生年も出生地も容貌も不詳。関ヶ原の合戦前の功績もあまりよくわかっていないのに、小説やゲームでもてはやされる謎多き人物がいます。
その人の名は、島左近(しまさこん)。戦国時代にうたわれた俗謡の中で「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」というのがあります。これは、戦国武将・石田三成には「もったいない」ものとして、彼の参謀である左近と、壮麗な居城であった佐和山城があったという意味です。
この言い回しが、現代まで独り歩きして、島左近の名声を高めることに一役買っていますが、どのくらいすごかったのか、いまひとつ不明。ここまで謎めいていると、がぜん興味がわいてきますね。そこで、数少ない資料を紐解きながら、左近の人物像を追ってみたいと思います。
島氏の勃興と左近の誕生
左近の祖先である島氏が、歴史にかすかな形で初登場するのは14世紀はじめ、(今の奈良県にある)春日大社の神事の補助・警備にあたる神人(じんにん)としてでした。ただ、それ以上のことがわかる史料は残っていません。
1467年、応仁の乱が勃発すると、島氏は東軍の筒井氏につき、西軍と戦ったと記録にあります。この頃になると、島氏は平群(へぐり)谷(今の奈良県生駒郡平群町)の椿井(つぼい)城を本拠地とする領主となっており、この城は後に左近によって大普請がなされます。
くだって、1540年頃の戦国時代のさなか、左近は産声をあげます。若くして大名・筒井順昭(じゅんしょう)と子の順慶(じゅんけい)に仕え、大和国に勢力を伸ばしてきた松永久秀と十数年にわたり戦いを繰り返します。筒井順慶の軍は織田信長の助力を得て、松永久秀を本拠の信貴山城へと後退させ、最終的には信貴山城をも落城させることに成功します。さらに、左近は筒井順慶に従い、明智光秀総大将のもとで石山本願寺の攻略にも参加しています。
長年仕えた筒井氏を離れ流転の日々
1582年、織田信長が本願寺の変で討たれると、首謀者の光秀から順慶のもとのに「天下を治めるために協力されたし」という旨の手紙が送られてきます。
順慶は迷いに迷い、光秀に協力するかのように少数の兵を送りましたが、光秀が秀吉に追われる身になるや、光秀を見限ります。
この態度に対し、義に篤い左近は反発。恩人である光秀に殉ずるよう順慶を説得しますが、順慶は首を縦に振ることはありませんでした。
順慶は、打ち続く戦役が祟ってか胃潰瘍と思われる病気により、36歳で没してしまいます。筒井家を相続したのは養子の定次でしたが、左近はやがて筒井家を去っています。
その理由として挙げられているのが、「定次が酒食におぼれ、政治をかえりみなかった」というもの。しかし、これは俗説らしく、真実は島氏の領地と近隣の領地との水利権の争いに対し、定次は島氏に不利な判決をしたことがからんでいるようです。先代の順慶が光秀に殉じなかったわだかまりも、まだ残っていたというのもあるでしょう。
筒井家のもとを離れた左近は、秀吉陣営の蒲生氏郷に仕えることになります。しかし、氏郷が会津に移封されるのを機にここも去ります。大和国への愛着の大きさが、そうさせたのかもしれません。その後も、他家に召し抱えられるのですが、長続きしませんでした。
石田三成の右腕として取り立てられる
浪人同然の左近に目をつけたのは、当時近江水口(みなくち)城の城主であった石田三成でした。
三成は、左近を取り立てるにあたり、自身の知行4万石の半分近くにあたる1.5万石もの俸禄を掲げ、「三顧の礼」よろしく数度にわたり士官してくれるよう懇請しました。
この心意気にうたれた左近は、三成の申し出を受け容れます。この時から最後まで、左近は三成のブレーンとして側に控えることになります。
それにしても、これだけの額でヘッドハントしようとするからには、この時点で左近は世に聞こえる参謀として名を轟かせていたはずです。しかし、具体的にどういった点で優れていたのかは、現代では詳らかではありません。
ただ、左近がただ者ではないと、うかがい知ることのできるエピソードが今に伝わっています。それが徳川家康の暗殺計画です。
三成に家康暗殺計画を提案
1598年、重い病に倒れた天下人・秀吉は、自分が亡きあとの政権に大きな不安をもよおします。跡取りとなる豊臣秀頼は、このときまだ6歳。そして、天下取りの野心の見え隠れする徳川家康は大きな脅威でした。
そこで秀吉は、家康ら有力大名を五大老に、三成ら行政能力に秀でた者を五奉行に任じ、秀頼への忠誠を誓わせます。家康を1人増長させるのでなく、複数の有力者による合議制にし、なおかつ家康を政権内部に取りこむことで牽制をはかったのです。
しかし、秀吉が死去すると、家康は政権奪取の野望を露骨に表しはじめ、家康派と反家康派の対立が徐々に鮮明になります。これが、やがて関ヶ原の合戦の布石となっていきます。
さて、五奉行の1人であった三成でしたが、政敵となった加藤清正らの襲撃を受けて、辛くも逃亡。その争いの仲裁を買って出たのが家康です。彼は三成に対し、五奉行を辞職し、佐和山城に蟄居(ちっきょ)せよという条件を出します。命を取られるよりはと、三成はそれを受諾します。
日々力をつけてゆく家康を見て、左近は、切歯扼腕する三成にある提案をします。
それは、家康を暗殺するというものでした。
三成は、それは卑怯な考えだと、いったんは退けますが、左近の再三の説得に折れます。
三成からのゴーサインを得た左近は、家康暗殺計画を周到に練ります。それまで軍師として才能を輝かせてきた左近の面目躍如といったところでしょう。出来上がった計画は、家康が、上杉景勝討伐のため東征する道中に宿泊する近江国石部宿に、800人の兵で夜襲を仕掛けるという大胆なもの。
しかし、家康側はこの目論見を事前に察知。近江国の出発を早めたため、空振りに終わってしまいます。
実は、この暗殺計画の前、三成が佐和山城での隠退を余儀なくされる際に、左近は「佐和山城から軍勢を呼び寄せ、家康邸の風上から放火して、討ち果たすべきである」と進言しています。しかし、これを三成は退け、沙汰やみになりました。
関ヶ原の前哨戦で活躍
1600年4月、家康は、謀反の疑いがあるとして会津の上杉景勝に兵を差し向けます。兵力は約6万。家康自身もこの進軍に参加します。
上方から家康がいなくなったのを幸いと、三成を含め反家康派(西軍)は挙兵。伏見城を陥落させるなど周辺地域を平定し、引き返してくる家康の軍(東軍)を迎撃しようとします。
9月14日、両陣営の先鋒同士が、現在の大垣市を流れる杭瀬川で衝突します。この戦いは小競り合いと呼べる規模でしたが、仕掛けたのは左近です。左近は、敵将中村一栄と有馬豊氏の率いる部隊を挑発し、これに乗った両隊と乱戦になります。
左近隊は、しばらく戦うと退却し始めます。それを追撃しようとする敵でしたが、林に隠れていた左近の別働隊が銃撃を仕掛け、敵を混乱に陥れ敗走させます。全体から見れば、東軍に与えた損害は微々たるものでしたが、家康の進軍に浮足立っていた西軍の戦意を回復させることに貢献しました。
そして、翌日、両軍は関ヶ原の地で決戦にもつれこみます。
寡兵をもって長政隊へ突撃
軍師(参謀)は、戦闘の矢面には登場しないイメージがありますが、当時は前線の指揮官を兼務することは当たり前にありました。そして、配下の兵とともに干戈を交えることも稀ではなかったのです。
左近は、自ら前線指揮官であることを望み、戦場に屍をさらすことも厭わない猛将でした。「鬼左近」の仇名のあった彼は、関ヶ原の決戦場で自ら最前線に立ちます。暗殺はかなわなかった家康を、軍勢もろとも打倒したいという意気に満ちていたに違いありません。
左近隊と相対するのは、武功派として数々の戦功を挙げてきた黒田長政。敵役として不足はありません。江戸時代に書かれた『常山紀談』には、「島左近昌仲、左の手に槍を取り、右の手に麾(さい)を執り、百人ばかり引具し、柵より出て過半柵際に残し、静に進みかかりけり」とあります。なんと、たった50人ばかりで長政の大群に突撃したのです。
無謀に思える左近の突撃でしたが、「要地をとり、旗正々として少しも撓(たわ)まず…大音をあげて下知しける声、雷霆(らいてい)のごとく陣中に響き」(『黒田家譜』)と、まさかの大奮戦。
長政の部隊はひるんでしまい、側面からの銃撃を試みます。左近隊に雨あられと銃弾が降り注ぎ、兵は次々と倒れました。そして、ついに一弾が左近を捉えます。負傷した左近は落馬し、味方の手で柵の内側にかつぎこまれます。応急手当を受けると、左近は再び馬上の人となり、突撃。修羅場と化した戦場の中、左近は姿を消しました。
今に伝えられる戦後の生存説
後に書かれた何冊かの書物には、左近は負傷後の突撃で戦死したとあります。おそらく、そうであったのでしょう。
しかし、筒井家や石田三成に仕えていた頃の異才ぶり、関ヶ原の決戦での鬼神のごとき戦いぶりによって、戦いの後も生き延びたという説が幾つもあります。
例えば、京都市にある立本寺の墓地には、左近の墓があります。
墓碑を見ると没年が「寛永九年」(1632年)とあり、なんと関ヶ原の戦いの後、30年余りも生きたことになります。
そのほか、今の天竜市(静岡県)に落ち延び、天寿をまっとうしたという説もあれば、陸奥浜田村(今の岩手県陸前高田市米崎町)に潜伏し、浜田甚兵衛と名乗って余生を送ったという説もあります。彼ほどの人物であれば、そう簡単には討ち死にしないだろう、という後世の人々の願望が、こうした説を生み出したのでしょう。
このように、生前はもちろん、最晩年の行く末すらも不明な点の多い左近ですが、謎の多さゆえに神秘性が生まれ、今の人気があるとも言えそうです。
参考・引用図書
『島左近のすべて』(花ヶ前盛明編/新人物往来社)
『戦国七人の軍師』(「歴史読本」編集部編/新人物往来社)
『実伝 石田三成』(火坂雅志編/KADOKAWA)
『戦国武将の手紙を読む』(小和田哲男著/中央公論新社)
『もう一度学びたい日本史 関ケ原編』(小和田泰経監修/エイ出版社)