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2020.02.19

酔った伊達政宗が家臣を殴って反省文⁉︎戦国時代のお酒マナーがゴリゴリの体育会系だった!

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「ワインの中には知恵がある。ビールの中には自由がある。水の中にはバクテリアがいる」アメリカ合衆国建国の父、ベンジャミン・フランクリンはこんな言葉を残している。

はて、戦国大名であれば、「酒には…」何があると言っただろうか。「越後の虎」で有名な上杉謙信の辞世の句は「四十九年一睡夢 一期栄華 一盃酒」(諸説あり)。49年の生涯は一睡の夢に過ぎず、この世の栄華もまた一盃の酒のようなものだとか。確かに、謙信の人生は酒なくしては語れない。

しかし、謙信だけではない。戦国時代、酒にまつわる話には事欠かない。というのも、当時の祝事に「酒」は付き物、貴人から杯を賜ること自体「名誉なこと」とされていたからだ。そのため、必然的に酒と関わる機会が増える。もちろん、これに比して、その手の経験談も多くなるということだ。

今回は、そんな戦国時代のお酒あるあるを一挙にご紹介。一般的なお酒ルールから、戦国大名の珍妙な飲み会まで。今宵の酒の肴にどうだろうか。

戦国時代の信じられないお酒マナー

まずご紹介するのは。イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスの記録『日本教会史』より。当時の日本人の酒の飲み方について、冷静に観察・分析した記述が目を引く。

「すべての宴会、遊興、娯楽は、さまざまの方法で度がすぎるほど酒を強いるように仕組まれており、そのため酩酊し、多くの者が完全に前後不覚になってしまう。(中略)その宴会を開いてくれた家の主人に敬意と好意を示し、自分らへの接待を喜ぶ気持ちを表そうとして、生来飲めない者まで飲もうと努める」
金子拓著『戦国おもてなし時代』より一部抜粋

自分の胸に手を当て、静かに自省することなどない。これは、決してあなたの飲み方を指摘したわけではないから、どうかご安心を。

初っ端からなんともハードな内容だが。この記述からは、戦国時代、酒を飲めない下戸(げこ)など、存在しなかったように思われる。というのも、酒を「飲める」とか「飲めない」とかの次元ではないからだ。「飲む」一択。つまり、主人の「もてなし」の気持ちに応えるかどうか、議論の的はそこなのだ。それがたまたま「酒を飲むという行為」にすぎなかっただけ。下戸の方は、なかなか生きづらい世の中だったのだろう。

ちなみに、当時の一般的な酒のルールとしては、一滴も残らずに飲み干すのは「あさましい行為」と認識されていたようだ。一滴だけ残して、飲み口を拭うのが、戦国時代のお酒のマナーだった。

また、飲み方も独特で、「十度呑(じゅうどのみ)」「鶯呑(うぐいすのみ)」という飲み方が存在した。「十度呑」とは、10人ほどが車座になって、酒を順に飲んでゆく回し飲みスタイル。一人ずつ盃を受けて10杯飲み干したら盃を次に回すというもの。ちなみに、飲んでいる間は話すこともできなかった。肴を口にしたり、拭ったりすることは違反行為として罰酒が待っていたとか。「鶯呑」とは、10杯の酒を飲む早さを競うもの。10杯とは、設定の基準がまさしく戦国時代規格といえるだろう。令和生まれの私にとっては(サバ読み過ぎました)、甚だ恐ろしい限りだ。

謙信も、政宗も!戦国大名はお酒が好き!

「なんてたって、酒がなきゃ始まらん」
戦国時代には、常時、こうなるわけで。もちろん、戦国大名も、そんな「お酒大好き種族」の代表例の一つ。後世にまで、多くの戦国大名の「酒」にまつわる逸話が残されている。

まず、酒好きとして真っ先に名が挙がるのが、先ほどご紹介した「上杉謙信」。もはやそのレベルは、アル中ともいえる域に達しているほど。特に、謙信の「馬上杯(ばじょうはい)」は有名で、高台(茶碗・皿などの底にある基台)を高くして持ちやすいように工夫されていたとか。つまり、盃の下に長い持ち手があるようなイメージだ。無理なく馬の上でも飲める、謙信はそんな馬上杯を愛用していたという。

また、宴会では「春日盃(かすがのはい)」で酒を楽しんだ。こちらは、朱塗りで無地、直径が三寸八分五里(約12cm)深さ二寸(約6cm)の大盃だ。肴はほぼ食べずに、塩気がある梅干をしゃぶりながら呑んだとか。完全に、酒オンリーで生きていける武将だったようだ。

上杉謙信像

一方で、やはり酒好き戦国大名の上位にランクインするのが「伊達政宗」。酒はもちろんのこと、慶長遣欧使節に随行した宣教師ソテロの使者から、葡萄酒(ぶどうしゅ)も贈られているとか。洋酒までとは、なかなか幅広い。

また、伊達政宗自筆の文書からも、酒好きが伝わってくる。その名も「伊達政宗鷹狩掟書(だてまさむねたかがりおきてがき)」。鷹狩りを行うにあたって、政宗自らルールを作って自筆で書いたものだ。日付は、元和2(1616)年12月3日で花押もある。

この掟書、これまた内容が面白い。「朝食時に酒は小盃に3杯、場合によっては5杯」「晩は思うまま飲んで良し。ただし大酒は禁止」と酒の杯数を事細かに指示。一見、スルーしそうだが、よくよく考えれば朝にも晩にもと、一日中飲むということか。当時の鷹狩りは、日帰りもあれば数日かかって遠出するようなものまで。社内旅行に近い感覚なのかもしれない。それなら、ちょっと羽目を外して朝からお酒というパターンもなくはない。一説には、悪ノリして冗談で書いたとも。確かに、伊達政宗ならやりかねない。

伊達政宗像

そんな政宗も、酒の席での失敗は数知れず。そのうちの一つが、酒に酔ってかっとなり、家臣を鞘(さや)で殴ってしまったという事件。どうやら、相当酔っていたようで、酔いが醒めて自分の失態に気付いたという。ただ、器の大きさが違うのか、自分の非を認めるのに躊躇しない性格なのか。政宗は素直に家臣に対して反省をしている。というのも、その反省を書いた文書が残されているからだ。是非とも、上司の方々には手本として頂きたい。身分のせいにしない、酒のせいにしない。その潔さが政宗の魅力といえるだろう。

信長の「髑髏杯(どくろはい)」は脚色された?

さて、戦国大名全員が酒好きかといえば、そうでない場合も。

じつは、「織田信長は酒を飲まない」という説もある。
これは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが書いた手紙にそのような記述があるからだ。当時、フロイスは、信長に何度か謁見をして、その様子を細かく書き留めている。問題の手紙は、永禄12(1569)年6月1日の夜、フロイスが岐阜に出発する直前に、豊後(大分県)にいた司祭宛に書かれたものとされている。

「この尾張国主は三十七歳で会ったと思います。背が高く、痩せた男で、ヒゲは少し、抑揚をつけた尊大な言い方をします。…中略…酒(ビノ)は飲まず、またほとんど誰にも杯を与えず、(人の)取り扱いは過酷…」
高木洋編 『宣教師が見た信長の戦国』より一部抜粋

織田信長の容姿や印象などが書かれた中で、「酒は飲まない」と記されている。ただ、この資料だけでは判断が難しく、定かではないだろう。

それよりも、酒にまつわる信長の逸話といえば、やはり「髑髏杯(どくろはい)」が有名ではないだろうか。もとはといえば、元亀元(1570)年、越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)討伐の失敗から話は始まる。遠征失敗の理由、それは浅井長政(あざいながまさ)の裏切りにあった。浅井長政は、信長の妹お市の嫁ぎ先でもある。信長からすれば義弟で盟友だった長政。その突然の離反で、これまで善戦していた状況が一転。逆に、信長は前後を敵に阻まれる結果に陥ることに。窮地に立たされるも、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)らを殿(しんがり)軍として、金ヶ崎(かねがさき)より脱出に成功した。

よほど、義弟の裏切りが予想外で許せなかったのだろう。信長の浅井長政への怒りは尋常ではなかった。その後、姉川の戦い、志賀の陣を経て、天正元(1573)年8月にようやく浅井・朝倉氏を自刃に追い込み、滅亡させる。そして、年が明けた天正2(1574)年の正月。このときの岐阜城における信長の様子が『信長公記』に記されている。

「天正二年正月一日、京都及び近隣諸国の大名・武将たちが岐阜に来て滞在し、信長に挨拶をするため出仕した。それぞれに三献の作法で、招待の酒宴が開かれた。
他国衆が退出した後、信長のお馬廻り衆だけで、いまだかつて聞いたこともない珍奇な肴が出され、酒宴が行われた。
去年北国で討ち取った、
一、朝倉義景の首
一、浅井久政の首
一、浅井長政の首
以上三つ、箔濃(はくだみ)にしたものを膳に置き、これを肴にして酒宴をしたのである」
太田牛一著 『信長公記』より一部抜粋

浅井久政とは、長政の父である。『信長公記』によれば、これら3人の首を酒宴の席で持ち出して酒の肴にしたという。なお、箔濃とは、漆で塗り固めてから、金泥などで彩色する技法のこと。つまり、生首ではなく髑髏(どくろ)に漆を塗って金銀で装飾したようだ。

『織田軍記』にはもう少し詳しく書かれ、黒漆の箱から取り出された3つの首には、それぞれ名札がついていたとされている。敵将の首を装飾して膳の上に置き、それを眺めて酒を飲む。なんとも「The戦国時代」のイメージにぴったりの演出だろうか。

なお、都市伝説のように、信長はこの髑髏を杯にして酒を飲んだという話もある。いわゆる「髑髏杯(どくろはい)」である。しかし、『信長公記』にも『織田軍記』にもそのような記録はない。ただ、酒の肴、それも「珍奇」な肴と捉え、それを見ながら飲んだようである。一方で『浅井三代記』には「髑髏杯」と解釈できそうな部分も。しかし、実際には酒を注いで飲んだわけではなく、どうやら後世での創作の可能性が高いといわれている。

それにしても、信長の家臣でなくて良かったと安堵する。きっと、髑髏を片手に酒を飲むなど、家臣もドン引きだろうと思いきや、意外にも大歓迎の様子。

「皆が謡をうたい、遊び興じた。信長は何もかも思いどおりとなって誠にめでたく、上機嫌であった」
太田牛一著 『信長公記』より一部抜粋

そうか。信長の家臣とはこういうことか。主君、信長と同じ感覚を持つことが必要なのだろう。それができなければ、荒木村重のように離反することになるのかもしれない。

ただ、この酒宴がそこまで異様かといわれれば、難しいところである。というのも、現代とは感覚が大きく異なるからだ。当時は「首」に対して、そこまでの衝撃は抱かない。首実検の前には、生首に化粧までして調えることも当たり前。「首」に対する価値観が大きく異なり、ただのボディパーツというよりは、「本人を表す象徴」という捉え方をしている。

だからこそ信長は、自分を苦しめた3人、特に裏切った浅井長政をこの酒宴の席に出させ、辛酸をなめた家臣の労をねぎらいたかったのだろう。たまたま、それが「髑髏」という姿になっただけだ。今でいえば、「憎き相手の写真」を見ながら、あの時は大変だったなと杯を重ねるという感じか。

酒は全てを忘れさせてくれる。
嬉しいことも、悲しいことも。酒を飲めば、日を経たずして全ては過ぎ去り、忘却の彼方へ。

それでは、具体的に一体何を忘れさせてくれるというのか。彼らに聞けば、きっとこんな答えが返ってくるだろう。

「積年の恨み」 by織田信長。
「殴ってしまったこと」 by伊達政宗
そして辞世の句に酒を盛り込んだこのお方。
「人生」 by上杉謙信

そしてあなたは?
一体、何を忘れさせてほしいだろうか。

参考文献
『戦国おもてなし時代』 金子拓著 淡交社. 2017年10月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国 戦の作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2018年6月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『宣教師が見た信長の戦国』 高木洋編 風媒社 2011年3月
新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』小池徹郎編 学習研究社 2009年6月
『病気日本史 普及版』 中島陽一郎著 雄山閣 2018年4月
『戦国武将名言録』楠戸義昭著 PHP研究所 2006年7月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。