現在の秀吉像は江戸時代につくられた?
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」。
秀吉というと、この句を思い出す人も多いかもしれません。江戸時代につくられた戦国の3英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格をたとえた川柳で、「鳴かせてみせよう」は秀吉の、知恵と才覚で困難を切り抜けた姿を表現しています。「鳴かぬなら 殺してしまえ」の信長や、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう」の家康と比較しても、3人の中で最も魅力的な、性格の明るさが感じられるでしょう。ただし、江戸時代につくられた川柳ですから、秀吉の実像そのものと断定はできません。あくまでも江戸時代に、秀吉はそんなイメージで語られていた、ということです。
「鳴かせてみせよう」の秀吉のイメージは、現代の私たちも、あまり違和感を覚えません。ただ、この川柳以外で秀吉のイメージと問われて、皆さんはどんな姿を思い浮かべるでしょうか。おそらく多くの人は、ドラマや小説などで描かれた、笑顔を振りまいて周囲を味方につけ、成果を上げていく「人たらし」ぶりではないかと思います。その秀吉像のベースとなっているのは、小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』や、武内確斎(たけうちかくさい)の『絵本太閤記』。いずれも江戸時代に書かれたものでした。またそれらを下敷きに、昭和の作家吉川英治(よしかわえいじ)が『新書太閤記』、司馬遼太郎(しばりょうたろう)が『新史 太閤記』などの小説で描き、さらに映像化されるなどして、現在のイメージが一般に定着していきます。つまり私たちがイメージする明るい「人たらし」の秀吉像は、江戸時代につくられたものといってもよいのです。
鳴かせてみせようホトトギス
実は秀吉は存命中に、自分の来歴をかなり誇張や創作をまじえて語っていました。たとえば自分の母親・大政所(おおまんどころ)はかつて京都の公卿である萩中納言に仕えており、その時に寵愛を受けて身籠ったのが秀吉である、という話などがそうです。また母親が懐(ふところ)に太陽が入る夢を見て、自分を授かった、ともいいました。つまり秀吉は農民の子ではなく、貴人の血をひいており、さらに「日輪の子」という特別な存在である、と喧伝したわけです。そこには低い身分の出身であることを否定し、信長の後継者として正当な天下人であることをアピールするねらいがありました。また自分の出世話を面白おかしく語り、ライバルを破って天下を取る過程を正当化するためのセルフプロデュースを行っており、そうした話をベースにして江戸時代の『太閤記』などは書かれています。従って、意図的に「盛られた部分」を差し引かないと、秀吉の実像は見えてこないわけです。
『信長公記』が記す優れた資質と才覚
そこで、秀吉についての誇張や創作が少ないと思われる史料に目を向けてみましょう。天正10年(1582)以降、慶長15年(1610)頃までに成立したとされる、太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』です。太田牛一は織田信長の家臣で、秀吉について客観的に記すことができました。また『信長公記』はあくまでも信長の伝記ですので、秀吉を誇張する必要もありません。
『信長公記』に秀吉が初めて登場するのは、永禄11年(1568)9月12日の近江(現、滋賀県)六角(ろっかく)氏の箕作(みつくり)城攻めにおいて。佐久間信盛(さくまのぶもり)、丹羽長秀(にわながひで)ら織田家有力部将と並んで「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)」の名があります。秀吉が信長に仕えたのが永禄元年(1558)頃とされますので、農民出身ながら10年で有力部将の一角に名を連ねるのは、相当な出世といえるでしょう。『信長公記』には、秀吉が信長の草履を懐(ふところ)で温めたというエピソードはもちろん、美濃(現、岐阜県)鵜沼(うぬま)城主を秀吉が説得して味方につけた話も、墨俣(すのまた)一夜城築城の話も出てきません。従って秀吉の「人たらし」や才覚を物語るこれらのエピソードはのちに話が盛られた可能性があるわけですが、一方で秀吉が10年間で最底辺の身分から有力部将に出世したのは事実で、信長に認められる活躍をしたことを物語ります。
『信長公記』の元亀3年(1572)7月22日には、近江の浅井(あざい)氏配下の山本山城を藤吉郎が攻め、城内から出撃してきた100人余りの敵兵の半数以上を討ち取り、「信長から称賛されることひとかたならぬもの」であったと記されます。また実戦での活躍だけでなく、元亀4年(1573)7月の山城(現、京都府)淀(よど)城攻めでは、調略(内応工作)によって敵の有力武将2人を内通させ、城の攻略につなげるという、たくみな人心掌握術も見せました。なお元亀4年から『信長公記』は秀吉を木下藤吉郎ではなく、「羽柴秀吉」と記します。実際、同年7月に羽柴姓に改めたといわれるので、ほぼ史実と合致しています。そして同年8月末の近江小谷(おだに)城攻略、浅井氏滅亡で最大の手柄を上げたのが秀吉で、信長は北近江を秀吉に任せ、秀吉は城持ち大名となりました。信長に仕えて14年で城持ち大名になるというのは驚くべき速さの出世であり、秀吉の武将としての優れた資質と才覚がまぎれもない事実であることを裏づけています。
羽柴秀吉
飾り気がなく陽気な秀吉夫婦
『信長公記』から、秀吉が驚くべき出世をした有能な武将であることは事実とわかりますが、秀吉の性格や人間性まではなかなかうかがえません。そこで次に、天正4年(1576)に信長が秀吉の正室・寧々(ねね)に送った手紙を見てみましょう。これは寧々が安土(あづち)城の信長を訪ねたことへの返礼の手紙で、夫・秀吉の浮気に愚痴をこぼす寧々を励ます内容として有名です。
「(安土訪問と土産に感謝する文章に続いて)久しぶりに会ったが、そなたは以前にも増して美しさを増し、一段と見事である。それほどまでに美しい女性を妻に持ちながら、藤吉郎が何やらたびたび不足を漏らしているとは言語道断である。まったくけしからん。
どこをどう探したところで、そなたほどの女性を、あの禿鼠(はげねずみ)が二度と手に入れられるはずがない。
だからそなたも、これからは正妻として堂々と、明るく振る舞いなさい。嫉妬にかられて見苦しくしてはいけない。女房の心得として、言いたいことがあっても全てを口に出すのではなく、ある程度で留めておくのがよい。なお、この手紙は藤吉郎にも見せるように」(『木下家文書』、意訳:筆者)
「けしからん」「禿鼠」と、秀吉は散々な言われようであり、のちに寧々からこの手紙を見せられた秀吉が「ひぇっ」と身をすくめる姿が想像できます。とはいうものの、信長の言葉からは温かさが伝わってきます。それは浮気に腹を立てる寧々の肩を持ちつつも、「あなたは織田家重臣の羽柴秀吉の正室なのだから、それを自覚して振る舞いなさい」と、秀吉が織田家に必要な人材であることを、ユーモアをまじえて伝えているからでしょう。信長が秀吉夫婦を信頼していることがわかりますし、また夫婦間の問題まで主君に明けすけに語ってしまう秀吉夫婦には、「陽気さ」を感じずにはいられません。のちに秀吉が天下人となると、寧々は北政所(きたのまんどころ)と敬われる立場となりますが、何かあると秀吉夫妻は、諸大名が居並ぶ前でも尾張弁丸出しで口喧嘩を始めたといいますから、飾り気のなさは変わらなかったようです。秀吉の明るさ、親しみやすさのイメージは、伴侶の寧々によって増幅されている部分もあるかもしれませんが、陽気な夫婦であったことは間違いないでしょう。
寧々(北政所)
冷酷かつ残虐とされる秀吉の戦いぶり
秀吉の明るい「人たらし」というキャラクターは、意図的に盛って語られている部分は差し引く必要があるにせよ、基本的に信長が認める有能な武将であり、また夫婦ともに明るい性格であったといえるようです。では一方で、秀吉が冷酷で残虐であったとされる側面はどうなのか。いくつかの記録を見てみましょう。
1.『信長公記』の天正5年(1577)11月27日には、羽柴秀吉が播磨(現、兵庫県南部)の上月(こうづき)城を攻囲し、7日後、城内の者が城将の首を斬って持参、残りの者の命を助けてくれるよう嘆願した。秀吉は残党ことごとく引き出して、播磨と備前(現、岡山県南東部)、美作(みまさか、同北東部)両国の国境に磔(はりつけ)にしておいた、とある。
2.「三木の干(ひ)殺し」。秀吉は播磨最有力の地元勢力・別所(べっしょ)氏の三木城を、天正6年(1578)3月から1年10ヵ月にわたり兵糧攻めにする。城内の食糧は底をついて牛馬や鼠までも食べつくし、餓死者が続出したあげく、天正8年(1580)1月、別所一族の自害によって落城した。
3.「鳥取の渇(かつ)え殺し」。三木城攻略の翌天正9年(1581)6月、秀吉は因幡(現、鳥取県東部)の鳥取城を兵糧攻めする。あらかじめ城内の備蓄米を放出させ、また周辺農民を城内へと追い込んだため、2ヵ月で城内の食糧が枯渇した。城兵らは木の葉や草、稲の切り株、牛馬を食いつくして、次々に餓死していき、さらには餓死者の肉を奪い合う地獄絵図となる。この状況に毛利(もうり)家から派遣されていた城将・吉川経家(きっかわつねいえ)が城兵の命を救うことを条件に切腹、4ヵ月で鳥取城は落ちた。
残虐な行為の理由
いずれも凄惨な光景であり、秀吉の明るいイメージを打ち消すような戦いぶりと感じられるかもしれません。助命を求めてきた者を容赦なく磔にし、また敵兵を餓死に至らせることで城を攻略するというやり方は、現代人の感覚からすれば、冷酷かつ残虐そのものでしょう。しかし合戦とは基本、命のやりとりです。また命に対する価値の置き方も、現代とは異なっていました。現代では「人命尊重」が第一ですが、当時は家の存続や名誉が個人の命よりも優先され、家や名誉を守るために、命をどう使うか、という考え方をします。たとえば別所一族や吉川経家は、自分たちの命と引き換えに、将として城兵を救う名誉を重んじました。敵であった秀吉もそれを理解し、敬意を示しています。
そしてもう一つ、秀吉には家の存続や名誉よりも、さらに重んじなければならないものがありました。主君である「信長の意思」です。速やかな「天下静謐(せいひつ)」を目指す信長の期待に応えるために、いま最優先でなすべきことは何か。秀吉の判断の基準は、そこにありました。秀吉の冷酷かつ残虐とされる戦い方も、その点を押さえないと本当の理由を見誤ってしまうでしょう。
たとえば助命を求めてきた上月城の城兵を、磔にした理由。それは「見せしめ」でした。実は城兵の中には、かつて織田方に味方しながら裏切った者もいます。秀吉は城兵を播磨、備前、美作国境で磔にすることで、播磨の地元勢力だけでなく、これから衝突するであろう備前の宇喜多(うきた)氏やその背後の毛利氏に、「織田は裏切り者、敵対する者に容赦しない」ことを見せつけました。つまり残虐ゆえに磔にしたわけではなく、それを行うことが戦略上プラスに働くと読んでいたのです。
また三木の干殺し、鳥取の渇え殺しの兵糧攻めについては、自軍の損失を出さずに確実に勝利できるという最大のメリットがありました。三木城も鳥取城も守りの堅い城であり、まともに攻めれば自軍に相当な損害が出ることは免れません。秀吉が信長から与えられた任務は、速やかな中国地方の平定であり、一つひとつの城攻めのたびに兵力を失っていては、補充もままならず、速やかな平定など覚束ないという事情がありました。また三木城、鳥取城で徹底的な兵糧攻めを見せつけることで、秀吉に城を囲まれたら降伏するしかないと、敵に思わせる効果も期待できたのでしょう。
兵糧攻め
助命を乞う敵兵の磔も、敵兵を餓死させる兵糧攻めも、それだけを見れば残虐な行為ですが、秀吉はそれが戦局に与える効果を計算し、中国平定を効率的に進めるための手段として実施していました。その背景にあるのは、「信長の意思」です。こうした戦いぶりは他の方面における織田家有力武将も大同小異であり、秀吉を残虐というのであれば、他の諸将も同様に評価しなければならないでしょう。
秀次事件に見る秀吉の変貌
合戦における秀吉の残虐行為が、「信長の意思」に基づく冷徹な計算から行われたものであるならば、信長の死後、秀吉が天下人になったのちの残虐行為はどう考えればよいのでしょうか。その中でも最大の残虐行為とされるのが、甥の秀次とその妻子ことごとくを処刑した事件です。
「秀次事件」。実子のいない秀吉は、姉の子・秀次を養子とし、関白の位を譲って後継者とした。ところが文禄2年(1593)、側室淀殿が拾(ひろい、のちの秀頼)を生むと、秀吉は拾を跡継ぎに望むようになり、秀次が邪魔になる。やがて秀次に謀叛の噂が流れ、秀次は弁明の機会すら与えられぬまま関白を解任され、文禄4年(1593)7月、高野山に追放。秀次は無実を訴えながら、切腹した。秀吉はそれにあきたらず、秀次の妻、側室、子ども、侍女39人を京都の三条河原に引き出して、ことごとく斬首した。
何ともむごたらしい事件で、もちろんここには合戦時のような、秀吉の冷徹な計算はありません。むしろ有力な親族を滅ぼしたことで、将来的に秀頼を支える存在がいなくなり、豊臣家の崩壊はここから始まったともいわれます。最近の説では、秀吉に秀次を切腹させる意思はなかったものの、秀次は不当な扱いへの抗議と、身の潔白を主張するために切腹。秀吉はこれを「自分への復讐」と受け取り、秀吉の命令に背いたことへの報いとして、女性や子どもたちを処刑したともいわれます。いずれにせよ、秀吉が絶対権力者として罪のない人々の命を奪ったことに変わりはなく、かつての明るく、親しみやすい秀吉とは別人を見るような思いがします。
豊臣秀次
秀吉が変わってしまった理由、その1つは天下人になったのち、淀殿の出産により、実子を後継者にしたいという妄執(もうしゅう)が生まれたことでしょう。秀頼が生まれる4年前、淀殿は第1子の鶴松を出産しますが(数え3歳で病没)、そのときも秀吉は、苦楽をともにした弟の秀長を遠ざけています。鶴松を跡継ぎとするのに、邪魔になると思ったのでしょう。そして秀頼が生まれる前年に秀長が没すると、秀吉にブレーキをかけられる存在がいなくなりました。それが、秀吉が変わった2つ目の理由です。もし秀長がもう少し長命であれば、秀次事件は起きておらず、豊臣家の運命も変わっていたのかもしれません。秀長没後の秀吉の暴走については、跡継ぎ問題の妄執と、ブレーキ役がいなくなって裸の王様になってしまったこと、さらに老人性の疾患なども指摘されています。なお晩年の秀吉のみを見ると、「サイコパス(反社会性パーソナリティ障害)」という概念に合致する部分もありそうですが、秀吉の生涯すべてに当てはまるわけではなく、決めつけることはできないでしょう。
さて、秀吉が明るい「人たらし」なのか、冷酷で残虐な人物だったのかを考察してみました。明るい「人たらし」については、秀吉自身が盛って語った部分はあるものの、基本的に陽気な性格であり、また信長が認める有能な武将であったことは間違いありません。一方、合戦における冷酷で残虐な戦いぶりについては、「信長の意思」を汲んで、最も効率的な手段として選んだものと考えるべきで、そこだけを見て現代の感覚で冷酷で残虐だったとするのは当たらないでしょう。ただし晩年、特に秀長の没後は、権力者として暴走しているのは間違いなく、そこは分けて検証すべきではないかと考えますが、皆さんはどうお感じになったでしょうか。
参考文献:太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)、堀新、井上泰至編『秀吉の虚像と実像』(笠間書院) 他
アイキャッチ:豊臣秀吉画像、佐賀県立名護屋城博物館所蔵

