秀吉、播磨へ
「官兵衛どの、いま、何といわれた?」
多少のことでは動じない秀吉が、珍しく目をむいて、城内を案内する男に問い返しました。
「いや、このようなむさくるしいところで、かえってご迷惑かもしれませぬが、われらが城の本丸を、羽柴様に進上いたしたく存ずる」
秀吉は立ち止まり、男の顔をまじまじと見つめます。播磨国姫路の姫路城。小寺(こでら)氏の重要拠点のひとつであり、己の大切な居城を、小寺氏の家老・小寺官兵衛(のちの黒田官兵衛)は、羽柴秀吉に差し出すというのです。秀吉も気前のよさでは主君の織田信長に「大気者(たいきもの)」と呼ばれるほどですが、居城を進呈するという官兵衛の前代未聞の申し出には、驚きと感激を隠せません。それは官兵衛の、すべてをなげうってでも織田家に賭けるという決意の表れでもありました。ときに天正5年(1577)10月、秀吉率いる織田軍が播磨へ初めて駒を進めた際のことです。官兵衛の手を取り、喜びをあらわにする秀吉。そこから少し離れて、ふたりを静かに見つめる竹中半兵衛の姿がありました。
秀吉や竹中半兵衛らがなぜ、播磨に赴くことになったのか、まずはそのいきさつを簡単に紹介しておきましょう。10年前の永禄10年(1567)、斎藤氏を降して美濃(現、岐阜県)を獲得した織田信長は、翌年、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛、畿内を平定し、室町幕府を再興しました。主家斎藤氏を見限って隠棲(いんせい)していた竹中半兵衛が、織田家に仕えたのはこの頃です。
将軍義昭を補佐し、幕府の政治・軍事の主導権を握った信長でしたが、元亀元年(1570)、越前(現、福井県)の朝倉(あさくら)氏、北近江(現、滋賀県北部)の浅井(あざい)氏との敵対をきっかけに、三好(みよし)三人衆、大坂本願寺らも挙兵し、苦しめられます。同年の浅井・朝倉勢との姉川の戦いに勝利したのちは、秀吉が浅井攻めを担当し、これを与力(よりき、一時的に指図を受ける者)の竹中半兵衛が参謀として協力、浅井氏の本拠・小谷(おだに)城を孤立させていきました。
天正元年(1573)には将軍足利義昭までもが信長の敵に回りますが、信長は義昭を京都から追放。さらに朝倉氏、浅井氏を滅ぼして、窮地を脱します。天正3年(1575)には長篠(ながしの)の戦いで、東の脅威であった武田勝頼(たけだかつより)を撃破。信長が西に目を向ける余裕ができ始めたところに、播磨への出馬を求めて、岐阜城に信長を訪ねてきたのが小寺官兵衛でした。織田家の先進性を見抜いた官兵衛は、
「必ずや織田が天下を取る」
と播磨の諸勢力を説得し、東播磨勢は中国地方の大勢力・毛利(もうり)ではなく、織田に味方することで意見をとりまとめていたのです。信長は大いに喜び、播磨平定の指揮を執る予定の秀吉を、官兵衛と引き合わせました。それから2年、秀吉はようやく準備をととのえて、官兵衛と約束した播磨への出馬を果たしたのです。

小寺氏の若き家老
小寺官兵衛はなぜ、信長に播磨への出馬を求めたのか。次に、戦国期の播磨の状況と、官兵衛について、簡単に紹介します。播磨は古来、豊かな国として知られました。肥沃(ひよく)な播磨平野は農業に適し、南の播磨灘(なだ)が海の恵みをもたらします。また室津(むろつ)をはじめとする、いくつもの湊(みなと)では交易も盛んで、物流の拠点でもありました。一方で戦国の頃に書かれた地誌『人国記(じんこくき)』は、播磨の人々について、こう記します。
「智恵ありて義理を知らず」
あるいは、主君は家臣を大切にせず、家臣は奉公を二の次とする、と手厳しい評価でした。豊かな土地であるためか、人々は私利私欲を優先し、仲間割れしやすい傾向があったようです。
そんな播磨国は戦国時代、守護赤松(あかまつ)氏の勢力が衰える一方、配下であった三木(みき)の別所(べっしょ)氏、龍野(たつの)の赤松氏が独立勢力となり、さらに御着(ごちゃく)の小寺氏など、複数の勢力が割拠(かっきょ)する状況でした。なお、御着城(姫路市)の小寺政職(まさもと)の家老が、姫路城の小寺官兵衛です。
小寺官兵衛の本来の姓は、黒田。黒田氏の祖先は近江国伊香(いか)郡黒田(現、滋賀県長浜市)の出身とも、播磨黒田(現、兵庫県西脇市)の出身ともいいます。親族を頼って備前国福岡(現、岡山県瀬戸内市)に移り、商売で成功。官兵衛の祖父重隆(しげたか)の代に戦乱を避けて、播磨国飾東(しきとう)郡姫路に移住、地元勢力の小寺氏の傘下に入りました。重隆の子で、官兵衛の父である重職(しげもと)は才覚に優れ、小寺氏を助けて大いに活躍したため、主君政職より小寺姓を賜り、家老職に抜擢されて支城の姫路城を任されます。そして息子の官兵衛が、父より家督と小寺家の家老職を継ぎ、姫路城代となったのが10年前の永禄10年、官兵衛22歳のときのことでした。

これから伸びるのは織田
永禄12年(1569)、守護赤松氏と龍野の赤松氏の争いに小寺氏が巻き込まれ、龍野の赤松政秀(まさひで)率いる3,000が姫路に攻め込みます。対する姫路城の官兵衛の手勢は、1/10の300。しかし官兵衛は籠城せず、青山・土器山(かわらけやま)の戦い(現、姫路市下手野〈しもての〉付近)で敵を撃退、24歳にして知略の片りんを示しました。
そしてこの頃から、官兵衛は織田信長に注目します。当時の播磨は、西からじわじわと迫る中国の覇者・毛利と、京都の足利将軍を支え、急速に勢力を拡大する織田との中間地帯にあたりました。いずれかに与(くみ)しなければ、中小勢力の寄り集まりの播磨勢は生き残れません。が、主君の小寺政職をはじめ、播磨の諸勢力は様子をうかがうばかり。そんな中、真っ先に「必ずや織田が天下を取る」と声を上げたのが、官兵衛でした。商人から上方の情報を得るだけでなく、自ら京都や堺に出向き、その目で確認した官兵衛は、「これから伸びるのは織田」と判断したともいわれます。
官兵衛は主君の政職を説得し、さらに近隣の勢力に織田に与するよう、説いて回りました。結果、東播磨の最大勢力である別所氏をはじめ、諸勢力も同意。仲間割れしやすい播磨の地侍たちを納得させた官兵衛の交渉力は、相当なものです。天正4年(1576)1月、前年に岐阜城で信長に拝謁(はいえつ)していた官兵衛は、主君の小寺政職や、別所長治(ながはる)、赤松広秀(ひろひで)らとともに京都に赴き、信長に引き合わせて、改めて味方することを約束しました。信長は人質を求めたため、官兵衛は9歳の息子松寿丸(しょうじゅまる)を秀吉に預けています。
こうした官兵衛の動きを牽制しようと、翌天正5年7月、毛利勢が水軍をもって姫路城近くの英賀(あが)に5,000の兵で上陸、姫路城を衝こうとします。対する官兵衛の手勢は1/10の500でしたが、奇襲をかけて見事に撃退。信長も賞賛する勝利でした。弁舌(べんぜつ)で東播磨勢を織田方に導き、軍略をもって毛利の侵攻を退け、織田軍を迎えるお膳立てを整えた官兵衛。10月には播磨に到着した秀吉に姫路城を譲り、秀吉を驚喜させました。すべて自分が思い描いたシナリオ通りに事が運んでいることに、官兵衛は内心、やや得意になっていたかもしれません。

半兵衛の値踏み
「今後、いかなることがあっても、隔心なく相談したい」「われら弟の小一郎と同然に、心から親しく思っている」
この頃、秀吉は、そんな内容の手紙を官兵衛に送っています。秀吉は官兵衛の働きと器量を認め、小寺氏の家老にすぎない立場ながら、播磨平定の相談役として扱い、秀吉と側近たちの作戦会議にも参加を許しました。当時、側近には秀吉の実弟小一郎長秀(ながひで、のちの秀長)、最古参の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、そして竹中半兵衛らがいます。小一郎はほどなく、秀吉の命を受け、別働隊を率いて但馬(たじま、現、兵庫県北部)平定に向かいますが、残る蜂須賀、半兵衛の間で、官兵衛についてこんなやりとりがあったと『武功夜話』は記します。
「官兵衛と申す者、なかなかの曲者(くせもの)であろう。いまは小寺の家老だが、いずれ一国の主を望み、主君をあざむくことも平気でやってのける男と見たが、半兵衛どのはどう思われるか」
「毒変じて良薬になる、のたとえもあります。我らの近くに置き、諸事申し聞かせるようにしましょう」
半兵衛は、官兵衛の力量と人柄を、冷静に値踏みしようとしていたのかもしれません。
秀吉率いる織田軍は、姫路到着の翌月より、西播磨の敵対勢力の掃討に取りかかります。まずは、福原(ふくはら)氏の福原城(佐用〈さよう〉城、兵庫県佐用郡佐用町)。先陣は道案内も兼ねて官兵衛が務めますが、「それがしも」と手を挙げたのが、竹中半兵衛でした。かくして福原城攻めは、小寺官兵衛、竹中半兵衛の手勢を中心に行われることになり、『信長公記(しんちょうこうき)』は「福岡野の城(福原城)取り詰め、小寺官兵衛、竹中半兵衛」と記します。
官兵衛はこのとき、2歳年上の半兵衛を少なからず意識していたでしょう。かつて少数で美濃の稲葉山(いなばやま)城を奪い、近江の小谷城攻略でも大いに秀吉を助けたという半兵衛の知略は、官兵衛も耳にしていました。
「しかし知略ならば、俺も引けはとらぬ」
そう自負する官兵衛は、半兵衛と協力して敵を福原城内に追い込んだのち、三方を囲んで一方を開ける「孫子(そんし)の兵法」を用いて城兵の逃亡を誘い、城主を討ち取ることに成功しました。戦功をあげて喜ぶ官兵衛を、おだやかな表情で見つめつつ、半兵衛はすでに官兵衛の力量と人柄をはかり終えていたようです。

余命をどう使うか
福原城に続いて、上月(こうづき)城(兵庫県佐用郡佐用町)も攻略した秀吉は、年末の挨拶を兼ねて、信長のもとへ報告に赴きました。おそらくその頃のことと思われる、エピソードがあります。
ある日、城中で半兵衛と官兵衛が雑談をしていました。ともに戦陣を重ね、両者の間に親しみも生まれていたようで、官兵衛が愚痴をこぼします。
「羽柴様は以前、戦功をあげれば褒美を下さると約束されて、起請文(きしょうもん)まで預かりましたが、一向に話がありませぬ」
半兵衛が起請文を見せてほしいと言うと、官兵衛は誇らしげに懐から取り出しました。半兵衛に見せて、自慢したい気持ちもあったのでしょう。半兵衛は書き付けを受け取ると、開きもせずに破って、火にくべてしまいました。驚いた官兵衛がとがめると、半兵衛は静かに応えます。
「このようなものがあるから、不平不満が生まれてしまう。その不平不満は必ずや、官兵衛殿に災いをもたらすことになるでしょう」
期待が外れたことで生じた不平不満を、秀吉は敏感に察知し、官兵衛との間に溝が生まれるだろう。それは決して、今後のためにならない……。最初は頭に血がのぼった官兵衛でしたが、半兵衛が自分のためを思って諭(さと)してくれていることに気づくと、我に返り、半兵衛に感謝したといいます。
そして、半兵衛はこう続けたと想像します。
「官兵衛殿。あなたの読みは常に正確で、軍略も申し分ない。もしあなたに説得されれば、理にかなった話に、誰も言葉を返すことはないでしょう。しかし、おもしろいもので、人は理屈でばかり動くものではない。理屈が正しいか否かよりも、好きか嫌いか、自尊心がくすぐられるか否か、で動くことも多いのです」
その言葉に官兵衛は、思い当たることがありました。播磨の諸勢力に織田に味方するよう説得して回った際、理詰めで説く官兵衛の明快さに、皆は納得するものの、一様に微妙な表情を浮かべたのです。おそらく「小寺の家老風情が、何をでしゃばるか」という自尊心の問題、つまりメンツを保ちたい欲求が内側にあったからなのでしょう。
「半兵衛殿。私はどうも、賢(さか)しらに振る舞ってしまい、周りとよけいな軋轢(あつれき)を生むことが多い。私のことを、主人を差し置いても目立とうとする野心家と呼ぶ者もおります。しかし、半兵衛殿は違う。私など到底及ばぬほど、物事の先を見通しておられながら、いつも羽柴様のかたわらに鎮(しず)まり、求められれば絶妙の策を献じて局面を開き、涼しい顔をしておられる。誰からも妬(ねた)まれることがなく、真の知恵者(ちえしゃ)とはこうしたものかと、心底感嘆しており申す」
「買いかぶりでござろう。官兵衛殿の知恵にこそ、それがし常々感服しております。ただ、もし私と官兵衛殿に違いがあるとすれば、余命でありましょう。それがしは病を抱え、もはや長くはない。それゆえ地位だの褒美だのはどうでもよく、気にかけているのは余命の使い方です。よどむことのない清流の如く、何事にもとらわれずに、ただ存分に命を費やすことができればと、願うばかりです」
「清流の如く、とらわれない……」
半兵衛の余命と清流の話を聞いたとき、わかるような、わからぬような、と思った官兵衛でした。ほどなく、自分自身が死と隣り合わせの苦境におちいるとは、さすがに予想できなかったようです。

離反の嵐
翌天正6年(1578)2月、東播磨の旗頭である三木の別所氏が織田方より離反。すると周辺の諸勢力もドミノ倒しのように、別所とともに一斉に離反しました。別所氏の離反理由には毛利氏や大坂本願寺による工作、また農民出身の秀吉の指図を受けることへの根強い反感があったようです。秀吉は大いに驚きますが、それ以上に諸勢力を説得し、織田の味方にしたはずの官兵衛は、面目丸潰れとなりました。4月には毛利軍3万が、前年に秀吉が攻略した上月城を攻めます。秀吉の軍勢だけではどうにもならず、織田の諸将が援軍に来たものの上月城は落城。竹中半兵衛の献策で、秀吉は別所氏の三木城を無理攻めせず、包囲に留め、まず周辺の城を一つひとつ潰していきます。
そんな矢先の10月、今度は織田家重臣で、秀吉の播磨攻めを後方で支援する摂津有岡(ありおか)城(兵庫県伊丹市)の荒木村重(あらきむらしげ)が謀叛。大坂本願寺や毛利と結びました。これには信長も驚き、安土城より説得の使者を送りますが、村重は聞き入れません。同じ頃、官兵衛は嫌な噂を耳にします。主君小寺政職までもが別所に従い、織田に背いたというものでした。事実ならば、官兵衛の長年の苦労はすべて水の泡となります。官兵衛は単身、御着城へと急ぎました。
主君政職の表情を見るや、官兵衛は噂が半ば事実であったことを悟ります。主君が織田からの離反を決めた以上、官兵衛は城内で斬られることもあり得ました。それでも官兵衛はあきらめず、説得を試みます。政職は面倒になったのか、
「ならば有岡城の荒木村重を説得して参れ。荒木が翻意(ほんい)したならば、わしも考え直そう」
と官兵衛に告げました。村重の説得はさらに難しいでしょうが、承諾した官兵衛は直ちに有岡城に向かいます。「俺が、なんとかせねば」の一念でした。ところが有岡城に到着した官兵衛は、村重への面会すら許されず、そのまま地下牢に幽閉されてしまいます。

絶望の淵
ぷっつりと、連絡を絶った官兵衛。三木城を攻囲する織田軍の陣では、秀吉と半兵衛がその身を案じていました。
「官兵衛が裏切り、荒木の味方になったという噂がある。いまだ有岡城から戻らぬ以上、そう思われても仕方がない」
と秀吉が嘆くと、
「囚(とら)われているのかもしれませぬ。官兵衛殿はああ見えて、信義を重んじる人。裏切るような真似はいたしますまい。ただ……」
「ただ、何じゃ、半兵衛」
「我らはそう信じていても、安土の信長様はどう思われるか」
「まさに、それよ……」
ふたりの危惧は、ほどなく現実のものとなります。有岡城から戻らぬ官兵衛を裏切りと判断した信長は、「官兵衛の人質、松寿丸を殺せ」と秀吉に命じてきました。「なんということを」と、頭を抱える秀吉に、
「この一件、それがしにお任せを。悪いようにはいたしませぬ」
と半兵衛が引き受け、病身をおして三木の陣から、秀吉の居城・長浜城(滋賀県長浜市)にいる松寿丸のもとに向かいます。
一方、有岡城の地下牢の中で、官兵衛は絶望感にさいなまれていました。上部の窓からわずかな光が入るのみの薄暗い部屋は、足をのばして横になることもできない狭さで、用を足すのは、かたわらに置かれた桶。室内は悪臭と、湿気に満ちています。しかし、それよりも官兵衛の心をえぐったのは、一度だけ顔を出した荒木村重の言葉でした。村重は、実は小寺政職より官兵衛を討つよう依頼されたと告げ、わしには貴殿を討つ理由がない。よって、牢に入れておく、と言ったのです。
「小寺の殿は、最初から俺を殺すつもりだったのか……。一体、俺は何のために駆け回ってきたのだ。播磨の者たちを思い、いち早く動き、織田につくことでみなが合意したはずが、ことごとく裏切られ、あげくは主君から謀殺されかけるとは……。馬鹿馬鹿しすぎて、笑い話にもならぬ」
悔しさと、自嘲の思いにひとしきりかられたのち、官兵衛はこれから起こるはずの凶事に気づきます。
「俺が有岡城から帰らぬことで、信長様は裏切ったと見なされよう。松寿丸の身が……」
9歳で人質となり、2年以上顔を見ていない長男を思い、官兵衛は苦悶の声を上げ、絶望の淵へと沈んでいきました。

命ある限り
「すべてに裏切られた」……自暴自棄となり、粗末な食事にも手をつけない官兵衛は、みるみる衰えていきます。牢屋の番人は交代制でしたが、その中のひとり、加藤又左衛門(かとうまたざえもん)のみは官兵衛を気遣い、ときに話し相手になってくれました。
「何はともあれ、生きられよ」
「加藤殿、私がここで生き永らえることに、何の意味がありましょうや」
「生きる意味など、天のみが知ること。わしは命ある限り生き、命数が尽きれば死ぬことしか知りませぬ。どうせ死ぬのであれば、いま命をどう使うかに心を砕くのが、我ら武士(もののふ)ではありませぬか」
官兵衛はふと、かつて半兵衛が語った余命と清流の話を思い出します。そして以後、次第に食事を摂るようになっていきました。
しかし、劣悪な環境は日に日に官兵衛の体をむしばんでいきます。皮膚病が全身に広がり、頭髪が抜け、曲げたままの足の関節が動かなくなりました。そんな官兵衛のわずかな慰めは、窓から見える藤の枝だったと伝わります。季節の変化とともに花を咲かせ、花が終わると青々とした葉が茂る様子に、
「あんなちっぽけな草木でも、無心に生きている。俺も命ある限りは、生きてみるか」
極限状態の中で、運命に我が身をゆだねる気になったとき、官兵衛の心は水のように澄んでいきました。
幽閉から1年余り経った天正7年(1579)10月半ばより、官兵衛の耳に戦いの物音が届き始めます。包囲していた織田軍がいよいよ、有岡城の三の丸に攻め込んでいました。
「この様子では、毛利の援軍は来ておるまい。ならば城は、もってひと月」
戦況を冷静に分析し、
「本丸が落ちるとき、俺は殺されるやもしれぬ。だが、そうなれば、それまでのこと」
と、心中は不思議に穏やかでした。11月半ば、有岡城はついに落城。このとき、家臣の栗山善助(くりやまぜんすけ)がいち早く駆けつけ、官兵衛を牢から救出しました。栗山を牢に導いたのは、加藤又左衛門だったともいわれます。官兵衛はのちに、恩人である又左衛門の息子たちを重臣として迎えました。

半兵衛の軍配
三木城攻めの本陣に、戸板に横たわったまま運ばれてきた官兵衛の姿に、秀吉は絶句します。干からびた、虫の死骸が転がっているようでした。「羽柴様」。意外に力のある官兵衛の声に、秀吉は駆け寄り、苦労をねぎらいます。
「羽柴様、ひとつ願いがござる。せがれの、松寿丸の墓に参らせてくだされ」
必死の面持ちで訴える官兵衛に、秀吉は感極まり、顔をくしゃくしゃにして応えました。
「その必要はない。官兵衛、松寿丸は無事だぞ。すべては、亡き竹中半兵衛のおかげじゃ」
松寿丸を殺せという信長の命令を受け、竹中半兵衛は秀吉の代わりに、病をおして三木からまず安土城に赴きました。そして信長の意思が固いことを確認すると、長浜城に赴き、秀吉の正妻寧々から松寿丸を預かります。さらに半兵衛は美濃に向かい、自分の城である菩提山(ぼだいさん)城の近くに松寿丸をかくまいました。明らかな命令違反で、発覚すれば切腹ものですが、半兵衛はまったく躊躇(ちゅうちょ)しません。その後、病がさらに悪化しますが、三木城攻めの陣に戻り、官兵衛が救出される半年ほど前の6月13日、半兵衛は陣中で静かに息を引き取りました。享年36。
半兵衛が命がけで息子を救ってくれたことを知った官兵衛は、男泣きに号泣したといいます。
その後、ひと月余り休養をとった官兵衛は、天正8年(1580)の年明けより、戦線に復帰。三木城の落城は目前でした。官兵衛はこのときより、小寺姓を捨て、黒田姓に戻します。本陣で秀吉のかたわらに控える官兵衛のもとに、ひとりの男が小ぶりな木箱を手に歩み寄りました。
「それがし竹中半兵衛が弟、久作(きゅうさく)と申します。生前兄より、こちらを官兵衛殿にお渡しするよう、申しつかっておりました」
「なんと、半兵衛殿の軍配ではござらぬか。これを私に?」
「いかにも。そして、伝言がございます」
「ふむ。半兵衛殿の伝言とは……」
「託した……と」
半兵衛は半年余り前に、官兵衛が生還し、秀吉の参謀となることを予見していたのかもしれません。そして、秀吉を支える天才参謀・黒田官兵衛の本格的な活躍は、ここから始まることになります。

