仕事や何かに行き詰まったとき、頑張りすぎて疲れてしまったとき、気分を変えるための「一服」は、とても大事な時間ですよね。行きつけのカフェや喫茶店で、習慣化されている方も多いのではないでしょうか。
首都圏では相次いで飲食店の臨時休業が発表されており、4月8日にはスターバックスコーヒージャパンも東京、神奈川、千葉、埼玉、大阪、兵庫、福岡の7都府県の約850店を、9日から休業することを発表しました。休業前の「最後の一服」。そう思うと、普段から当たり前に注文していた商品も何か特別なものに感じられます。実際に、SNSはたくさんの人がお店へ駆け込む様子を伝えており、元スターバックス店員だった私もこれにはとても驚きました。
さて、「最後の一服」といえば歴史上のこの人物を語らずにはいられません。本当に誰もが一度は聞いたことがある、わび茶の大成者、千利休です。豊臣秀吉から切腹を命じられ、壮絶な最期を遂げる利休ですが、そこにはこんな逸話が残っています。
使者にふるまう「最後の一服」
天正19(1591)年2月28日、歴史的大事件である利休の切腹は、京都の聚楽(じゅらく)屋敷の周を囲む、上杉景勝の軍勢3,000による厳重な警備体制のなかで行われました。そこへ秀吉の使いが訪れ、切腹を命じます。すると、利休はまったく動じることもなく、静かに口を開き、こう言ったそうです。
「茶室にて茶の支度が出来ております」
これから死を迎える状況というのにもかかわらず、検分役の蒔田淡路守(まいたあわじのかみ)らに茶を点てふるまったのです。茶事が終わると、利休は見事な切腹を遂げました。介錯は蒔田自身が務めたといいます。享年70歳。それが、利休がふるまう「最後の一服」でした。
詫びも命乞いもしなかった
利休が切腹させられた理由は諸説あり(*)、謎に包まれていますが、その経緯は史実に残っています。
切腹が執行される数日前の2月13日、秀吉は利休に堺の屋敷で謹慎することを命じます。つまり、秀吉は最初から切腹を命じていたわけではありませんでした。謝罪さえしてもらえれば許す気でいた、謝るのを待っていた、とも伝えられています。しかし、謹慎中に利休が謝罪を申し出ることはありませんでした。その後、2月25日、大徳寺山門の利休像が、一条戻橋の袂(たもと)に磔(はりつけ)にされてしまいます。
謹慎していた利休が再び上洛を命じられたのは翌26日。その2日後に切腹しています。つまり、最初に蟄居(ちっきょ)が下されてから切腹までの期間は15日。この半月ほどの短い間で、謝罪をすれば死なずに済んだ状況にもかかわらず、利休は己の死を受け入れたのです。きっと、このとき利休の門弟であった武将たちも、切腹を止めるべく働きかけたのでしょう。実際に、利休の茶に魅了され弟子となった武将も多く、細川ガラシャの夫・細川三斎をはじめ、高山右近、古田織部、蒲生氏郷(がもううじさと)などもそのうち3人でした。また、介錯をした蒔田もそのひとりだったのです。しかし、その働きかけにも応じず、命乞いもせず、使者に最後の茶を点ててから茶室で切腹……。
さらに利休は、死ぬ間際にこのような絶世の偈(げ)をしたためています。
人生七十
力囲希咄
吾這宝剱
祖仏共殺
提ル我得具足の一太刀
今此時そ天に抛(訳)
我が人生七十年
喝!
私がこの宝剣で
私とそして仏も祖先も師も否定して
完全に自由自在な大宇宙との一体感に到達し、無になろう(清原なつの『千利休』より)
己の道を信じ、茶人とは思えない最期はまさに革命的だったといえます。
体や心に受け入れる「一服」
「一服」という語源を調べるとそもそもは中国からきているようですが、「一服」の「服」には「体や心に受け入れる」という意味があるようです。利休の「最後の一服」はあまりにも壮絶なエピソードですが、普段から私たちもお茶やコーヒーを飲みながら、自分の身に降りかかった出来事やこれから起こる出来事を、「一服」という行為によって心を落ち着かせ、受け入れているように感じます。しばらくの間、首都圏のカフェや喫茶店は休業となってしまいますが、かつての戦国武将たちが憩いの場として茶を楽しんだように、私たちも今こそ自宅で「一服」という、心を解きほぐすひと時を過ごしてみるといいかもしれません。