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Culture
2020.04.07

美少年・井伊直政、まずい料理に醤油をねだって叱られる!?汁物に込めた戦国時代の処世訓

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まず、心の中で大絶叫。
「ええっ?まさか…?コレって…糠味噌(ぬかみそ)のみそ汁?」
それでも、なんとかゴクリ。口の中のものを無理やり喉の奥へと押し流す。

最初に断っておくが、これは実話である。二人はまだ結婚したばかり。妻の作る夕食を楽しみに、いそいそと仕事から帰ってきた夫。出されたみそ汁は、とても美味しそうだったと男は回顧している。しかし、みそ汁の正体は糠味噌の汁物。ほぼ、味がない色だけついた汁だったとか。

ちなみに、被害に遭った男とは、若き日の私の父である。
当時の父は、驚愕の表情など一切出さず。きっと「京風で薄めの味付け」などと、かましたに違いない。新婚時代という甘美な魔法は、驚くほど人を愚かにする。京料理に全力で謝れ!

もっとも、戦国時代であれば、母も恥をかかずに済んだはず。当時は「糠味噌」を、普通にみそ汁の「味噌」として使っていたからだ。専ら漬物を漬けるために使う糠味噌も、戦国時代では違ったらしい。

今回は、そんな「汁物」にまつわる戦国時代のこぼれ話をご紹介。母が間違えて作った「糠味噌汁」から「鯛のアラ汁」まで。汁物1つで、当時の処世訓を伝えた戦国武将のキレッキレの頭脳にもご注目頂きたい。

まずくて飲めない「糠味噌汁」で叱られる井伊直政

最初にご紹介するのは、徳川家康の四天王の一人、井伊直政(いいなおまさ)である。「井伊の赤備え」としても有名な赤色の武具や旗指物は、精鋭揃いの武田家遺臣を引き継いだ証拠。のちに、井伊軍のトレードマークとなり、果敢に攻め込む直政自身も「井伊の赤鬼」と評されるほどに。

井伊の赤備え/関ケ原笹尾山交流館

「赤鬼」というからには、いかつい男を思い浮かべそうである。しかし、井伊直政は、聞きしに勝る超ド級の美少年だったとか。家康の寵童(男色の対象)だったことも公然の事実で、その美しさは幾つかの戦国時代の資料に記録されている。有難くない逸話だが、家康がなかなか手放せず、元服も遅れに遅れたとか。

三河(愛知県)出身が多い徳川家康家臣団。なかでも、この井伊直政の経歴は少し特殊。父の直親(なおちか)は遠江国(静岡県)の国人領主、今川家の家臣である。さらに時代を遡れば、井伊家は『保元物語』に出てくる「井の八郎」こと、源義朝に従う8人の兵の1人だとか。主君の徳川家など足元にも及ばないほど、家の格が違う。要は、直政は「いいとこの坊ちゃん」なのだ。

だからといって境遇が恵まれていたわけではない。井伊直政の幼少期は、意に反して苦労の連続。父の直親は、徳川家との内通を疑われて今川家に殺害され、当時2歳の嫡男・直政も危うかったという。庇護された先でも、頼った新野親矩(にいのちかのり)が戦死。結果、出家することに。そんな状況で、直政を見出したのが徳川家康だった。直政、15歳のとき。こうして家康の小姓からスタートした直政は、次第に武功をあげていく。

そんな井伊直政も、最初はまだまだ若輩者。空気の読めない素直ボーイだったようだ。ご紹介するのは『故老諸談』に残された逸話。井伊直政がまだ「万千代(まんちよ)」と呼ばれていた頃の話である。

時は、天正10(1582)年8月。ちょうど2か月前に本能寺の変が起こり、天下統一を前にして織田信長は自刃。豊臣秀吉が頭角を現すなか、徳川家康は、甲斐(山梨県)にて北条氏直(ほうじょううじなお)と対峙していた。この戦陣のなか、直政は徳川家重臣の大久保忠世(ただよ)から、旨い料理を食べに来いと陣中に招かれる。

井伊直政像

大久保忠世は、直政からすれば大先輩。当時、直政は21歳、大久保忠世は50歳。陣中には、他にも鳥居忠政、石川康通(やすみち)、本多康重、大久保忠隣(ただちか)など10代~20代の若者たち、のちに大名となる面々がズラッといた。

そんななか、彼らに「芋汁」が振る舞われる。鍋に里芋と葉や茎などが一緒くたにして入れられ、味付けはあの「糠味噌(ぬかみそ)」。何の味もしない「糠味噌汁」がご登場したのである。

もともと、直政はその存在自体が浮いていたのだと思う。家臣の中では中途採用のグループに属し、加えて三河出身ではない。そして何より、いいとこの坊ちゃんで、控えめだ。それでいて眩しすぎる美少年。いわば、ガテン系の方々で賑わうこってりラーメン屋に、美少年K-POPアイドルがうっかりと入ってきたようなもの(ガテン系の方々、すみません)。

次々と碗をあける彼らの横で、直政はフリーズする。「そこは根性見せいっ」と言いたいところだが、あまりの不味さに、一向に食が進まないのだ。見かねた大久保忠世が、直政にその理由を尋ねると、一言。

「醤油をかければいいのですが…」

本当に、なんの考えもなしに言ったのだろう。単に味が薄いから、醤油をかければちょうどいい。悪気もなく、他意もない。言葉通りに、醤油があれば美味しくなると言いたかったのだ。しかし、周りの若手たちは猛反発。「そんなもんが戦場にあるか」と、その場は最悪の雰囲気に。

そんな若手たちを抑え、場を丸く収めたのは、直政を招いた大久保忠世。徳川十六神将の一人である。彼は直政を見据えて話をしたという。芋汁の味は確かに悪い。しかし、これでもまだ自分たちは恵まれている。士卒(兵士)はこれすら食べられない。農民も自分が作った米や野菜を納めるだけで、自分で食べることもできない。貧しくて苦しい生活をしている人たちがいるのだと。そんな状況を話したあと、若手ら全員に、次の言葉を残したという。

「大将たる者は、このことをよく心得ておかなくてはならない。お屋形様(家康)が多くの敵国を切り従えた暁には、皆、大名になる身である。ただいまの芋汁の味を忘れず、士卒を撫愛し、農民を憐育するように。もしこの心を忘れたならば、武士の道は廃れ、君臣の義も薄くなるだろう。家業の第一は士卒を愛することなのだ」
(黒沢はゆま著『戦国、まずい飯!』より一部抜粋)

芋汁一つで、大名としての心得を説く。
権力を持つ者ほど、自制心が試される機会は多いだろう。だからこそ、自身の立場をしっかりとわきまえなければいけない。欲望に負けず、大義を忘れてはならないと、忠世は後輩たちを戒めたのだ。それにしても、こんな家臣を持つ家康。天下を取るのは当然だと納得した。まことに、人心掌握に長けた人物といえる。

「鯛のアラ汁」で黒田官兵衛が教えたコト

次にご紹介するのは、軍師としても有名な「官兵衛」こと黒田孝高(くろだよしたか)。福岡藩祖でもある彼は、とにかく頭が切れた。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康と天下取りの下を渡り歩いた武将として、先見の明があるともいわれている。

そんな彼が豊臣秀吉に仕えていた頃の話。
秀吉の朝鮮出兵に従軍する多くの武将たち。彼らは日本から遠く離れた地へ、兵を率いて戦いに行かねばならなかった。そこで必要となったのが、出陣準備のカネである。

もともと、黒田孝高は質素倹約を掲げ、常日頃から「身分相応」という考え方を実践してきた人物。出陣に限らず急な入り用でも、慌てることなく対応できただろう。しかし、他の武将は違う。贅を尽くした暮らしをすれば、カネが足りなくなるのは当然。武将・日根野高吉(ひねのたかよし)もその一人。急な出陣命令で途方に暮れていたのだとか。そのため、懇意にしていた孝高は、代わりに銀子を200枚用意したという。

その後、朝鮮から無事帰国した日根野高吉は、借りた銀子を返すため、黒田孝高の屋敷を訪ねる。借りた額に謝礼をつけ、銀子300枚を返済しようと考えたのだ。互いの挨拶も終わったところで、孝高は側仕えの近習に不可解な指示を出す。わざわざ、客人である高吉の前で「鯛の使い道」を細かく伝えるのである。

・鯛を3枚におろす
・鯛の身は味噌に漬ける
・鯛の中落ちは、吸い物にして客と自分に出す

日根野高吉は不思議でならなかった。どうして、客人の自分に「中落ち」、つまり「鯛のアラ」を出すのか。客をもてなすのであれば、美味しい「鯛の身」の部分を出すべきだろう。味噌漬けにするとは、鯛の出し惜しみなのか。黒田孝高の指示の意味が全く理解できぬまま、高吉は借りた銀子を300枚にして返そうとする。これに対し、孝高曰く、そもそも出陣に必要なカネを返してもらう気など毛頭ないと、断固拒否。結局、高吉は銀子をそのまま持ち帰ることになったという。

さて、黒田孝高は、本当に「鯛の身」を出し惜しみしたのか。
じつは、孝高が家臣に残した言葉にヒントがある。

「衣食住は、身分より少し軽いくらいに整えるのが寛容。贅沢して家計が苦しくなれば、奉公もおろそかになり、有事に際しては出陣の資金に困り、恥をかくに違いない。武具もよく吟味し、役に立つ程度のものを用意せよ。見栄を張り身分不相応のものをこしらえて飾っていては、いたずらに家計を苦しめるだけだ。馬も同様。風流な馬を好まず、役に立つ馬が大事と心得よ」
左文字右京著『日本の大名・旗本のしびれる逸話』より一部抜粋

つまり、わざわざ客人の前で「中落ちを出せ」と指示した理由。それは、ひとえに日根野高吉に対して、その贅沢ぶりを戒めるためだったのだ。さすがは、黒田孝高。彼の言葉は、なにも戦国時代にだけ通じるものではない。その考えは現代でも同じ。名言は、時代を越えてもなお語り継がれるものだといえる。

戦国時代がどうして人気なのか。それは、いずれも人間味ある魅力的なキャラクターが、際限なく揃っているからだろう。それは有名な戦国大名だけに限る話ではない。1つの戦いだけに武勇を残したような、いわゆる地味な武将であっても、心に響く名言を残す。

そして、もちろん受け止める方にも、ある程度の器が必要だ。
叱られた井伊直政は、大久保忠世の言葉を事あるごとに振り返っていたという。今でも耳に残って心に響くと、口にしていたそうだ。直政が立派な武将へと成長したのは、忠世の教えを忠実に守ったからであろう。

処世訓を伝える人、そして受け止める人。
両者が真摯に向き合ったときに、はじめて処世訓は生きるのだ。

参考文献
『戦国、まずい飯!』 黒沢はゆま著 集英社 2020年2月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月
『徳川家康に学ぶ健康法』 永野次郎編 株式会社メディアソフト 2015年1月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
別冊太陽『徳川家康没後四百年』 小和田哲男監修 平凡社 2015年4月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。