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2020.04.28

バックパッカーから馬賊へ!1万人の手下を率いた小日向白朗の漫画みたいな人生

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〽俺も行くから君も行け
 狭い日本にゃ住みあいた
 海の彼方にゃ支那がある
 支那にゃ四億の民が待つ

これは、大正時代に流行した『馬賊の歌』の一節。
モーゼル拳銃を片手に満州の大平原を疾駆する馬賊(ばぞく)。それは大陸にわたり一旗をあげようとする若者たちの憧れであった。

馬賊とは、清朝末期に大陸に出現した馬に乗った武装集団のことだ。
いつの時代にも時の政府の力が衰えると暴力が支配する世界がやってくる。悪徳役人や盗賊が跋扈(ばっこ)し民衆たちは虐げられる。
でも、民衆たちもただ虐げられるだけではない。自ら家族が村を守るために武装する。そうして立ち上がった人々は集い、任侠の精神を持った組織へと成長していく。

後の平和な時代には「アウトロー」と呼ばれる人々。清朝末期から満州国が成立するまでの数十年間。混沌とした大陸を闊歩したのが、この馬賊と呼ばれる人々であった。

囚われた馬賊とされる写真(国会図書館所蔵『満蒙事変写真帖』より)

馬賊の組織規模は様々で小さいもので十数人。大きいものでは数千人規模の組織だった。満州の大地にはそんな馬賊たちの集団が数百もひしめき時には村を守り、悪い役人や地主を退治し、はたまた組織同士の抗争を繰り広げていた。そうした抗争を経て組織化は進んでいった。その中から頭角を現して、ついには表の世界で実力者になったのが軍閥(ぐんばつ。この時代の中国には無数に存在した)の長にまで登り詰めた張作霖(ちょうさくりん)。あるいは、満州国成立後に国務総理にまで出世した張景恵(ちょうけいえい)といった人物がそれである。

波瀾万丈。馬賊になった日本人がいた

だが、実力主義の馬賊の世界で頭角を現したのは現地の人々だけではなかった。「大陸雄飛」を夢見て海を越えた日本人の中には、馬賊として頭角を現す者もいた。そうした中には、1万人を超える馬賊を率いる大頭目に出世した人物もいた、それが小日向白朗(こひなたはくろう)、その人なのだ。

朽木寒三には『馬賊戦記』のほか、馬賊をテーマにした複数の著作がある

戦後日本に帰国した小日向は、多くの証言を残している。中でも代表的なのは作家・朽木寒三(くちきかんぞう)の筆による『馬賊戦記』である。取材された小日向がサービスたっぷりに語ったのか、あるいは朽木の作家性なのか、そこに記された物語がすべて真実とは言い切れない部分もある。それでも、残された史料に記された出来事には血湧き肉躍るのを隠すことはできない。

はじまりは現代ならバックパッカー旅から

小日向は1900(明治33)年に現在の新潟県三条市に生まれた。14歳の時に上京した小日向は、第1次世界大戦の戦争景気に乗って自ら大八車をひいて屑鉄を集めて、けっこうな蓄えをつくった。

小日向には夢があった。大陸にわたり冒険旅行をすることである。現代でいえばバックパッカー。当時、その代表格として知られていたのは1892(明治25)年にドイツから帰国する際に、1年4ヶ月をかけて馬で大陸を横断した福島安正(ふくしまやすまさ)大佐。福島大佐のような冒険旅行をしたい。そう考えた小日向が大陸へと渡ったのは16歳の時である。
『馬賊戦記』によれば、朝鮮半島を徒歩で横断したと記されているから、すでに大冒険である。

昭和初期の奉天市街。日本とは違う独特の雰囲気がある(国会図書館所蔵『南満洲鉄道沿線写真帖』より)

たどり着いた奉天(ほうてん。現・瀋陽しゃんよう)で「中国語を学ぶには天津か北京がいい」と聞いて、向かったのは天津。そこで、駐屯軍司令部付の坂西利八郎大佐の知己を得た小日向は大佐の赴任先に同行し北京で2年あまり中国語や拳銃修業の日々を送る。ここで知り合ったのが、北京の日本公使館に駐在していた土肥原賢二(どいはらけんじ)や板垣征四郎(いたがきせいしろう)といった、後の満州で暗躍する面々であった。

こうして2年余りの修業の後に、小日向は外蒙古(がいもうこ。北部モンゴルを指す)へと出発した。もちろん、単なる冒険旅行ではない。日本軍の密命を受けた現地調査、すなわち軍事探偵を兼ねての旅である。

清朝が倒れ中華民国が成立後も正常の安定しなかった満州。政府の力も不安定なので北京のような都市を離れれば、そこはまったく無法の土地である。中でも小日向の向かった熱河省(ねっかしょう)から外蒙古へのルートは日本人にとっては秘境。そんな土地を旅すれば目立つのは当然で、すぐに現地の馬賊・揚青山(ようせいざん)の一団に囚われの身になってしまった。

「第一部完」では終わらない人生の濃さ

 
現代であれば、すぐにニュースで報道されて「自己責任」とか、ネットで叩かれそうだ。でも、当時はそんなものはない。大陸の奥地で誰にも知られることなく、日本から来た若者の命運は尽きるかに思われた。

でも小日向はそうはならなかった。自ら馬賊の手下となって生き残る道を選んだのである。『馬賊戦記』では、そこから始まる小日向の出世譚が生き生きと描かれる。役人や悪徳地主との戦いに死ぬ気で身を投じる小日向は、あれよあれよという間に出世をしていくのだ。
小日向は「小白瞼(若い白面=美丈夫)」の名で、一目置かれる顔役になっていく。そして、揚青山の戦死後には村落の長老たちに推挙され総覧把(ツオランパー。大頭目のこと)にまで出世する。

この時点で手下は1万人。大興安嶺(だいこうあんれい。中国東北部を南北に走る大山脈)一帯に、その名は轟いたのである。

小日向白朗は戦後幾たびも自分の体験を雑誌で語っている

たいていの作品なら、ここで大団円を迎えそうだが現実は違う。まだ小日向白朗の物語は前半を終えたばかりである。総覧把になり、なおも続くのは血みどろの死闘である。さらには、警察に捕らえられ死刑寸前に手下に救われる。無法の地とはいえども、多少は機能している警察に追われれば、完全にお尋ね者のである。逃亡を繰り広げながら、決闘や戦闘で倒した者たちの幽霊を見るようになった小日向は俗世を離れることを決める。

「聖地で修業」「破魔の銃」etc. マンガみたいだけど本当だ

そしてたどり着いたのが道教の聖地・千山(せんざん。遼寧省鞍山市)であった。道教の寺・無量観(むりょうかん。道教では寺院を道観と呼ぶ)で道教と武当派の中国拳法を積んだ小日向は大長老の葛月潭(かつげつたん)老師より破魔の銃・小白竜(シャオパイロン)を授かり、伝説的な頭目として再び下界に下りるのである。

当時の千山の道士(国会図書館所蔵『満洲景観:写真帖』より)

再び俗世に舞い戻った小日向の活躍は続く、満州事変以降の動乱の中で抗日を掲げて日本軍に敵対する馬賊たちを前にして、日本人の出自ゆえに悩み続ける。幾度も日中の融和や和平工作を試みるも、裏切られ失敗しつつも、熱情のままに活動を続けた。

とはいえ満州事変以降の小日向は、日本人としての自覚ゆえにか基本的に日本側に協力して活動を続けている。『馬賊戦記』などの史料によれば、この時期の小日向は馬賊の頭目であると共に青幇(ちんぱん。中国の伝統的秘密結社)の満州での頭目ともなっていた。そんな小日向の活躍の舞台は満州の大地から天津、上海の大都会へと移っていた。

名作映画『少林寺三十六坊』を彷彿とさせる千山の風景。修業したら絶対に強くなれそうだ(国会図書館所蔵『満洲景観:写真帖』より)

日本軍の統治下にある都市には重慶に逃れた蒋介石によって次々と抗日暗殺団が送り込まれてくる。近年であれば原哲夫のマンガ『蒼天の拳』に描かれている魔都上海での死闘。現実にそうした戦いをしていたのが小日向だったのである。

キッシンジャーや田中角栄にも頼られた戦後

敗戦後、囚われの身となった小日向であったが、国を裏切ったと中国人して漢奸罪(かんがんざい。漢奸とは漢民族の裏切者・背叛者のことを指す)で死刑にされることはなく釈放される。自らが日本人であることを明らかにし釈放された。本人の弁によればその後、仲間の手引きによって漁船で密かに帰国したという。

こうして1949(昭和24)年に帰国した小日向は、自身の大陸での活躍を語ることを惜しまなかった。過去の記事を探すとNHKで放送されていたテレビ番組『私の秘密』にも出演し、かつての思い出を語ったことが記録されている。

戦後の小日向の活躍を報じる雑誌記事

単にかつての自分の栄光を思い出話として語るのが、小日向の戦後だった……わけではない。
表舞台に出ないところで、彼は活躍していた。
アジアに風雲の兆しが見えるたびに小日向の名前は幾たびも取りざたされた。朝鮮戦争の際には九州で北朝鮮側で参戦した中国人民志願軍を指導したとか。あるいは、ニクソン大統領の中国訪問を前にアメリカのキッシンジャー国務長官が教えを請うたとも、はたまた日中国交正常化を前に田中角栄(たなかかくえい)総理大臣の側近にアドバイスを与えたとも。さらには、蒋介石(しょうかいせき)を初めとした台湾(中華民国)の要人とも友情を結んでいたという。
決して多くは語られないが日本と中国、台湾のすべてのネットワークをつなぐ顔役であったことは容易に想像がつく。

無軌道すぎる。だからこそ「馬賊そのもの」の人生に痺れる

小日向白朗という人物が魅力的なのは、単なる現代史の裏を走った怪人物だからではない。その根底に尽きない冒険心があるからだ。なにかの思想に縛られることもなく、ただひたむきに生き抜くことに情熱を注いだ姿。そこに尽きない魅力があるのだ。

本人が大陸での活躍を語った手記。一声で1万人が集まる漢(おとこ)もそうそういないものだ

一言でいえば無軌道そのものである。おまけに、あくまで根は日本人であった小日向は幾度も日本軍に協力し、基準を呼びかけては裏切られ仲間も喪っている。ともすれば「どうしてだよ!!」と叫びたくなるところなのだけれども、本人の心中では折り合いがついているようなので文句はいえない。それよりも、そんな悩んだ末の無軌道さが、より波瀾万丈な人生を招いていることが、よい意味で気になってしようがない。

果たして時代が彼に味方したのか。それとも、彼の情熱が人の数百倍は濃い人生を歩ませたのか。
なにはともあれ、小日向のように馬賊になりたい人生だったと、ボクは思っている。

〽御国を去って十余年
 今じゃ満州の大馬賊
 亜細亜高嶺の繁間より
 繰り出す手下が五千人

<参考文献>
朽木寒三『馬賊戦記 小日向白朗と満洲』番町書房 1966年
朽木寒三『馬賊戦記 小日向白朗蘇るヒーロー』ストーク 2005年 上記の新装改訂版
「馬賊王<小白竜>一代」『日本』1959年11月号
「特別手記 私は馬賊1万人の首領だった!」『週刊サンケイ』1960年10月3日号
「元満州馬賊の頭目・小白龍 中国をめぐる国際舞台でキッシンジャーを走らす」『週刊大衆』1974年6月27日号

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。