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2026.04.23

織田信長はなぜ、松永久秀の裏切りを2度も許そうとしたのか

「松永弾正(まつながだんじょう)」の通称で一般的に知られる戦国武将、松永久秀(ひさひで)。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では竹中直人さんが演じ、アクの強い存在感を示しています。松永久秀の後世のイメージといえば、英雄というよりも梟雄(きょうゆう)でしょう。梟雄とは有能である一方、目的のためには非道な策略もいとわぬ人物。特に久秀は、斎藤道三(さいとうどうさん)、北条早雲(ほうじょうそううん)と並んで、「戦国三梟雄」のひとりといわれることもあります(北条早雲の代わりに、宇喜多直家〈うきたなおいえ〉を入れる場合も)。しかし近年、研究が進み、久秀に対する見方は、従来のそれから変わってきています。はたして、久秀の実像とは? また、裏切りを絶対に許さない織田信長が、裏切りを繰り返す久秀だけは、なぜ許そうとしたのか。その真相を探ってみましょう。

「戦国三梟雄」は同じ出身地か

松永久秀の後世のイメージに、大きく影響したであろうエピソードがあります。

「徳川家康が織田信長に対面した際、かたわらに松永弾正久秀がいた。信長は言う。『この老翁は、常人にはとてもできないことを三つもやってのけた。将軍足利義輝(あしかがよしてる)を弑(しい)し奉り、また己の主君である三好長慶(みよしながよし)を殺し、さらには奈良の大仏殿を焼いた、松永と申す者である』。松永は冷や汗をかき、赤面した」(「信長公松永弾正を恥しめ給いし事」『常山紀談(じょうざんきだん)』、意訳は筆者)

将軍を殺し、主君を殺し、大仏を焼いたという、松永の「三悪事」を語るエピソードです。しかしこれを記す『常山紀談』は、江戸時代半ばに学者が書いたもの。内容は必ずしも史実とはいえず、後述しますが、これらを久秀のしわざと決めつけることはできないようです。順を追って、見てみましょう。

松永久秀は永正5年(1508)、摂津国五百住(よすみ、現、大阪府高槻市)に生まれたとされます。誕生地にはいくつか異説があり、中でも印象的なものとして、

「北条早雲、斎藤道三、松永久秀はいずれも、山城国西岡(にしのおか、現、京都市西京区、向日市、長岡京市)に生まれた」

という説もあります。「戦国三梟雄」が同じ出身地となれば大変興味深いのですが、これは斎藤道三が西岡の油売りだった、という伝承から生まれた俗説でした。詳細は不明ながら、久秀は五百住の土豪(どごう)の出身と考えられています。久秀が誕生した年、足利義稙(よしたね)が2度目の将軍就任。幕府の実権は将軍ではなく、細川(ほそかわ)氏や畠山(はたけやま)氏などの有力大名が握っていました。

「梟雄」とは梟(フクロウ)の雄(オス)が気性が荒く獰猛(どうもう)と言われることに由来しているとか。

長慶を「天下人」へ

松永久秀が歴史の表舞台に登場するのは、天文9年(1540)、33歳のとき。主君である三好長慶が出した所領安堵の文書に、添状(案内状)をつけていました。また、三好家の重臣たちと連名で文書を発給しています。久秀がいつ頃三好家に仕えたのかはわかりませんが、代々の家臣ではない新参者ながら、33歳で長慶を支える重臣のひとりにまで昇進していたことがうかがえます。

ここで久秀の主君、三好長慶について簡単に紹介します。長慶は阿波(現、徳島県)を本拠とする三好氏の当主です。長慶の父・元長(もとなが)は、室町幕府の重鎮・細川晴元(はるもと)に仕え、晴元が幕府の実権を握る際の功労者であったにもかかわらず、晴元によって謀殺されました。長慶は父の仇である晴元と和解し、阿波や摂津(現、大阪府北部、兵庫県東部)の地盤を固めつつ、細川政権下で力を蓄えます。やがて晴元と対立を深めた長慶は天文18年(1549)、摂津江口の戦いで晴元方に勝利。晴元は13代将軍足利義輝とともに、近江(現、滋賀県)に逃れ、代わって京都に入った長慶が政治の実権を握りました。このとき、42歳の久秀は訴訟(そしょう)などを取り扱う奉行的な立場で、三好政権の重要人物として、内外から認められる存在になっていました。

また久秀は文官としてだけでなく、武将としても優れた器量を示します。天文20年(1551)、巻き返しを図る細川晴元方が京都の相国(しょうこく)寺に陣を張ると、久秀は弟の長頼(ながより)とともに、4万もの軍勢を集めて打ち破りました。久秀の実弟・長頼も、優れた武将であったといわれます。

翌天文21年(1552)、長慶と将軍足利義輝が和睦。潜伏先の近江から京都に戻る義輝を、逢坂(おうさか、現、大津市)で迎えたのが、三好長逸(ながやす)と久秀でした。両名が、当時の三好政権のツートップです。そして長慶は、将軍義輝より幕府御供衆(おともしゅう)に任ぜられました。これで長慶は細川氏の家臣ではなく、将軍の直臣(じきしん)となります。その後も長慶と将軍義輝は決裂と和睦を繰り返しますが、長慶が畿内の大半を掌握し、また将軍が京都に不在でも三好政権が機能したことから、この頃の長慶を、信長に先駆けた「天下人」とする見方もあります。長慶を天下人とするならば、その右腕が松永久秀でした。のちの豊臣秀長と、似ていなくもありません。

三好氏家紋「三階菱に五つ釘抜(くぎぬき)」

三好政権と久秀の最盛期

三好政権では実権を長慶が握り、細川氏や畠山氏など、かつて室町幕府の最高職「管領(かんれい)」を務めた有力大名は、名門として長慶に協力しました。そんな中、畠山氏の家中で、安見宗房(やすみむねふさ)が頭角をあらわし、当主の畠山高政(たかまさ)と対立します。三好政権に協力する畠山高政に対し、安見は反三好陣営と結託。やがて安見は大和(現、奈良県)の地元勢力・筒井順慶(つついじゅんけい)の後ろ盾となり、勢力を広げて高政に反抗しました。三好長慶は畠山家中の紛争の解決、大和の平定を目指します。そこで白羽の矢が立ったのが、松永久秀でした。

大和国は古くより、興福寺(こうふくじ)や春日大社などの寺社と地元勢力が強く、幕府権力が及びにくい土地です。筒井順慶の筒井氏も、興福寺一乗院の衆徒(僧の姿をした武士)でした。永禄2年(1559)、大和に攻め込んだ久秀を大将とする三好勢は、順慶の筒井城(大和郡山市)を1日で攻略、順慶は逃亡します。

久秀はさらに軍勢を河内(現、大阪府東部)に転じ、飯盛(いいもり)城(大東市、四条畷<しじょうなわて>市)を本拠とする安見宗房勢と戦いました。翌永禄3年(1560)には、安見宗房と畠山高政が和睦して三好に敵対する事態となりますが、三好長慶は畠山・安見勢を河内から駆逐し、河内を平定。久秀も大和を平定します。長慶は本拠をそれまでの芥川山(あくたがわさん)城(高槻市)から飯盛城に移し、一方の久秀は、大和と河内の境にそびえる信貴山(しぎさん)城(平群町)を新たな本拠としました。

同じ年、53歳の久秀は将軍義輝より「弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)」の官職に任ぜられました。また幕府御供衆にも任ぜられ、三好家重臣の枠を飛び越えて将軍の直臣も兼ねることになり、さらに翌年、「桐(きり)の紋」と「塗り輿(ごし)」の使用も許されます。これらは将軍から与えられる最高の栄誉であり、久秀の存在感が当時いかに大きなものであったのかがうかがえます。

もうひとつ注目すべきは、久秀が居城の信貴山城とは別に、新たに多聞山(たもんやま)城(奈良市)を築いたことでしょう。大和国を支配してきた興福寺のお膝元で、奈良盆地を眼下に収める北端の丘陵に、画期的な城を築きました。壁には白い漆喰(しっくい)が塗られ、屋根は瓦葺き。塁上には長屋状の櫓(やぐら)が連なり、これがのちに多くの城で用いられる「多聞櫓」の始まりです。また四階櫓と呼ばれる天主(てんしゅ)も備えたといわれ、宣教師のルイス・フロイスは「日本中で最良最美の城のひとつ」と記しました。まさに大和の新たな支配者が久秀であることを「見せるための城」で、こうした独自のアイデアが、織田信長の安土築城に多くのインスピレーションを与えたともいわれます。いずれにせよこの頃が三好政権、そして久秀にとって最盛期であったといえるかもしれません。
多聞山城、信貴山城位置関係(国土地理院地図を加工)

久秀は主君を殺し、将軍を討ったのか

三好政権の大きな転機は、永禄6年(1563)に訪れます。三好長慶の一人息子・義興(よしおき)が22歳の若さで病死。文武に優れ、後継者として期待されていただけに、長慶は激しく落胆しました。長慶は甥の義継(よしつぐ)13歳を養子に迎え、後継者としますが、この頃から心身のバランスを崩します。翌永禄7年(1564)、長慶は弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛城に呼び出し、殺害。冬康に謀叛(むほん)の疑いがあったという理由ですが、すでに長慶は正常な判断ができなくなっていました。その後、冬康殺害を悔やんだ長慶は病に倒れ、冬康の死から2か月後、病没します。享年43。

江戸時代初めに書かれたという軍記物『足利季世記(きせいき)』には、三好義興の病没は久秀による毒殺、また長慶による弟・冬康の殺害は、久秀がそそのかしたとありますが、現在は俗説とされています。客観的に見ても、三好政権の弱体化は重臣である久秀自身の立場を危うくするので、謀略とは考えにくいのですが、当時から「久秀が主家乗っ取りを画策したのでは?」と疑う者もいました。

いずれにせよ長慶の三好家は義継が継承、これを機に久秀は、家督を息子の久通(ひさみち)に譲って、政治の表舞台から退いていきます。三好家は新当主の義継を、長老格の三好長逸と、松永久通が支えるかたちとなりました。ところがこの3者が永禄8年(1565)、とんでもない事件を起こします。将軍義輝の殺害でした。同年5月19日、三好義継、三好長逸、松永久通ら1万の軍勢は京都の将軍御所を囲み、義輝に将軍側近の排除を求めます。が、真の目的は足利将軍の廃止だった、ともいわれます。結果、拒否した将軍義輝及び幕臣たちと衝突、義輝は討たれました。

このとき久秀は奈良にいて、事件に直接の関与はしていません。とはいえ息子の久通が首謀者のひとりである以上、久秀も計画を承知していたはず、とする見方があります。一方で久秀は、将軍義輝の弟で僧になっていた覚慶(かくけい、のちに還俗して義昭〈よしあき〉)の身柄を保護しており、その後、覚慶が無事に奈良を脱出している点から、久秀が息子らに同調していたのかは疑問です。そもそも久秀は将軍義輝から厚遇されており、義輝を討つ理由が久秀にあったでしょうか。

久秀が大仏を焼いたのか

将軍義輝の殺害後ほどなく、松永久秀と息子久通は、三好家中で失脚。理由は松永氏が押さえていた丹波国(現、京都府中部、兵庫県中東部)を敵に奪われ、また久秀が覚慶を逃がした失態を問われたためでした。当主三好義継を三好長逸、松永久通が支える体制から久通が消え、代わりに三好宗渭(そうい)、石成友通(いわなりともみち)が台頭、長逸・宗渭・石成の3者は「三好三人衆」と呼ばれます。三人衆は筒井順慶と結び、久秀の地盤である大和を脅かしました。孤立した久秀は、かつて戦った畠山高政と結びます。畠山高政は覚慶こと足利義昭の擁立を支持しており、久秀は畠山勢、及び旧幕臣らの協力を獲得しました。とはいえ三人衆に対し、劣勢が続きます。

ところが永禄10年(1567)、三好家当主の義継が三好三人衆から離れ、なんと久秀と結びます。三人衆はかねてより阿波三好家の協力を得ていましたが、次第に阿波三好家の発言力が増し、これに義継が反発、手を切ったものでした。三好家当主が味方についたことで、久秀方は退勢を挽回。苦しくなった三人衆が大和に侵攻して起きたのが、大仏殿の戦いです。東大寺に陣取る三人衆との戦いは半年余り続き、この間に美濃(現、岐阜県)を奪った織田信長より、久秀を認め、支持する内容の書状が届きます。信長は久秀の戦いを、義昭を将軍にするための支援ととらえていました。

同年10月10日、久秀は東大寺に陣取る三人衆に夜討ちをかけます。混乱の中、兵火が大仏殿に燃え移り、大仏は焼け落ちました。一般に久秀が大仏を焼いたとされますが、三好三人衆側の失火とする史料もあり、どちらが焼いたのか断定できません。いずれにせよ「将軍を殺し、主君を殺し、大仏を焼いた」という「三悪事」は、必ずしも久秀の所業とはいえないようです。なお、この戦いで久秀は三人衆を破るも決着には至らず、戦いが続く中、足利義昭を奉じた信長の上洛を迎えます。
東大寺大仏殿

将軍義昭の裏切り

永禄11年(1568)9月、上洛した信長の軍勢は摂津、河内の三好三人衆方の城を次々に攻略、三人衆は阿波に逃げ、畿内平定を果たしました。このとき、久秀、三好義継、畠山高政らも大いに協力しています。10月に15代将軍に就任した義昭と信長より、久秀は大和支配を承認されました。従来、久秀は上洛した信長に降伏したといわれますが、そもそも信長と久秀は協力関係にあり、敵対してはいません。なお久秀は信長上洛への礼として、名物茶器「つくも茄子(なす)」を贈っています。

大和領有を正式に認められた久秀は、筒井順慶ら地元勢力を圧倒する一方、頻繁に京都に出向き、幕府の主要メンバーとして公務を果たします。将軍義昭を支える最大の存在は信長ですが、久秀や三好義継、畠山らも将軍を支える点では同じで、彼らは信長に仕えたわけではありません。元亀元年(1570)、信長が将軍の命令に従わない越前(現、福井県)の朝倉(あさくら)氏を討伐する際、久秀も軍勢を率いて参加。近江の浅井(あざい)氏の裏切りで、越前金ヶ崎(かねがさき)で挟撃の危機に陥ると、久秀は近江の朽木(くつき)氏を説得して脱出ルートを確保し、信長を救います。

しかし浅井・朝倉に呼応して、三好三人衆が再び挙兵、さらに比叡山、大坂本願寺までもが敵に回り、信長は対応に忙殺されます。久秀や三好義継らは三人衆と戦いますが、幕府方は次第に追いつめられました。そこで久秀は三人衆に和議を働きかけ、元亀元年の暮れ、争乱はいったん鎮静化します。しかし三人衆と和睦したことで、三好氏は当主義継の下、久秀、三人衆がひとつに統合されるかたちとなり、久秀の意図とはうらはらに、幕府方が脅威を覚える存在となっていました。

一方、翌元亀2年(1571)6月、将軍義昭はあろうことか久秀の宿敵、筒井順慶に養女を嫁がせ、手を結びます。幕府の味方を増やすためですが、筒井を認めることはイコール、久秀の大和支配の否定でした。かつて覚慶時代に保護した義昭の裏切りに、久秀は幕府からの離反を決断します。
足利義昭

2度許そうとした信長

将軍義昭の後ろ盾を得た筒井順慶は攻勢に転じ、同年8月、辰市(たついち)城(奈良市)で久秀と衝突、久秀は重臣多数を失う惨敗を喫しました。それでも筒井順慶が久秀を倒すには至らず、大和は久秀が実効支配を続けます。筒井氏と戦う久秀を三好義継や三人衆らが支援し、三好氏と幕府方との対立は深刻さの度合いを深めていきました。元亀3年(1572)には久秀、三好義継と織田軍が、大和、摂津などで攻防を繰り広げます。そして同年暮れ、両陣営を驚かせる知らせが届きました。遠江(現、静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)において、武田信玄(たけだしんげん)が信長と同盟する徳川家康を打ち破り、さらに西に向けて進軍中、というものです。

信長と戦う久秀らにとっては朗報ですが、将軍義昭は激しく動揺しました。諸勢力の包囲網に苦しむ信長に、精強な武田軍が攻めかかればひとたまりもない……。元亀4年(1573)2月、変心した義昭は、信長に敵対を表明。信玄に上洛を求め、久秀らを許し、同じ陣営に立ったのです。義昭が筒井と結んだことから歯車が狂った久秀にすれば、どんな思いだったでしょうか。ところが4月、陣中で病が重くなった信玄が逝去。それでも義昭は槇島(まきしま)城(宇治市)で挙兵しますが、信長はたやすく攻略し、義昭を京都から追放しました。義昭は若江城(東大阪市)の三好義継に一時かくまわれたのち、諸国を流浪します。信長は、義昭を保護したことを理由に若江城の三好義継を攻め、義継は自害。三好氏の本流は、ここに滅びました。そして義継の死を機に、久秀は信長に降伏。多聞山城を明け渡し、久秀の大和支配は終わります。信長は、久秀を許しました。

その後、大和は信長家臣の塙直政(ばんなおまさ)の支配下に置かれ、久秀・久通父子は、織田方として大坂本願寺攻めに参加します。ところが天正3年(1575)、本願寺との戦闘で塙直政が討死。信長は大和の支配を、新たに筒井順慶に命じました。また多聞山城の解体を、順慶の指揮下で久通が務めます。天正5年(1577)8月、久秀・久通父子は本願寺攻めの持ち場を去り、信貴山城で挙兵。信長は久秀の離反の理由がわからず、

「秘蔵の平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜を渡せば許す」

と、伝えたともいいます。しかし久秀に降伏する意思はなく、炎上する城内で自刃しました。享年70。
平蜘蛛の茶釜

つらにくき男の誇り

松永久秀の生涯をたどると、有名な「三悪事」や三好家乗っ取りの野望は必ずしも事実ではなく、意外にも悪く語られるべき要素は多くありません。むしろ主君三好長慶を支え、戦いに優れ、ときに信長の危機を救う交渉を行い、画期的な城を築き、名物茶器を所有する文化人の顔も覗かせます。ヒール(悪役)として語られるのが不思議なほど、優秀な人物でした。ただ、優秀であることを久秀自身が十分認識しており、自分を高く売りつけるような、ある種の「押しの強さ」も見え隠れします。

たとえば信長が久秀を最初に許したとき。久秀は、許されるためのカードを用意しています。「多聞山城明け渡し」でした。久秀は信長が多聞山城の先進性に注目していることを知っており、

「おい小僧、俺を殺せば、天下人の城にふさわしいアイデアも消え失せるぞ」

と無言で自分を売りつけたのでしょう。信長が久秀の降伏を「つらにくき子細(小癪〈こしゃく〉な話)」と語っているのも、久秀が信長の本心を見透かしていることを察したからではないでしょうか。こうした押しの強い面が後年、「久秀ならば悪事をやりかねない」という梟雄のイメージにつながったのかもしれません。そして想像をたくましくすれば、信長はそんな男が嫌いではなかったのではないか。実父の織田信秀(のぶひで)、義父の斎藤道三にも通じる、乱世を実力でのし上がってきた男の姿を久秀に見ていたようにも感じます。

一方、2度目の離反は話が違います。久秀が戦線を離れ、信貴山城で挙兵したのは、信長に愛想を尽かしたからでしょう。なにより信長は大和を筒井順慶に与えるという、久秀のこれまでの苦労を全否定する最悪の選択をしました。さらに久秀の傑作である多聞山城の解体を、順慶の指揮下で行う屈辱を与えます。こうした「誇り」を踏みにじる信長のやり方に、異を唱えたのが久秀の挙兵ではなかったでしょうか。信長はそれが理解できず、久秀の才能のみを惜しんで再度許そうとします。折しも毛利(もうり)氏に保護された将軍義昭の策謀で、毛利、本願寺、上杉謙信(うえすぎけんしん)らによる新たな信長包囲網ができつつありましたが、久秀は単にそれに乗ったわけではないように感じます。むしろ……。

「おい小僧、誇りを踏みにじられた者の痛みを知らねば、いずれ同じ目を見るぞ」

久秀は最期のときに、炎に包まれながら、そんな言葉を口にしていたのかもしれません。

参考文献:天野忠幸『松永久秀と下剋上』(平凡社)、金松誠『松永久秀』(戎光祥出版)、太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)、小和田哲男監修『戦況図解 信長戦記』(サンエイ新書) 他

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チワさぶろう

主に大河ドラマ記事に出没するチワワ侍。歴史好きで、昭和の大河も観ているようなので、それなりの年齢と推定される。本人(本犬)は強がってはいるものの、柴犬さんなどにいつも鼻であしらわれる。
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