天下第一の桜。日本列島の中央付近、三方を川に囲まれた小高い丘に、それはある。信州高遠(たかとお)城址、固有種・タカトオコヒガンの咲き乱れる、天下で最も美しいと評された桜の名所である。
この風光明媚な地で育まれた名君と江戸城天守閣とを繋いだのは、運命の気まぐれだった。
信州・高遠紀行
長野県の中央東部、伊那谷(いなだに)に高遠の地はある。天竜川の支流・三峰川(みぶがわ)と藤沢川を天然の要塞として丘の上に築かれた高遠城は、兜山城の異名を持つ堅牢な平山城(ひらやまじろ・丘陵などに設けられた城)である。
高遠の名の由来は諸説あるが、この地に鷹が多かったことと関連していると言われる。司馬遼太郎、田山花袋などの著名な作家も、この地に魅せられた。
町を抜け、小高い丘に向かう階段をしばらく上ると、高遠城址公園が見えてくる。ここが「天下第一の桜」の名所だ。
桜の季節には、全国からの花見客で町中が賑わう。城内に1500本あまりの桜が咲き乱れ、特に空堀にかかる赤い太鼓橋・桜雲橋(おううんきょう)は人気の撮影スポットとなっている。
高遠は春だけでなく、カエルやカッコウの声が響く穏やかな青葉の頃も非常に魅力的だ。神社や寺院が点在し、美術館・博物館があり、散歩コースとしてもうってつけの場所だ。
地名にもなっている高遠氏がこの地を統治していたのは戦国時代である。高遠氏は諏訪大社上社の最高神官・大祝(おおほうり)を務める諏訪一族であり、自分たちこそが諏訪本家であると誇りを持っていた。頼継(よりつぐ)の時代に武田信玄(当時は晴信)と組んで諏訪氏と交戦し、勝利を収めたが、その後の信玄の処理に不満を持って挙兵し敗走、高遠氏はこの上伊那の地の統治を終える。
桜の賑わいからやや外れた場所にある「勘助曲輪(かんすけくるわ・勘介曲輪とも)」は、武田信玄に仕えた智将・山本勘助(やまもとかんすけ)が高遠城を改修した際に設けた場所とされる。
武田氏の統治もさほど長くは続かなかった。諏訪氏の娘・諏訪御料人(すわごりょうにん)の子である信玄の嫡男・勝頼(かつより)の時代、信長の嫡男・信忠(のぶただ)による武田攻めにより信長配下の毛利長秀(もうりながひで)に管轄が移譲、高遠城は武田領内で唯一攻防戦が行われた場所となった。
高遠武士団は質実剛健な武士団として一目置かれており、その気質は後に、後述の保科正之(ほしなまさゆき)と共に会津へと受け継がれていく。
会津初代藩主・保科正之公
ところで、徳川幕府3代将軍・家光には、厚い信頼を寄せた異母弟がいた。会津初代藩主、保科正之である。正之は土津公(はにつこう)と領民に慕われ、若松城(鶴ヶ城)内の「土津神社(はにつじんじゃ)」には今でも多くの参拝者が訪れる。
保科正之は、徳川2代将軍・秀忠(ひでただ)の子である。しかし、秀忠の正室・お江与(おえよ)の嫉妬を避けるため、その存在は隠され武田信玄の娘である見性院(けんしょういん)に預けられ、7歳で高遠藩主保科氏の養子となる。
高遠氏の重臣であった保科氏は主家の没落後、武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕えていたが、慶長5(1600)年に高遠城を与えられて帰還、武田氏家臣の娘を母に、真田昌幸の娘を妻に持つ正光(まさみつ)が初代藩主となった。幸松丸(こうまつまる)、後の正之はこの正光の養子となったのである。
寛永8(1631)年、21歳の正之は高遠藩主となる。寛永11(1634)年に家光上洛に伴って異例の侍従昇進を果たした頃には、正之の出自も諸大名の知るところとなっていた。
その5年後の寛永13(1636)年には山形、次いで会津へ移るが、将軍家光からの信頼は常に厚く、幼い4代将軍家綱の補佐を遺言で命じられたほどであった。
また、玉川上水の建設を建議するなどその手腕を存分に発揮し、葵紋と松平姓を与えられている。正之自身は憚って使用しなかったものの、その子の代からは松平氏を名乗り、徳川一族としての地位を築いていく。
江戸城天守閣が再建されなかった理由
この保科正之が、現在見られる江戸城天守閣の姿と深く関わっている。
明暦3(1657)年、江戸の市街地を焼き尽くす大火事が起きた。明暦の大火(めいれきのたいか)である。恋わずらいで若くして亡くなった娘の遺品が出火原因とする伝承から「振袖火事(ふりそでかじ)」とも呼ばれるこの大火事は、江戸三大大火の中でも最大級の被害規模とされ、明治以前我が国最大の火災であった。
大火は江戸城を含む江戸の町の大半を焼き尽くし、2日後、ようやく鎮火した。犠牲者は3万人とも10万人とも言われる。
大火の後、江戸城天守閣再建の声は当然幕府内で起こった。天守台のみは規模を縮小して速やかに再建されたのだが、それ以上の建設は行われなかった。将軍補佐の地位にあった正之が強固に反対したのである。この状況にあって最優先されるべきは何か、と。
この提言により、江戸城下の再建・復興・福祉に多くの資金が投入され、役割を終えた江戸城天守閣は天守台のみとなったのである。泰平の世において実用的意味の薄い天守閣に代わり、延焼を防ぐための施設として広小路を上野に、芝および浅草には新堀、神田川を拡張、両国橋を新設するなど、都市整備に財源が注ぎ込まれたのだった。
会津初代藩主・保科正之が今なお名君の誉れ高い理由の一端がここにも垣間見える。
新宿御苑は高遠藩下屋敷跡
常にたくさんの人で賑わっている東京・新宿。この地名は、高遠藩ゆかりの地である「内藤新宿(ないとうしんじゅく)」から来ている。甲州街道の宿場で、高遠藩主内藤家の江戸屋敷があった場所だ。江戸野菜の1つ、内藤とうがらしも、高遠藩の屋敷内で栽培していたことから名付けられた。
新宿御苑も元は高遠藩下屋敷だった。明治に入ってから新政府の管理下となり、いくつかの変遷を経たのち、現在のような一般開放の公園となった。
高遠城址と同様、新宿御苑も桜の名所として知られる。約65種類・1000本の桜が2月中旬~4月下旬にかけて次々と咲き、2か月以上花見を楽しむことができる都会のオアシスとなっている。
なお、新宿区と高遠(伊那市)は長年に渡って友好提携を結んでいる。江戸と信州、ゆかりの地の桜を巡る旅に出かけてみるのも、なかなか乙なものだろう。
記事中使用画像:photoAC素材より
主な参考資料:
新宿区立新宿歴史博物館・特別展図録『信州高遠藩 歴史と文化』
笹本正治・監修『高遠風土記』高遠町教育委員会