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Culture
2019.12.16

戦国大名・細川幽斎は関ヶ原の戦いの功労者?生涯や評価・本能寺の変のときの行動も解説

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こんなにも多くの顔を持つ戦国大名はいないだろう。そして、こんなにも様々な評価を受ける戦国大名もまたいない。

その名も細川幽斎(ほそかわゆうさい)。隠居前の名前は藤孝(ふじたか)である。文武両道の権化のような大名で、まず武道は、剣豪・塚原ト伝(つかはらぼくでん)の剣術を筆頭に、弓術、武田流の弓馬故実(きゅうばこじつ)と、その道の達人より学んだという。また、戦国時代随一の文化人ともいわれ、歌道、茶道はもちろん、蹴鞠(けまり)もたしなむ。『耳底記(にていき)』の中では、太鼓を披露し、包丁さばきも凄かったと記されているほど。鯉、鱸(すずき)、鷺(サギ)などを、幽斎自らがさばいて披露した記述もある(『細川家記』)。まさに、細川幽斎はマルチスキルを持つスーパー大名なのだ。

しかし、そんな幽斎への評価は意外にもそこまで高くない。どちらかというと、「ウマいことやる抜け目ない男」「外面はしおらしいが内面はしたたか」といった、斜めからの評価が大半だ。ただ、細川家のため自分の命を懸けた男気ある大名との評価も少なからずある。

どちらにせよ、主君を変えながら、この戦国時代を生き抜く戦略家であることは確かだ。3度の大きな人生の転機を迎える細川幽斎。どのようにしてその選択をしたのか、核心に迫る。

細川幽斎(藤孝)の複雑な生い立ち

細川幽斎(ほそかわゆうさい)とは、隠居したのちの名前である。1534年、室町幕府足利将軍家の近臣である三淵家(みつぶちけ)に生まれ、幼名を万吉という。その後、父である三淵晴員(はるかず)の実兄である細川元常(ほそかわもとつね)の養子となり、細川藤孝(ふじたか)と名乗る(途中、長岡姓を名乗るもここでは省略する)。

じつは、この細川藤孝、生まれに関しては一つの説がある。というのも、『細川家記』には、このように記されているからだ。

天文三年甲午(1534年)御誕生、三淵伊勢守晴員主(みつぶちいせのかみはるかずぬし)の御二男、実ハ将軍義晴公御胤(たね)。御母は正三位少納言清原宣賢(きよはらのぶかた)卿の御女(むすめ)也。

藤孝の母である、清原宣賢の娘は12代将軍足利義晴(あしかがよしはる)に仕え寵愛を受けて身籠っていたという。しかし、12代将軍義晴は、後奈良天皇より近衛の姫を娶るように言われ、身籠っている清原宣賢の娘を近臣に嫁がせた。その近臣こそ三淵晴員というのだ。その後、12代将軍義晴と近衛の姫の間に、のちの13代将軍義輝(よしてる)、のちの15代将軍義昭(よしあき)が生まれる。これが事実であれば、細川藤孝は、のちに仕える13代将軍、15代将軍の異母兄ということになる。

さて、細川藤孝には様々な評価がある。これはひとえに、かの戦国時代に「天下人(てんかびと)」に仕え続けることができたからだろう。

最初の主君は、13代将軍足利義輝。しかし、1565年、藤孝31歳のときに、義輝は家臣松永久秀(まつながひさひで)らに殺害される。その際、藤孝は幽閉されていた義昭を救出し、放浪の末、15代将軍擁立へと動き出す。なかなか相手にされない状況の中、明智光秀の仲介あって織田信長の力を借りることができる。ちなみに、織田信長からすれば上洛の足掛かりにできるわけだから、渡りに船だろう。こうして義昭は、織田信長の援助を受け、めでたく室町幕府15代将軍となる。しかしその後、信長と義昭は関係がこじれて悪化。最終的に足利義昭は京都から追放となる。

この最初の転機で、細川藤孝は義昭を見限り、織田信長を主君とする。この変わり身の早さが、「世渡り上手」「恩知らず」という評価を受ける理由だ。ただ、逆をいえば、織田信長の決断力、実行力をみて、天下人になると判断。自分の直感を信じ、すぐさま行動に移すのは、なかなか真似できない芸当だ。先見性に溢れ、時代の潮流を読む目に長け、しかも行動力があったといえる。
この細川藤孝への評価は、第2の転機の「本能寺の変」で、一段と厳しくなる。

「本能寺の変」で明暗分かれた光秀の娘婿

「本能寺の変」ほど、日本の歴史を塗り替えた大事件はないだろう。

天下統一を目前に、というかほぼ掌握していた織田信長。まさかの謀反により京都本能寺にて家臣の明智光秀に討たれるとは思いもしない結末だ。これぞ「リアル下克上」だが、明智光秀の天下はことのほか長続きしない。というのも、下克上であっても、主君を討つには「大義名分」となる理由は必須。それもない明智光秀は、豊臣秀吉の弔い合戦により、あえなく最後は落ち武者狩りに遭い非業の死を遂げる(諸説あり)。これが、あの有名な「三日天下」である。

さて、ドラマはこれだけで終わらない。明智光秀に関わりのあった細川藤孝をはじめ、多くの武将がどう出るかがカギとなる。良くも悪くも、この時の判断がのちの自分の立ち位置を決めることになるのだ。

特に明暗を分けたのが、「本能寺の変」を起こした明智光秀の親戚筋。なかでも、明智光秀の娘をもらって縁組をしていた細川藤孝の子、忠興(ただおき)と津田信澄(つだのぶずみ)だろう。

左から息子の細川忠興(ただおき)とその妻の細川玉(ガラシャ)

津田信澄とは、織田家の家督争いで敗れた信長の同母弟、信勝(のぶかつ)の子。織田信長は能力第一主義であったため、信澄は反逆者の子であっても取り立てられ、有力家臣の明智光秀の娘をも妻にしていた。謀反を起こした明智光秀は、津田信澄からすれば義父、舅となる。このまま光秀に合流するのか、それとも弔い合戦として義父を討つのか。しかし、悲劇にも信澄は光秀と通じているとして、選択の余地もないまま、信長の三男である織田信孝、丹羽長秀(にわながひで)らに殺害されてしまう。

一方、同じく明智光秀の娘をもらっていたのが、細川藤孝の子、忠興である。その上、藤孝と明智光秀とは足利義昭を15代将軍とし、その後は織田信長の家臣として苦楽を共にした仲。実際に、明智光秀からは味方とて兵を出してほしいとの要請があったようだが、『細川家記』では次のように記されている。

我は信長公の御恩深く蒙りたれば、剃髪(ていはつ)して多年の恩を謝すべし。其方(そのほう、忠興を指している)事は光秀とは聟舅(むこしゅうと)の間なれば、彼に与すべきや心に任せらるべし

細川藤孝は、織田信長を偲んで頭をそり、光秀の味方をしないことを明確にしている。その上、息子には自分で決めろと促したのだ。なお、剃髪に際して名前を「幽斎玄旨(ゆうさいげんし)」と改め、忠興に国を譲ったとされている。これに対して、忠興もまた涙して、共に頭をそり、光秀の味方をしないことを決意したというのだ。そして、謀反人の娘である忠興の妻、細川玉(ガラシャ)を味土野(みどの、現在の京都府京丹後市弥栄町)へ幽閉する。

それだけではない。その後、光秀を討つために播磨国(兵庫県)加古川を渡る秀吉のところへ、藤孝の家臣、松井康之(まついやすゆき)がはせ参じている。秀吉に怒鳴られながらも、船の中に藤孝の書状を入れたのだとか。書状は光秀には加担しない旨の内容で、これで細川藤孝父子は、明智光秀とは無関係であると再度認識されたのだ。一歩間違えれば同じ反逆者として扱われるところを、間一髪で切り抜けられたのは、やはり細川幽斎の処世術の賜物であろう。

「関ヶ原の戦い」の前哨戦に天皇登場⁈

豊臣秀吉の御伽集(おとぎしゅう)として、歌道を指南し重宝されていた幽斎だが、秀吉の死後、3度目の転機が訪れる。それが、西軍石田三成、東軍徳川家康を筆頭に戦った1600年の「関ヶ原の戦い」だ。

「関ヶ原の戦い」とは、簡単にいえば、豊臣秀吉の死後の権力者争いだ。秀吉は、五大老五奉行(ごたいろうごぶぎょう)として、大老に5名、奉行に5名と、特定の大名をその任に就かせていた。このうちの誰が実権を握るかせめぎあいの中、まず、大老のうちの一人、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津(福島県)で兵を挙げる。これを口実に、五大老の一人、徳川家康が諸将を率いて上杉征伐のために会津へ向かう。1600年6月半ばのことである。

家康が向かう中、その隙をついたのが五奉行の一人、石田三成だ。石田三成らは、まず大阪にいた諸大名の大事な妻子を押さえ、西軍に引き込もうとするが、細川忠興の妻、細川玉(ガラシャ)が自害したため、方針を変更。畿内の家康側の大名へ直接的な制圧へと動く。7月18日には伏見城を攻撃し、8月1日に落城。「関ヶ原の戦い」の前哨戦としては有名だ。しかし、じつは、時同じくしてもう一つの前哨戦が、京都の地で行われていた。それが、細川幽斎が拠点にしていた丹後(京都府)の田辺城(舞鶴城、ぶがくじょうともいう)の攻防戦である。

徳川家康が次の天下人だと考えた幽斎は、息子の忠興にほとんどの兵を帯同させて家康へ付き従わせた。残ったのは幽斎と三男幸隆(ゆきたか)ら、兵は500ほどだったという。これに対して西軍は、丹後・但馬の小大名たちの連合軍1万5000の兵力で、田辺城を包囲する。事前に察知した幽斎は、宮津城などの支城を引き払い、行く当てのない領民に対しては希望するものを田辺城の中へ入れたという。

さて、7月19日から田辺城の籠城が始まるが、7月末には落城を避けることができない状況であったといわれている。しかし、ふたを開けてみれば、予想外にも9月中旬まで籠城が続き、最後は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の勅命により、包囲網は解かれ幽斎は城を開くことになる。1600年9月13日のことであった。

一方で、上杉討伐を取りやめ、石田三成を討つために引き返した徳川家康ら東軍7万4000と、石田三成ら西軍8万4000が関が原で激突するのは9月15日。西軍がやや有利な戦況も、西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)が東軍に寝返ったため、西軍は一気に総崩れにより東軍が勝利したといわれている。ただ、小早川秀秋の裏切りだけではないだろう。兵力は五分五分であったため、田辺城の籠城により西軍の1万5000の兵を舞鶴に足止めさせていた幽斎の功労も大きいといえる。実際に、その後、幽斎は家康より豊前(福岡県、大分県)39万石の領地の報償を打診されている。幽斎は辞退したが、息子の忠興が受け取り、細川家は戦国時代ののちも存続できたのである。

これだけであれば「細川幽斎ってスゴく忠義ある大名」で終わるところだ、しかし、この裏には、様々な幽斎の思惑が働いたといわれている。

まず、田辺城籠城の際に、突如「どうして天皇が出張ってきたのか?」という謎である。

幽斎は、三条西実枝(さんじょうさねき)より「古今伝授(こきんでんじゅ)」を継承し、歌道を極めた数少ない一人といわれている。「古今伝授」とは、あの有名な『古今和歌集』の解釈についての秘伝を受け継ぐこと。『源氏物語』の解釈書と並んで朝廷文化の二本柱だ。これは和歌の最高権威を受け継いだようなものといえる。当時は、幽斎一人しか古今伝授を継承している者がいなかった。幽斎が討ち死にとなれば、永遠に『古今和歌集』の解釈の秘伝が失われてしまう。それだけは避けたいと、天皇が停戦の勅命を出したといわれている。

ただ、これにはからくりがある。じつは、関ケ原の戦い前に、細川幽斎は弟子の一人である八条宮智仁親王(としひとしんのう、後陽成天皇の弟で桂離宮を作った)に古今伝授の継承を始めていた。大体50日ほどあれば伝授が完了するところ、ピタリと残り5日分だけを伝授せずに田辺城へと帰ってしまう。名目は、上杉討伐に忠興も参加のため、田辺城の留守を預かるからだとか。しかし、伝授の中断後1か月は京都にいたといわれ、十分な時間はあったという。そうなると「古今伝授を行えるのは自分ただ一人」との状況を維持するためかとの疑問が浮かぶ。これは、自分の価値を上げるための策略だと指摘されても仕方ないだろう。

また、籠城の途中で八条宮智仁親王が開城を勧めるも、幽斎は、武将としての最期にこだわって応じなかった。そして憎いことに、田辺城から古今伝授の資料と歌道の貴重な資料などをすべて八条宮と後陽成天皇宛に送っている。ここで自分のカードをあえて手放す策士ぶり。「計算してはいない、裏はないと。あなた方が欲しいのは私の命ではなく古今伝授でしょう?」と。こうなると天皇も、幽斎を助けなければ、そうだと認めることになる。これが決め手となり、後陽成天皇は停戦の勅使を出すことになる。

これだけではない。そもそも500の兵で籠城すること自体が折り込み済みなのだ。相手がどれほどの兵で来ようが、持ちこたえられる算段が最初からあったと考えられる。というのも、包囲した西軍の小大名の中には、幾人か歌道の弟子が含まれていたからだ。実際に、西軍からの攻撃の一部は弾を込めずに撃っていたとか。そこまでの攻めではないことが、幽斎には予め分かっていたのだろう。

こうして、無事に籠城を終え、天皇の勅命により城は開城。細川幽斎は、多くの命を守り、自身の名誉を守り、その上、徳川家康にまで貸しを作るという離れ業を決めたのだった。

13代将軍足利義輝から始まり、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、天下人を見抜いて臣下に入る幽斎の先見性はさすが。3度の転機では絶えず勝ち馬に乗ってきたということか。妻は正室の麝香(じゃこう)ただ一人。戦国時代には珍しく側室を持たない大名でもあった。こうと決めたら貫き通す、そんな幽斎を、人は「世渡り上手」という。

「世渡り上手?この私が?」と、幽斎の笑い声が聞こえそうである。「それで結構。それで何が悪い」と。

なぜなら、天下人の家臣になることは、同時に、一族郎党、その国の民の命を守ってきた証。誰に何と言われようとも、幽斎には一つの信念があったのだろう。「自分の国を守る」という信念が。つまり、一途に己の信念を貫くためには、天下人を見極めることが必須条件だったのだ。それには、見極められるだけの素養が自分になくてはならない。幽斎の若き頃、足利義昭と放浪していた際、お金がなく寺の灯明を盗んでまで、ひたすら読書をして夜学に励んでいたという逸話がある。文武両道となったのも、結果的にたゆまぬ努力の末だろう。

時代に流されず、周囲の批判にも耐えられたのは、何より「大事な人を、民を守っている」という自負があったからではないか。己を信じ、己に誠実に生きた「強き人」。それが細川幽斎という武将なのだと私は思う。

参考文献
『戦国武将 引き際の継承力』童門冬二著 河出書房新社. 2009年1月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『戦国夜話』本郷和人著 新潮社 2016年4月
『細川幽斎伝』平湯晃著 河出書房新社 1999年10月
『図説 戦国合戦地図集』佐藤香澄編 学習研究社2008年9月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。