受験シーズンになれば決まって出てくる縁起担ぎの品々。身近にあるお菓子なら、キットカットは「きっと勝っとお」に、カールは「ウカール」に大変身。それで結果が変わりゃこんな苦労なんてしてねーぜ、と斜めに見下しても、やはり無視ができない日本人。つい手に取ってしまう。すがれるものにはすがりつく。この時期に多神教の信仰者が続出するのは、ある種、仕方のないことではないだろうか。
受験に失敗しても「死」は待っていない。しかし、戦国時代であれば、敗れたものには絶望だけが待っている。だからだろうか。戦国時代、合戦前には様々な縁起担ぎがなされた。「いやあ、それはいくらなんでも無理なんじゃね?」的な語呂合わせもなんのその。「ええええっー、やりすぎっしょ」的な迷信も頭から信じます。はい。それでも、やはりやりすぎることはない。
今回は、合戦前のしきたりの数々を、とりわけ二度見しそうな、とびきりのタブーやジンクスを紹介しよう。
タブーだらけ?の合戦のしきたり とびきり5選
戦国の世は、ただでさえ混沌としている。家臣に謀反を起こされ討ち取られる、同盟が覆され裏切られるなど日常茶飯事。そんな合戦に挑む前に「やれることを全部したい」という気持ちはごく自然なこと。少しでも縁起を担いで勝利を手にしたいという積極的な思い。逆にあえて「凶」を知った上で、それを回避するという消極的な思いもある。これらが混ざって出来上がったのが、合戦前の「吉凶」を判断する様々なしきたりである。以下、順に紹介しよう。
身を清めるべし。女性には近づかない!
いざ合戦へと出陣すれば、戻ってこれる保証はどこにもない。それなら、最後に「そなたと…」と、なーんて熱い夜は、余計に戻ってくる可能性を低くする。じつは「陣触(じんぶれ)」として兵の招集がかかれば、まず行うのは身を清めること。衣類は白衣を着て、魚や肉類も食さない。酒は飲まず、水や湯で沐浴をする。こうして、出陣の3日前から、心身ともに清めるのだ。
ことのほか「女性」に関しては、禁止事項が多くあった。女性に近づくと身が汚れるとして、妻妾(さいしょう)との同衾(どうきん)はタブー。つまり性的交渉はおろか、添い寝することさえも許されなかったのである。
『兵将陣訓要略鈔(しょう)』によれば、女性の中でも特に妊婦や出産直後33日間の女性との接触は、最もタブーだったようだ。これは合戦での出血を恐れ、「血」を連想させるものを遠ざけたと考えられる。着るものにも触れさせないように細心の注意を払っていたのだとか。「不浄」により災難に遭うと信じられていた。
ただ、戦国時代といえども、豊臣秀吉はのちに朝鮮出兵に際して、側室の淀殿を名護屋城まで呼んでいる。時代とともに、タブーも少しずつ緩和されていったと考えられる。それにしても、なかなかこのタブーを犯してまでという豪傑な武将は少なかったに違いない。そのため、小姓などの少年が女性の代わりとして活躍する。身の回りの世話も含めて、寵愛を受ける対象にもなるのだ。「男色」がことのほか珍しくなかったのも、このような背景も少なからず影響しているといえよう。
ガチで縁起をかつぐ「三献の儀」
身を清めた後の流れとしては、連歌会(れんがえ)にて、詠んだ連歌を神社に奉納し、戦勝祈願、そして、重要な出陣の儀式である「三献の儀(さんこんのぎ)」となる。
「三献の儀」とは、大将が床几(しょうぎ、イスのこと)に座り、置かれた3種類の肴で酒を飲む一種のセレモニーである。ここで重要なのは、3種類の肴が既に定型化されていたことだ。
その内容とは、「打鮑(うちあわび)」「勝栗(かちぐり)」「昆布」の3種。
打鮑は、鮑を乾燥させて平たく伸ばしたもので、熨斗鮑(のしあわび)ともいう。『隋兵之次第事(ずいへいのしだいのこと)』には、詳細な記述がある。
「初献に打あはびを尾の方より広き方へ三所喰初也。是は末ひろごりと祝ふ。
二献勝ぐり喰初。此時くはゆる也。
三献めよろこぶを喰初て酒呑也。
最初と三献めは三度づつ酒を入る也。二献めに一度くはへて、是も三度にて入て呑。しつかい三々九也」
打鮑は斜めに切って細いところ、太いところとなるようにしていたようだ。ちなみに、肴は三切れにせず、五切れか一切れを用意したという。なるほど、三切れだと「身切れ(みきれ)」となるからだ。また、大中小と三方に3つの盃が用意されており、1つの肴を食べるたびに杯を3回あおり、合計9回酒を飲む。こうして、軍神に合戦の勝利を願ったとされている。ちなみに、これを三々九度というのだとか。
驚くのは、この三種類の肴が予め決められ、順番まで指定されていたということだ。これはどうしてか。ここでもダジャレ王が爆発する。「打鮑」の「打つ」、「勝栗」の「勝つ」、「昆布」を「よろこぶ」にかけ、「打って勝ってよろこぶ」と縁起を担いだのだ。
なお、面白いことに、戦国武将によって順番が異なる事例も記録からわかる。例えば、甲斐の武田氏の場合、『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』では、「勝て討て悦ぶ」とされている。つまり、「勝栗」「打鮑」「昆布」の順となるワケだ。さらに帰陣の場合には、また順番が違うという。なかなか興味深い。
これだけではない。『今川大双紙(いまがわおおぞうし)』では、酒を注いで後ろにそのまま引くことはタブーであった。まさに「後ろに引く」、「撤退」を意味するとして、縁起が悪かったのである。柔軟な発想ができる人であればピンとくるだろうが、頭が固ければ全く意味が理解できないとなる可能性もあった。当時は真剣だった。いや、結局は今も同じか。受験に備えて「勝つ」と「カツ」をかける。朝から「カツ丼」をかけこむのも、語呂合わせだからだ。日本人は今も昔も変わらない。
北はダメ!絶対ダメ!
「北」という方角に対して、過剰なほどの反応を示すのが戦国時代であった。納棺までの間に死者の頭を北に向けて横たわらせる習慣である「北枕」。この影響かとも思ったが、それだけではないらしい。なんでも、やはり戦国時代に忌み嫌われるのは、敗けること。つまり「敗北」の「北」という漢字から「北」の方角を避けているという。
そもそも、どうして「敗北」に「北」という漢字が使われているのか。漢字の由来をみれば、どうやら「北」は方角を意味しているわけではないという。「北」という漢字は、人と人が背を向けているさまを示しており、「人に背を向ける」、つまり「逃げる」という意味合いを持つのだとか。また、昔は「にぐ」や「やぶる」と読まれることもあって、なおのこと避けられた。現在でも「そむく」「にげる」と訓読みすることができる。こうして、合戦に身に着ける甲冑は、北に向けて置くことを「タブー」とした。
また、『甲陽軍艦』では「軍の時、馬よりおりたるに、北へ向方まくる也」と記されている。つまり、馬から降りる際も「北」の方角をタブーとしているのだ。こうなれば、どの場所にいても方角を把握しておかなければならない。それもまた気苦労が絶えないとえるだろう。
ああ。馬は鳴かないで!
さて、これまでのタブーは、なんとか頑張れば乗り越えられそうなものばかり。しかし、不条理かな。自分でコントロールできないものまで、戦国の世はタブーとされてきた。それが、現在でもカメラマン泣かせの「動物」の場合である。
まずは、合戦に欠かせない「馬」。そのいななき方で、吉凶が分かれるというのだ。『隋兵之次第事』では、勢い二度見しそうな内容が記されている。
「馬のいばふに吉凶といふは、馬屋にていばふは大吉、其主乗て後いばふは凶也」
具体的には、人が乗る前にいななけば「吉」。
人が乗っているときであれば「凶」。
絶望的な吉凶の判断項目である。万が一、馬に乗っているときにいななくことがあれば、乗り手としては全力で馬の口を押さえたいくらいだろう。ただ、こればっかりはどうしようもない。そんなことで、合戦の行方が左右されるなど恐ろしすぎる。ただ、別の書物には凶を吉に変える作法が記されていた。具体的には、弓を脇にはさんで、上帯を結びなおし、腹帯も締めなおすのだとか。知っているだけで気が軽くはなるが、もし何度でも馬がいななけば、それはそれで面倒くさい方法であろう。
また、馬以外にも、犬や鳥のバージョンがある。
出陣の時に犬が隊列を左に横切れば「吉」。右に横切れば「凶」。
出陣の時に鳥が自陣から敵陣へ飛ぶと「吉」。敵陣から自陣であれば「凶」。
大将の乗る船に魚が飛び込めば「吉」。ちなみに「凶」はなし。
もう、どっちでもよいと思うのは私だけだろうか。
なんで折れちゃうのよ…旗。
最後にご紹介するのは「旗」。
合戦には様々な種類の「旗指物(はたさしもの)」が使われていた。どの隊なのか、武将の位置や働きぶりなどが把握できる「馬印(うまじるし)」や「旗印(はたじるし)」。また、鎧の背につけた旗である「指物(さしもの)」も、統一されたものと、個人のものとに分かれる。全てを合わせると相当数の「旗指物」が存在した。
実際に合戦の場所までこれらの「旗指物」を持ち運ぶわけだが、折れちゃうのだ。これがまた。なんといっても、旗の竿は「竹」である。もちろん古くなれば折れるだろうし、大きい旗であれば風に吹かれて竿の部分がポキッといく場合だってある。
じつは、折れる自体は問題がない。ポキッという言葉自体、既に相当、語呂がヤバいんじゃないかと思うのだが。そこは意外にも寛容である。問題は、折れる場所である。ポキッといった場所が吉凶に影響するのだ。『今川大双紙』には、以下のような記述がある。
「軍陳の時、旗竿の折たるにて吉凶を見る事、持たるより上のおれたるハ吉事、持たるより下ハ凶事也」
つまり、持ち手より上であれば「吉」、下であれば「凶」となる。
ちなみに、指物の一つである「乳付旗(ちちつきはた)」(乳とは旗を棒に通すための輪のことで、この輪がついた旗をいう)であれば、長さは1丈2尺(約3.6メートル)といわれている。個人の指物でも1~2メートルだ。実際に、持ち手は自分の胸や腹あたりだろう。せいぜい下から80~90センチ前後だと推測される。となれば、比率からいっても圧倒的に持ち手より上で折れることの方が多い。そのため、「吉」の割合が多かったと考えられる。どちらにせよ、折れた時点で「縁起わるっ」とならないだけ、マシだといえよう。
「吉」だって喜ばない!戦国大名の脅威の精神力
さて、これほど「吉凶」にまつわることが多ければ、合戦が始まるまでに精神がボロボロに擦り切れそうである。気付かないのは問題外だが、気付いてもそれはそれで、気の休まることがない。一つの出来事に一喜一憂するなど、合戦に集中していない証拠だ。そのため、これらの吉凶をはねのけた武将も。あの武田信玄である。
人心掌握術に長けたといわれる所以(ゆえん)がここにある。
信濃攻めに取り掛かったばかりの話である。庭先で家臣たちが喜んでいたため、そのワケを聞くと、どうやら庭先に1羽の鳩が舞い降りたからだとか。鳩が木にやってくるのが「吉事」だというのだ。これで戦に勝てるなどと盛り上がっている家臣を横目に、信玄が取った行動とは?
なんと、その吉事の象徴である鳩を猟銃で撃ち落としたのである。「鳩の悲劇」とでもいおうか。というのも、その鳩がずっと庭先に居つくわけではないからだ。飛んでくれば、やがて飛び立つというのが自然の理だ。しかし、今度は鳩が飛び立てば「凶事」として家臣の心情に影響を及ぼす。これが分かっているからこそ、鳩を撃ち殺したのだ。のちに吉凶の芽となる「鳩」自体を排除したのである。決して縁起を担ぐことを否定しているわけではないが、時には即時に非情な決断を下すことも必要だということだ。
数多くのタブーや縁起担ぎのしきたり。なかには、全く由来の分からない「吉凶」の判断となる事柄もある。
こうしてみると、ふと気づくことがある。
戦国の世では、本当にこれらが信じられていたのだろうか。確かに「三献の儀」などが執り行われていたことからすれば、その答えはイエス。しかし、腹の底では、信じるというよりも、これらのしきたりを守ることで、自身の精神の平穏を保っていたのではないか。ただでさえ、命がけの合戦である。武士といえども、死ぬことだって怖いはずだ。そんな恐怖に打ち勝つために、あえて様々なしきたりを用意し、それを乗り越えて「正常」を維持したのだろう。
だからこそ、「凶」を「吉」に変えるスーパーな裏技が存在したのだ。そういう意味では、出陣前のあらゆるしきたりや作法は、なんと奥が深いことよ。
参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『戦国 戦の作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2018年6月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『目からウロコの戦国時代』谷口克広 PHP研究所 2000年12月
一個人2011年12月号『戦国軍師の知略』高橋信幸編 KKベストセラーズ 2011年10月