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2020.05.22

富山の怪談・佐々成政にまつわる早百合伝説の真実とは?惨殺された美女の怨念?

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富山に移住して1年。
不思議な話を聞いた。もちろん、怪談話だ。

朝日新聞でも取り上げられた「早百合(さゆり)伝説」。
戦国時代の武将・佐々成政(さっさなりまさ)に惨殺された「早百合」が、怨霊として出るというのだ。それも、この現代に。信じられないにもほどがある。だって、戦国時代といえば、ざっと400年以上も前の話。いくらなんでも、長く祟り過ぎだろう。それとも、恨みや祟りの類(たぐい)は、時間軸が遅いとか。

しかし、物理的な証拠がある。
富山市にある護国神社の裏あたり。神通川の堤防・「磯部(いそべ)の土手」にある「一本榎(いっぽんえのき)」。桜並木の中に何故か立派な榎の木が立っている。じつは、この場所こそ早百合が惨殺された地。そして、問題の怨霊が出るといわれる「いわくつきの場所」なのだとか。ちなみに、現在の榎の木は2代目とのコト。

コチラ、石碑の横に立つのが、2代目の「一本榎」。初代は富山空襲で焼けてしまったのだとか。それまで本物の木が残っていたコト自体がスゴイ。怪談話が余計に真実味を帯びてくる

雨になれば、女の首に似た鬼火が現れる。いやいや、雨でなくとも、怪しげな青い火の玉が飛んでくるとか、こないとか。榎の木の周囲を「早百合」と呼びながら3周すると亡霊が現れる。いや、7周だって。というか、回数は本当に関係があるのか。もう、こうなったら都市伝説バリのきな臭さである。

けれど、全くのホラかというと、そうも言い切れない。
よくある「地方の言い伝え」と思いきや、れっきとした記録があるのだ。『越中伝説集』や『絵本太閤記』にて、その内容が確認できる。『絵本太閤記』から一部抜粋したのが、コチラ。

「今も猶、越中富山神通川の辺に、風雨の夜は、女の首を軒(のき)て、吊下げたる貌(かたち)の鬼火顕れ出づるを、土人號(なづ)けてぶらり火と云ふ。又、風雨もなき夜にても、さゆりさゆりと大声に呼ば、此ぶらり火顕れ出づるよし」

また、「一本榎」の近くには、早百合の霊を鎮める祠堂も。

「一本榎」のそばに建てられた「早百合観音祠堂」の解説

「早百合観音祠堂」

今回は、この「早百合伝説」をご紹介。
そもそも「早百合」とは、一体誰なのか。本当に殺されたのか。
富山に残る「早百合伝説」やら「黒百合伝説」、はては「ぶらり火」まで。その真相を探るべく、戦国武将・佐々成政と早百合姫の運命を辿ってみた。

早百合の子孫は実在した⁈佐々成政の「早百合伝説」の真実

「早百合」のご紹介の前に、忘れてはならない登場人物がもう一人。越中(富山県)を4年間統治した佐々成政(さっさなりまさ)である。

富山城

佐々成政は、織田信長の生え抜きの家臣。それも忠臣だ。どちらかというと、忠義に厚すぎたからこそ、豊臣秀吉に臣従できなかった悲運の武将といってもよい。織田信長の小姓、馬廻衆(親衛隊)を経て、信長が組織したエリート軍団である「母衣(ほろ)衆」に抜擢。この「黒母衣衆」の筆頭が佐々成政、そして「赤母衣衆」の筆頭が前田利家。共にライバル関係であり、柴田勝家の与力として、北陸方面制圧で活躍する。のちに2人は、残念ながら隣国同士で戦うことに。

出世街道をひた走っていた成政だが、突然、歯車が狂い始める。そのきっかけが天正10(1582)年の「本能寺の変」。忠義を誓っていた主君、織田信長が自刃。後継者争いとして名乗りを上げたのが豊臣秀吉と柴田勝家。両者が戦った「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」では、柴田勝家側として参戦するつもりが、上杉景勝のために身動き取れず。のちに、成政は秀吉に対して降伏している。

さらに、天正12(1584)年。信長の二男である信雄(のぶかつ)と徳川家康が連合軍となり、秀吉と対峙した「小牧・長久手の戦い」では、一応、秀吉側として参戦。ただ、水面下では徳川家康と連絡を取り合い、結果的に家康側に寝返っている。亡き主君・信長の遺児である信雄から誘われれば、断り切れなかったのだろうか。

勝敗の決着がつく前に、信雄と秀吉が講和を結ぶ。こうして「小牧・長久手の戦い」は終息。この展開に成政は諦めきれず、浜松城の家康の下へと説得に向かう。これが、有名な「さらさら越え」。厳寒の飛騨山脈を越えるほどの成政の執念がうかがえる。しかし、現実はというと家康の説得は叶わず、秀吉に対して、屈辱の2度目の降伏をすることに。もはや、秀吉に臣従する以外に手はなかったのである。

秀吉の下で耐え忍ぶこと数年、成政はようやく晴れて肥後国(熊本県)を与えられることになる。ただ、運悪く「肥後国人一揆」が勃発。一揆を制圧できなかった責めを負わされ、秀吉より切腹を言い渡される。天正16年(1588)年5月14日に切腹。成政53歳のとき。波乱の人生は、意外にもあっけなく幕を閉じる。

豊臣秀吉像

さて、ここでようやくの「早百合(さゆり)」ご登場である。
戦国武将の中で、謀反を起こしていないにもかかわらず、切腹を申し渡されるのは珍しい。だからなのか。ある噂が駆け巡る。この悲運は、ただの偶然ではない。一人の女の怨念がもたらしたのだと。

その女こそ、佐々成政の寵愛を受けた側室「早百合姫」(立場については諸説あり)。早百合姫は呉服村(富山県)の豪農・奥野与左衛門の娘。成政が領内を巡視した際に、見初められたのだとか(書物によりきっかけや場所などは変わる)。絶世の美女といわれていたようだが、どれほどかというと、富山藩士が記録した『肯搆泉達録(こうこうせんたつろく)』に、その記載がある。

「誠に類少なき国色なれば、成政の寵愛深く、しばしも傍(かたわら)を放さず」

傍から手放さないって。どんだけえ(悲鳴)というほどの、見事な寵愛っぷり。こうなれば、他の女の嫉妬を招くのは、火を見るよりも明らか。お察しの通り、早百合姫は、他の側室方の妬みをかうことになる。それが、折しもタイミングが悪過ぎた。成政が命からがら戻ってきた「さらさら越え」の直後のこと。家康の説得に失敗し、成政は失意のどん底。家康に裏切られたという思いが強く、精神状態は最悪。

そこに、青天の霹靂である。あの愛しい早百合姫が懐妊、それも、相手はなんと小姓の竹沢熊四郎。不義密通の末だと聞かされる。そして、都合よく、早百合姫のねやの戸口には、竹沢の火打ち袋が落ちているではないか。「えっ!なんで⁈」が、即「竹沢!おのれえっ~」と結びついてしまう。いやいや、密通だったら、余計にそんなヘマするわけないじゃんとは、思えない。だって、頭に血が上ってるんだもの。冷静になど考えられるワケがない。

こうして、あっという間に竹沢は成敗される。申し開きもできずに、斬り殺されたという。そして、残るは「愛しい」、いや、今では「憎い」早百合姫のみ。愛憎は表裏一体。愛情が深いほど、憎しみも深くなる。成政は早百合姫の黒髪を左手に巻き、神通川のほとりまで引きずっていく。場所は、もちろん、あの「一本榎」である。

磯部堤にある2代目「一本榎」

早百合姫一人では腹が収まらんと、成政は彼女の親兄弟一族18人を皆殺し(12人との説あり)。早百合姫はというと、木に吊るされながら、一族が首を刎ねられるたびに斬られ、惨殺されるのである。その様子は目も当てられないほどだったとか。『富山市史』には「鮟鱇(あんこう)斬り」と書かれている。鮟鱇は冬の魚。魚体が柔らかいので、料理するには吊るしてから切るのが普通。これと同じく、早百合姫も榎の木に吊るされて、魚のように無残に切り刻まれたという。

無実なのだ。それにもかかわらず、この恥辱。一族郎党の処刑。恨まない方がおかしいだろう。案の定、早百合姫も常軌を逸して叫びまくる。

「おのれ、成政、この身はここに斬罪せらるるとも、怨恨は悪鬼となり、数年ならずして、汝が子孫を殺しつくし、家名断絶せしむべし」と、叫びながら斬られたり。
見る者、目をおおい、聞く者、毛髪動く。(『絵本太閤記』)
「何の科(とが)なき者を、奥女中の嫉妬にて、目付役と申し合わせ、無実の罪に落さる。五十四万石。落城さするも、この恨みをはらさで置くべきか」と言い捨てて、瞑目したり。(『肯搆泉達録』)
(遠藤和子著『佐々成政』より一部抜粋)

書物によって言葉は異なるが、とにかく恨みつらみが半端ない。悔しさの余り、歯を噛み砕き、血の涙を流したという。恐ろしい、恐ろしすぎる。

そりゃ、出るわな。
たった400年。そんなちっぽけな年数など笑止千万。私でも、絶賛恨み継続中となるはずだ。朝日新聞だって取り上げるのも、頷ける。だって、濡れ衣着せられて、挙句の果てに殺されるんだもの。出ないワケにはいかない。これが、本当の話だったなら。

そう、焦点は一つ。
本当に、そんな惨殺があったのか。早百合姫とその一族は処刑されたのか。

長年にわたって佐々成政の研究をされた作家の遠藤和子氏。その書籍によれば、意外な事実が浮かび上がってくる。なんと、早百合姫の生家跡を訪ねたところ、現在住まわれている方のお名前が、奥野武継氏(※書籍発行の時点です)。「奥野」といえば、早百合姫も、確か「奥野」だったはず。じつは、この奥野氏こそ、早百合姫一族の子孫の方なのだとか。つまり、史実とは異なり、早百合姫の一族は生きていたことになる。

遠藤氏が話を聞いたところ、どうやら早百合姫が成敗されたのは事実のようだ。ただ、罰せられたのは彼女だけで、父親の与左衛門含め一族は全員無事。処罰されることなく、子孫もこうして生き残っているのだとか。また、早百合姫本人も惨殺されたワケではない。どうしても罰せざるを得なくなり已むなく処刑に至った、そんな裏の事情があるのではと、子孫の方は推測されている。

400年経った今では、何が真実か分からない。ただ、早百合姫は処罰され、一族は身を隠した。当時、忽然と早百合姫一族の姿が消えた状況を、連座制での一族処罰と誤解されたのではないだろうか。

「黒百合」は早百合姫の化身なのか?


さて、この「早百合伝説」には続きがある。
上の写真は「黒百合(くろゆり)」という花。この花の名前から付けられたのが、再び早百合姫降臨の「黒百合伝説」である。

なんと、この伝説は越中だけにはとどまらず。豊臣秀吉の正室「おね(ねね)」と側室の「淀殿」をも巻き込んだ壮大なスケールの物語となっている。もちろん、内容は、最終的には佐々成政が失脚し、切腹に至るまで。どうやら、成政が無実の早百合姫を惨殺後、僅か3年で死んだ歴史をベースにしたのだろう。人々が喜ぶ「勧善懲悪」モノ。「因果応報」仕立てとなっている。

出所は、言わずもがな。あの『絵本太閤記』である。

徳川家康を説得できず、不覚にも豊臣秀吉に臣従することとなった佐々成政。失意の中でも耐え抜き、天正15(1587)年に行われた秀吉の九州討伐を経て、ようやく肥後国(熊本県)を与えられることに。越中(富山)とは遠く離れた場所にはなったが、晴れて一国の主として返り咲いたのだ。

この采配の裏には、どうやら正室の「おね」の推挙があったという。そのため、佐々成政はお礼にと、珍しい花である「黒百合」の献上を思いつく。石川県の白山、大汝峰(おおなんじみね)の南、千蛇ヶ池(せんじゃがいけ)に咲く、黒く可憐な花。これを摘み取らせ届けたのである。予想通り、黒百合を見たおねは大喜び。

ライバル関係にあった側室の淀殿に自慢するべく、催した茶会の席上で、早速のご披露。生けたのは、千利休の娘・綾。一方、淀殿はというと、悔しがるわけでもなく、平然と黒百合を褒めそやしたのだとか。

北野恒富-「淀君」

ところが、3日後。大坂城内で花摘み供養の会が行われることに。回廊には、野の花を挿した竹筒が並べられる。なんと、その中に、おねが自慢したあの「黒百合」があるではないか。もちろん、生けたのは、淀殿。あろうことか、ツツジなどの卑しい花と混ぜて、わざわざ「生け捨て」にしたのである。黒百合など取るに足らぬ花。自分にとっては珍しくもなんともない、ただの野の花と変わらない。そう、おねに見せつけたのである。

侮辱されたと、おねは激怒。3日という日数を考えれば、おねの黒百合を見てから取り寄せたのでは遅すぎる。つまり、佐々成政が、正室の自分だけでなく、側室たちにも送っていたのではないかと考えたのだ。それも、さらに腹立たしいのは、おねの黒百合よりも、淀殿の黒百合の方が、みずみずしく立派なものであったというコト。

おねは成政を憎み、秀吉に悪口を吹き込んだ。こうして、成政は追い込まれ、最終的には秀吉から切腹を言い渡されたというストーリーだ。ついでに、花を生けた綾にも疑惑の目が。黒百合があることを淀殿に漏らした疑いだ。おねは根に持ち、父の千利休の悪口も吹き込む始末。こうして、千利休の切腹も何故だか「黒百合伝説」にからめられている。

『絵本太閤記』には、このような一節が。

「先に成政が手に殺されし早百合といへる女の怨念にて、今度黒百合の事より滅亡しけるにやと、そぞろに怪む者も多かりけりとや」

先ほどの「早百合伝説」の最後の場面。早百合姫が断末魔よろしく絶叫しながら、呪いの言葉を吐く。その内容にどこからともなく「黒百合」が付け足された。

「立山(富山県)に黒百合の咲く頃に、佐々成政は滅亡する」。
早百合の予言が、恐ろしくも現実となったのである。

黒百合の花

さて、ここまで盛り上げて書いておきながら、あえて言おう。
事の真相はというと、この「黒百合伝説」も全くのウソ、作り話の可能性が非常に高い。

そもそも、淀殿が秀吉の側室となったのが天正16(1588)年頃。『多門院日記』によれば、天正17(1589)年3月に淀城(京都市)に入城。寵愛を受けて、次第に上へと昇り詰めていく。一方で、佐々成政が切腹したのは天正16(1588)年5月14日。つまり、正室と側室の女の闘い、彼女たちの権力争いが激化する時期には、既に佐々成政はこの世にいない。黒百合を送ろうにも、送れないのだ。物理的に不可能という結論になる。だから黒百合伝説は、後世で創作されたという見方が大半だ。

ただ、巷では本当のように語られる「黒百合伝説」。
この歴史上のストーリーから生まれた花言葉は、残念ながら「恨み」や「呪い」といった不吉なモノばかり。とんだ迷惑を被ったのは、なんといっても「黒百合」そのものだろう。また、忘れてならないのは、佐々成政本人、そして縁者や子孫の方々である。

初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行(あつゆき)氏。彼は、佐々成政の子孫として有名な方の1人だ。じつは、ある書籍のあとがきの中で、彼は佐々家にまつわる驚くべきエピソードを紹介している。それは、亡母が佐々家に嫁いだ際に、姑から申し渡された家訓のこと。

「佐々家では『百合』は禁花。庭に植えても生け花にさしてもいけない」-(中略)-当時としてはいかに武門の末とはいえ知識階級であり、「百合は禁花」といった迷信のオカルト家訓には驚いたらしい。しかし、その暗い影は現代にも及び、そのインテリの亡母が私の妻にこの家訓を口伝し、妻は驚愕したものだった」
(遠藤和子著『佐々成政』より一部抜粋)

どれほど時間が経とうとも、たどってきた黒歴史はすぐに元には戻らない。それが、明白な誤りであったとしても、だ。元になる何らかの史実はあったのだろう。ただ、佐々成政を調べれば調べるほど、歴史は簡単に歪められることを、改めて思い知る。

ちょうど5月の晴れた日。
車で15分のところ、神通川近くの「一本榎」を訪れた。
木漏れ日のなか、歩を進める。新緑の色合いが眩しすぎて、この場所で凄惨な処刑など想像することができない。

2代目の「一本榎」

数々の書物に、早百合姫は不義密通、つまり姦通罪で処罰されたと記されている。書物によって相手の名や証拠はバラバラだが、「姦通ゆえに処罰」は共通項。つまり、早百合姫はこれが理由で処罰された可能性が高い。

ただ、不条理なのは、無実であっても処罰されたというコト。当時の分国法では、風評が立てばそれだけで処罰されることが多かった。早百合伝説の原点は「無実」ゆえの処罰。だからこそ、早百合姫は恨んでいたと思われたのだろう。「ぶらり火」などの怪談も、このような思い込みから口伝された可能性がある。

早百合姫は悲劇の主人公。一方で、寵愛していた彼女を殺さなければならなくなった佐々成政も同様だ。嫉妬深い惨殺魔のように扱われてしまったのは、非常に残念でならない。早百合伝説、黒百合伝説など、佐々成政を貶める内容は、越中を引き継いだライバル・加賀藩前田家が故意的に流したと、残された文書からも明らかになっている。

じつは、佐々成政は、富山ではヒーロー的扱いだ。築城や治水事業などに長け、民衆のことを考え続けた武将であったという。

その実直さは、かつての主君、織田信長に命を顧みず諫言したことで証明済み。宿敵・朝倉義景と浅井父子を討った際、信長は頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして酒宴を開いた。このとき、宴のあとに成政は一人残ったという。『後漢書』を例に出し、あの信長に人の道を説いて、苦言を呈した。これには信長も心を動かされ、その後、二人で政道について話し合ったといわれている。

歴史をみれば一目瞭然。佐々成政は、豊臣秀吉や前田利家のように、決して世渡り上手ではない。頭でっかちで不器用なところが目立つ。ただ、心根は正しい人物だったように思う。これまで、戦国記事を多く執筆してきたが、成政もまた、敗者であるがゆえに、歴史が塗り替えられて後世に伝わった一人だろう。

早百合姫と佐々成政の名誉回復を、強く願う。

参考文献
『佐々成政』 遠藤和子著 学陽書房 2010年4月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国越中を行く』 北日本新聞開発センター編 北日本新聞社 2003年7月
『越中の武将たち』北日本新聞社編集局著  北日本新聞社 1969年9月
『新選組記念館青木繁男調べ・知り・聞いた秘話を語る! 続・戦国おもしろばなし 百話』青木繁男著 ユニプラン 2017年3月