Culture
2019.10.30

江戸時代の女子はメイクや化粧を楽しんでいた?コスメがあったって本当?おしゃれ事情を解説!

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実は江戸時代にもコスメがあったってご存知ですか!?町人が中心となった大衆文化が発達したことで、武士や貴族だけでなく庶民の間でもオシャレを楽しむようになり、化粧水や白粉、紅などさまざまなコスメが販売されていたんです。そこで今回は、当時流行したアイテムを江戸版ベストコスメとしてご紹介します!

江戸時代は大衆文化の宝庫!

香蝶楼国貞『当世美人合踊師匠』 / 国立国会図書館

江戸時代は、「世の中が辛く儚いものなら、いっそのこと今を思いきり浮かれて楽しもう」という“浮世(うきよ)”の考え方が普及。同時に、長く続いた戦乱の世が終わり、徳川幕府の統治のもとで経済活動が活性化したことで、大きな文化的成熟を遂げた時代でもありました。
中でも特長的なのが、庶民である町人が中心となって独自の都市文化が生まれた点です。マスメディアも発達し、グルメやファッション、娯楽、旅行など、現代に近しい文化が花開きました。コスメもそのひとつで、主に歌舞伎役者や遊女たちがインフルエンサーとなってトレンドを牽引。オシャレや美容に関心のある女子たちがこぞってコスメを買い求めたのです。

では、江戸の女子たちに愛されたコスメには、具体的にどのようなものがあったのでしょうか?スキンケア部門、ベースメイク部門、メイクアップ部門、そしてオーラルケア部門の順に見ていきましょう!

スキンケア部門

花の露(はなのつゆ)

三代歌川豊国『江戸名所百人美女 芝神明前』 / 国立国会図書館:鏡台の横に「花の露」と書かれた容器が置かれている

江戸で一世を風靡した人気化粧水として知られているのが、「花の露」。寛永末頃に林喜左衛門という医師が作ったと言われ、芝明神前の化粧品店・花露屋で売られていたものなのだそう。江戸の美容本『都風俗化粧伝』によると、「化粧してのち、はけにて少しばかり顔に塗れば光沢が出て香りも良く、キメ細やかにして腫れ物を治す」ものと解説され、白粉の後に使う化粧水だったようです。

さらに、同書では手作りする方法も紹介されています。「花の露」は、イバラの花から精製されたもの。蘭引きと呼ばれる蒸留酒の製造に使われた器具を使用し、イバラの花のエキスを抽出。丁子や白檀などのエキスと混ぜ合わせて作っていたそうです。

江戸の水

式亭三馬『浮世風呂』 / 国立国会図書館:向かって右上の看板に「江戸の水」と書かれている

「花の露」と並んで人気を博した化粧水が「江戸の水」。浮世絵師や戯作者として知られている式亭三馬が1811(文化8)年に売り始めたものです。実は彼は、薬屋も経営した実業家でもあり、この「江戸の水」を“おしろいのはげぬ薬”として販売。自身の著書『浮世風呂』でさり気なく商品を登場させるなど宣伝手腕も発揮して、大ヒットとなりました。
製法は一切不明ですが、「花の露」と同様白粉の上からつける化粧水だったようです。

番外編:江戸の女子はオーガニック志向だった!?

三代目歌川豊国『江戸名所百人美女「御殿山」』 / 国立国会図書館

化粧品の販売も行われていた江戸時代ですが、特にスキンケアに関しては手作りのオーガニックコスメを使うことが多かったようです。例えば、洗顔料でポピュラーだったのが、糠。絹や木綿などの袋の中に糠を入れてお湯に浸け、その絞り汁で顔や体を洗っていたのだそう。

他にも、現代でもスキンケアコスメに使用されている鶯の糞やへちまの化粧水も人気で、自宅で鶯を飼ったりへちまを育てたりして手作りされ、江戸の女子たちの美肌を支えていたようです。

ベースメイク部門

美艶仙女香(びえんせんじょこう)

渓斎 英泉『浮世風俗美女競 幻(幼)真臨鏡現 生滅帯花知』 / 千葉市美術館

現代のベースメイクは、化粧下地、ファンデーション、コンシーラーなどをあわせ使いして仕上げることが一般的ですが、江戸時代は基本的に白粉オンリー。「色の白いは七難隠す」ということわざがあるように、色白であることが美人の代名詞とされ、当時の女子たちはこぞって白肌を求めて白粉を使用しました。

そんな白粉の中で爆発的な人気を誇ったのが、京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現在の東京都中央区京橋)の坂本屋が販売した「美艶仙女香」です。当時人気だった女形の歌舞伎役者・三代目瀬川菊之丞の俳名である“仙女”を冠し、さらに浮世絵の版元と組んで大々的なPRを実施。江戸の女子たちの心を捕い、大いに注目されました。今でも人気芸能人をイメージキャラクターに据えて、化粧品メーカーが各メディアでプロモーションをかけますが、そのような手法がすでにこの頃とられていたということにも驚かされます。

渓斎 英泉『美艶仙女香』 / 国立国会図書館

「美艶仙女香」の他にも、「寿々女香(すずめこう)」や江戸時代の戯作者・山東京伝が販売した「白牡丹」など、複数の白粉があり、高級品から安価なプチプラまで出回っていたようです。

ただし、当時の白粉は、水銀や鉛を含んでおり、中毒症状を引き起こす有害なものでした。けれども、その危険性が認識されるのは明治以降のことで、1934(昭和9)年になってようやく正式に法律で製造が禁止されました。

メイクアップ部門

おまんが紅

江戸のメイクの基本カラーは、白(白粉)・黒(眉墨・お歯黒)・紅の3色。中でも紅は、今でいうアイシャドウやリップ、ネイルなどとして使われるポイントメイクの要でした。
そんな紅コスメの有名なもののひとつが、「おまんが紅」。享保年間に京橋中橋にあったお満稲荷で売られていた紅粉です。アイテムの詳細については不明ですが、当時の歌舞伎役者・佐野川市松が「おまんが紅」の紅売りに扮して演じている姿が浮世絵に残されています。

番外編:笹色紅リップ

江戸は250年以上も続いた長い時代。当然メイクやファッションのトレンドもその時々で変化がありました。その中でも特に大きなインパクトを残したトレンドメイクが、笹色紅リップでしょう。江戸後期に流行ったもので、口紅を濃くつけて笹色紅(玉虫色)にするというメイク方法です。

渓斎 英泉『当世好物八契』 / 国立国会図書館:笹色紅リップは下唇だけに塗るというユニークなものだった

このブームの火付け役は、遊女。当時ファッションリーダーのような存在でもあった彼女たちは、上質な紅を重ね塗りしないと出せない笹色紅を、豊かさの象徴としてリップメイクに取り入れました。それが次第に庶民の間にも広がりますが、高価な紅をふんだんに使うことは現実的に困難。そこで編みだされたのが、ベースに墨を塗ってその上から薄く紅をつけるという裏技でした。このような工夫を凝らして、江戸の女子たちもトレンドメイクを手軽に楽しんでいたようです。

オーラルケアアイテム部門

るりの露

「るりの露」は“お歯黒のはげぬ薬”として販売されていたコスメ。具体的にどのようなものだったかは不明ですが、鉄漿(おはぐろ)液の一種だったと考えられています。渡辺信一郎著『江戸の化粧』によると、「るりの露」が次第に「るりの水」として鉄漿液の一般的な呼び名にもなっていたようです。

お歯黒は、現代ではもう習慣がなくなってしまいましたが、古代から明治時代まで長きにわたって行われていた化粧。「黒は何色にも染まらない」ということから、女性の貞節を表すものとされ、江戸時代においては既婚女性や遊女(一晩その客の妻になるという意味から)が施していました。

香蝶楼国貞『江戸姿八契』 / 国立国会図書館

このお歯黒は、酢や米のとぎ汁、錆びた釘や針などを混ぜて作ったもので、かなりの悪臭を放つものでしたが、虫歯や歯槽膿漏の予防効果などもあったようです。

松葉塩(まつばじお)

月岡芳年『風俗三十二相 めがさめさう 弘化年間むすめの風俗』 / 国立国会図書館

江戸時代は日常的に歯磨きをする習慣が定着した時代。主に房楊枝と呼ばれる歯ブラシで、塩や砂を使って磨いていましたが、一方でさまざまな種類の歯磨き粉も登場しました。
有名なもののひとつが、本郷の歯磨販売店かねやすの「松葉塩」。滝沢馬琴著の『燕石雑志(えんせきざっし)』には、松の実と塩を混ぜて黒焼きにしたものと記されています。

この松葉塩の他にも、紀伊国屋長右衛門の「梅香散(ばいこうさん)」や丁子屋喜左衛門の「大明香薬砂(だいみんこうくすりずな)」、式亭三馬の「箱入り御みがき」などがありました。中には麝香(じゃこう)や竜脳(りゅうのう)などで香りづけしたものも見られ、その種類はなんと100種類ほどあったと言われています。

紐解くと深いコスメの歴史

今回は、江戸で流行したコスメをご紹介しましたが、以降も化粧の文化はさまざまな変遷を経て、現在の形に至っています。その時々の世相や時代背景を垣間見れる、生きた日本文化として愛され続けるコスメから今後も目が離せません!

書いた人

広島出身。ライター&IT企業会社員&カジュアル着物愛好家。その他歌舞伎や浮世絵にも関心がアリ。大学卒業後、DTMで作曲をしながらふらふらした後、着物ムック本の編集、呉服屋の店長を経て、現在に至る。実は10年以上チロルチョコの包み紙を収集し続けるチロラーでもある。