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Culture
2020.04.09

新選組一ミステリアスな組長・斎藤一。その数奇な生涯と愛刀を語る

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穏やかな昼下がりでございますな。会津の御城、若松城の桜も花盛りと聞きます。ここから歩いて程ない上野や江戸城の千鳥ヶ淵などはもう花筏(はないかだ)でしょうが、京都の壬生や高台寺、西本願寺のあたりはどうでしょうか。幕末の頃にはその辺りに数年おりましたから、抜刀して市中を見回っていた若い時分を懐かしく思い出します。会津様とのご縁も、この時にいただいたものです。

さて、本日はどのようなご用向きでいらっしゃいますかな。ああ、刀の目利きでございますか。このところ目も身体もとみに衰えてまいりまして、いささか不安にはございますれども……どれ、拝見いたしましょう。

これはこれは。何とも懐かしいものにお目にかかれました。わたくしにも、かつてこの鬼神丸国重(きじんまるくにしげ)とともに戦った時代がございました。桜餅でも持ってまいりましょう、老爺の昔語り、お聞きいただけますかな。

誕生から青年期まで

わたくしの生まれは、江戸の地でございます。弘化元(1844)年、ただいまの大正4(1915)年を遡ること71年となりますか、元日に生まれたことから、「一(はじめ)」と名付けられました。播州明石藩の足軽、山口祐助(やまぐちゆうすけ)の次男として生まれ、10代後半には天然理心流武術を学びました。ええ、新選組局長の近藤勇(こんどういさみ)や幹部の土方歳三(ひじかたとしぞう)・沖田総司(おきたそうじ)らの道場です。一刀流や無外流などはまた別に習ったものです。

幕末の動乱の中で

有名な新選組に加入したのは、文久3(1863)年3月、二十歳の時のことです。幕府主導で一般募集された京都の治安維持部隊・浪士組に近藤一門が参加して、そこへわたくしも合流した形です。結成当初は「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」と言っておりましたから、新選組を名乗りはじめたのは、その年の8月、尊攘(天皇を敬い、諸外国を打ち払うという思想)派の公家と長州藩が朝廷から排除された八・一八の政変における功が認められた後のこととなりますが。

ええ、治安維持部隊だったのです。人斬り集団という印象が強いでしょうけれども、会津直属部隊であった新選組の主な任務は市中の巡回や不逞の者の捕縛(ほばく)でした。大勢で1人を取り囲んで、確実に捕らえるのです。卑怯ということはありません、治安維持部隊ですから。警官と同じです。ただ、常に命の危険と隣合わせではありますから、死番(しばん)という、先頭で危険な場所に突入する持ち回りの制度はありました。心構えをしておくということです。

元治元(1864)年6月5日の池田屋事件にも出動いたしました。新選組の名は、あの一件で広く知られるようになったのでしょうけれども、第1陣のうち裏口を固めた3名が死に、負傷者も多数出ました。意識を失った沖田は暑気あたりだったようですが、それも不思議はない、蒸し暑い夜のことでした。事件は決して愉快なことではありませんでしたが、京都の町を火の海にし、混乱に乗じて幕府寄りの公家や大名を殺害する、という、長州と同調した浪士らの計略を未然に防げたのは、大きな成果だったと思います。

刀の目利きは、確かに新選組でもやりましたね。副長・山南(さんなん)の佩刀、摂州の赤心沖光(せきしんおきみつ)、あれは危ういと感じてはいたのですが、やはりうち折れてしまいました。大坂ものは総じて見た目の妙味を楽しむ用途だから実用向きではないと言われますが、まあその真偽はさておき、刀には脆いものと頑健なものがあるのは確かです。わたくしの鬼神丸国重、あれは備中水田(現代の岡山県西部)を本国とする刀工のものですから、大坂もの、ということではないと思いますが。

新選組では幾度となく粛清が行われました。理由はそれぞれですが、隊の規律を乱す行為に、新選組は厳しく対処しました。山南については、隊の禁則を破ったとはいえ、任務による怪我や病で長らく動けなくなった末のことですので、少し気の毒でした。
中途加入した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は、入ったものの近藤らと思想が異なりました。一派や賛同する者10余名を引き連れ、「御陵衛士(ごりょうえじ)」を名乗って分離しましたが、わたくしもそこにおりました。局長・近藤の命で伊東らの動きを探っていたのです。伊東が近藤の暗殺を企てたのを知った際には、速やかに報告し、そのまま帰隊しました。その後、伊東は近藤と料亭で会合をもってしたたかに酔わされ、帰路の油小路で処断されました。

紀州藩士警護のため出動した油小路の旅籠・天満屋(てんまや)では、海援隊や陸援隊など土佐の者らと刃を交えましたが、梅戸勝之進(うめどかつのしん)という隊士が、重傷を負いながら敵に抱きついて窮地を救ってくれたお陰で命拾いいたしました。また、直前に暑苦しく邪魔で脱ごうとした鎖帷子がなかなか脱げなかったところを急襲されたため、これも身を守ってくれました。

徳川幕府の終焉、そして明治へ

ご存知の通り、その後、政権を返上した旧幕府と反幕府派の間で大きな戦が巻き起こりました。ええ、鳥羽伏見の戦いに始まる、戊辰戦争です。

新選組も旧幕府軍として参戦しておりましたが、伏見で敗れた後、江戸へ向かう船でわたくしは新選組の一部と負傷者の指揮を任せられました。負傷者と無傷の者とで2隻の船に分かれて乗ったのですが、局長の近藤は御陵衛士残党に狙撃されて重傷を負っており、副長の土方もそれに付き添っておりましたから、負傷者のほうの隊を軽傷のわたくしに託された形となります。

江戸に帰りしばらくして、新選組は甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名を変え、甲州(現在の山梨県)へ出陣いたします。ここでも芳しい結果は得られず、江戸へ帰還します。

永倉新八(ながくらしんぱち)と原田左之助(はらださのすけ)、これは近藤の道場の食客で新選組結成時からの幹部ですが、この頃に意見の対立によって隊から分離いたします。
一方、わたくしは傷病者や新参兵を連れて会津へ参りました。

後から会津に来た本隊と合流したとき、近藤の姿はありませんでした。近藤は下総(しもうさ・現在の千葉県)で新政府軍に捕らわれ、斬首されたのだといいます。土方も宇都宮城の攻防戦で足を負傷しておりましたから、わたくしが一時的に新選組を率い、白河口へ数度出陣することとなりました。

土方はやがて仙台・箱館(現在の函館)へと向かいましたが、わたくしは長年新選組の受けた恩を思い、志を同じくする隊の者らとともに会津へ残留いたしました。そして敗戦後は会津と運命を共にし、越後高田(現在の新潟県)・斗南(現在の青森県)と居住地を変え、その後、東京、と名を変えた江戸の地へ戻ってまいりました。

土方の戦死で終焉を迎えた新選組は旧幕府軍の敗戦後、しばらく逆賊の汚名を着せられておりましたが、杉村義衛(すぎむらよしえ)と名を変えた永倉新八の奔走により、明治9(1876)年5月には、東京府下に新選組慰霊碑も建立されました。
永倉とは隊内で剣の腕の1、2を争っておりましたし、共に行動することも多かった同志です。今年のはじめ頃に大往生を遂げたということですが、惜しいものです。

次の時代へ

東京へ戻ったわたくしは、警視局(警視庁)に入り、明治10(1877)年には警部補の身分で西南戦争へ赴きました。西郷隆盛征討のためのこの戦いには、他にも元新選組隊士が数名、政府軍として加わっておりました。賊軍として追われる身から、政府軍として追う身へ、ほんの10年足らずの間に立場が逆転したのです。


その後10年あまり、明治24(1891)年までわたくしは警視庁に務めることとなりました。

警視庁退職後は、約8年間、東京教育博物館(現在の国立科学博物館の前身)の看守(門衛)、その後10年間は東京女子師範学校の庶務や会計係として過ごしました。

晩年

ああ、あの悪戯をお聞きになられたのですか。稽古の姿を目にしましたら、つい遊び心を誘われましてな。
わたくしの得意技は突きでした。近所の剣術道場で木に空き缶を吊るしたものを突く稽古をしておりましたもので、その竹刀を借りて突いて見せました。うまくいきまして、揺れることなく缶を貫通しましたもので、喜んでくれたようです。

2番目の妻、高木時尾(たかぎときお)との間には3人の男子に恵まれ、今は穏やかな日々を送っております。ただ、このところ体調を崩しておりますから、そろそろかつての仲間のもとへ行く日も近い気がいたしましょうか。その時が来ましたら、床の間で正座して待とうと思っております。

夢の終わり

何が正しく、何が誤っていたか、ではございませぬ。誰もがただひたすらに己の信ずる道を突き進んでいたのです。とはいえ、歴史は勝者がためのもの、徳川幕府に与した者は賊軍などと呼ばれ、特に会津は戦が終わってからも筆舌に尽くしがたいほどのこの世の地獄を見ました。そのさまに、鬼は人が内にこそ宿る、とはこうしたことか、と痛感したものです。しかし同時に、神仏も人が内にこそある、と涙する出来事も、いくつかあったものです。

申し遅れましたな。この藤田五郎(ふじたごろう)、かつて新選組の副長助勤(ふくちょうじょきん)を務めておりました頃には、斎藤一(さいとうはじめ)、御陵衛士から帰隊した後には山口二郎(やまぐちじろう)、と名乗っておりました。今となっては夢物語のような話でございます。

※エピソードは史実に沿っていますが、口調や場面設定については、架空のものです。

※主に以下の参考図書により構成しています。従来の定説と異なる箇所も存在します。
・相川司『斎藤一 新選組最強の剣客』中央公論新社
・山村竜也『新選組剣客伝』PHP
・菊地明、伊東成郎・結喜しはや『土方歳三と新選組10人の組長』新人物文庫
・本間薫山・石井昌国『日本刀銘鑑』雄山閣

 名刀大全
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書いた人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。