何もかもおれがおれがと申し候由」(天明8年10月)
仕事熱心だが何でもかんでも「おれが」としゃしゃり出て自慢する。
「先達は評判宜しからず、だが町方には奇妙に受け宜しく、西下(定信)も平蔵ならばと相成り候由」(寛政元/1789年4月)
最初は評判悪かったはずが、不思議なことに町方には受けが良く、しまいには「定信も平蔵ならば(安心)というようになった」と噂されている。
定信からも高評価されるようになったという流言に納得いかない、為長の苛立ちが読み取れます。さらに平蔵の町奉行への栄転へと、話題は進みます。
「平蔵は功をたて是非町奉行に相成りつもり候由」
10月5日放送回、平蔵に人足寄場の創設を命じた定信が、長谷川家が平蔵と、平蔵の父の2代にわたって町奉行就任を悲願としているとの話を聞いたゆえ、寄場が成功すれば考えても良いと持ちかけました。結局、平蔵が奉行に就くことはありませんでしたが、定信の巧みな人心掌握術を見るようでした。
大奥の権力者・大崎と定信は犬猿の仲
【大崎/演:映美くららさん】
最後に大奥について触れましょう。
「越中様、大崎の方を御覧遊ばされ別条もないかと、御家来同様の御挨拶に、大崎はっと御請け申し上げ、平伏いたし候由」(日付不明)
越中守(定信)が大崎に「久しぶりだが別条はないか」と家臣に接するような態度だったので、大崎は「はっ」と平伏した。

この件について儒学者の海保青陵(かいほ・せいりょう)は自著『経済話』で、もっと具体的に記しています。定信を幼少時から知っていた大崎が親しげに話しかけたところ、「私とおまえが同役(同等)と思っているのか、座が高い」と叱責されたこと、大崎も「私は主殿頭(とのものかみ/田沼意次)から、大奥では表の同役(老中)に匹敵する立場といわれておりました。そのように申されるなら、いまお暇を下さるべし」と応酬したこと。すると定信が「望み通りにただいま暇をやる」と申しつけ、大崎を罷免したと記しています。
大奥幹部の人事権は将軍にあるため、定信が大崎を罷免することは基本的にできませんから、海保のこの記述は誇張と考えられます。しかし、定信の威圧に大崎が不本意ながら屈服させられたことを、『よしの冊子』は示唆しており、実際に不仲だった可能性は低くなさそうです。
風聞が広まり定着してしまう怖さは現代と同じ
このように『よしの冊子』は、『べらぼう』に登場する人物の考証・設定に影響を与えていると考えられ、ドラマを鑑賞するうえで無視できません。
また曲淵景漸の「犬発言」などは、真偽不明の情報が拡散し、1人の政治家の失脚を招いています。一方、長谷川平蔵は幕府内では敵がいるものの町方で人気が広がり、名声につながっていきます。どちらもSNSに噂が拡散した結果、世論が形成され評価として定着してしまう状況に似ており、恐ろしさを感じます。
膨大な噂を耳にし、対処せざるを得なかった松平定信は、さぞかし人間不信に陥ったでしょう。

参考資料: 『武士の評判記 『よしの冊子』に見る江戸役人の通信簿』山本博文 新人物ブックス、『江戸の役人事情 『よしの冊子の世界』水谷三公 ちくま新書
アイキャッチ画像:『徳川盛世録』(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)にある、江戸城の登城日に大名たちが居並ぶ場面。こうした公式行事の裏で、武士たちに関する風聞は日常的に飛び交っており、それをまとめたのが『よしの冊子』だった。

