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愚かな連中は、迷いにとらわれ、悪の種をまけば悪の報いがあり、善の種をまけば善の報いがあるという原理を信用しない。(日本霊異記)
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Culture
2020.05.26

ああ、そんな…殿、口でなんて!毛利元就と加藤嘉明、家臣を胸キュンさせた仰天秘話

この記事を書いた人

戦国武将はツンデレだ。
まずは、いったん「はあ?」の声をグッとこらえよう。そうして、落ち着いて説明を聞いてほしい。

だって、戦国武将たるもの。ヤワな精神じゃ生きられない。下剋上を勝ち抜いて維持するそのパワフルさ。オラオラっぷりの率先垂範で家臣団を統率する。時に厳しく、時にもっと厳しく。けれど、その反面、たまに見せる「いたわり」や「優しさ」は、絶妙に家臣の心を揺さぶって離さない。

まあ、一言でいえば「エモい」のだ。

そんな主君の一面を見せられたら、そりゃ、家臣だって病みつきにもなるわな。中毒者続出というワケで。さらに主君のために励まんと、家臣の忠義も厚くなる。こうして、主君と家臣団の好循環が作られる。

つまり、戦国武将として生き残るためには、平素は猛将でありながら、じつは家臣への愛情はたっぷり。「ツンデレ」が必須条件なのである。

今回は、そんな戦国武将の中でも、とりわけ家臣の心を大きく震えさせたエピソードをお持ちの方をご紹介。

猛将と呼ばれる毛利元就(もうりもとなり)と加藤嘉明(かとうよしあき)。
一体、彼らは、どのようにして家臣を胸キュンとさせたのか。とくと、ご覧あれ。

ああ、そんな…殿、口でなど勿体ない!!!

最初にご紹介するのは、中国地方の覇者である毛利元就(もうりもとなり)。彼の生き様は、まさしく下剋上そのもの。弱小豪族の毛利一族を大国の主にした立役者だ。隣国には名だたる一族ばかり。周防国(すおうのくに、山口県)の大内氏に、出雲国(いずものくに、島根県)の尼子氏(あまごし)など。それでも、元就は謀略で抑え込む。

とにかく、毛利元就のイメージは狡猾で邪悪。というのも、敵国を偽情報や買収などで撹乱、弱体化させる手法を得意とするからだ。しかし、裏を返せば、戦国時代きっての戦略家だというコト。確かに、戦は正面切って攻めるのが全てではない。敵方が内紛し自滅すれば、こちらとしても助かるのだから。アリといえばアリなのかもしれない。

こうして計略を重ね、毛利一族はあっという間に中国地方を制圧。あの織田信長とは、一時期手を取り合うところまで交渉が進んだことも。昨日の敵は今日の友。手段を選ばず、相手を選ばす。そう考えれば、毛利元就という男は、その都度、判断する合理的な主君だといえる。

毛利氏の菩提寺である「東光寺」(山口県萩市)

さて、案外、人は見かけによらぬもの。
毛利一族に敵対する者には冷酷な元就だが、家臣に対してはどのような主君だったのか。

元亀元(1570)年、尼子氏の残党が再起を狙って兵を挙げ、毛利軍が迎え撃った「布部山(ふべやま)の戦い」。残党といっても、執念の山中幸盛(ゆきもり)ら家臣を筆頭に、兵は思いのほか、膨れ上がっていた。ときに、毛利元就74歳。ちょうど亡くなる前年のことである。

予想外の激戦で、当初は尼子再興軍に押されていた毛利軍。そのとき、不運にも、元就の家臣である岩木道忠が重傷を負ってしまう。矢が左ひざに命中してしまったのだ。矢を抜いても、先端の矢じりが肉に食い込んでいる厳しい状況。非常に絶望的。これを診た医師も、左ひざから切断するしか方法がないと、さじを投げたという。

過酷な戦国時代に、左ひざを切るなど言語道断。片足で戦場に出ることは不可能である。道忠は、医師の見立てを聞いて、ガックリとうなだれる。武士として死んだも同然と、肩を震わしたのだとか。

そのとき、そばにいた主君・毛利元就は一喝。ちなみに、家臣の道忠に対してではない。医師に対しての一喝だ。そんな四の五の言っとらんと、なんとかせんかい的な。そして、医師を叱りつけ場所を空けさせると。なんと、問答無用。

いきなり、道忠の左ひざの傷口に、チューチュー。
ええっ???
元就が、文字通り、左足にかぶりついたのである。

う、うわぁ⁈
と、とのおぉ~!〇△$☆~!!!!

待ったなし。とにかく、家臣を救いたい一心で、元就は家臣の傷口に吸いついたのだ。膿(うみ)をチューチューと吸いだして吐く。この繰り返し。その間に、なんとか、舌で肉をかき分ける。そうして、ようやく埋もれた矢じりを舌で探り当てることに成功。無事に、矢じりを取り出したという。

これに驚いたのは、もちろん当の本人、岩木秀忠である。主君自らが、こんな汗まみれ、泥まみれ、ついでに血まみれの足に口をつけてくれたのである。それも、あろうことか傷口を吸引、膿まで引き受けてくれちゃったりなんかして。

そりゃ、感動して当然である。道忠は、決意して元就に申し出る。
「殿のためなら命など惜しくはありません」

これに対して、返した元就の言葉がコチラ。

「『そなたがわれらの挙動に感激して、厚義と思うようなら大勇ではないぞ。部下の一命をとりとめるために、これしきのことをするのは当たり前のことだ』と深くいましめた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

毛利元就の何がスゴいか。
確かに、傷口にかぶりつくのも、主君としては規格外だ。しかし、戦場での緊急事態という点を考慮すれば、可能性はゼロではない。一か八かで自分の身が汚れても構わないと、試す主君がいるかもしれない。ただ、果たして、そのあとに「当然だ」といえるかどうか。家臣を戒めることができるかどうか。

毛利元就のこの一言。
感動ダメ押しのダブルパンチである。
ちなみに、これで毛利軍の士気も上がり、尼子再興軍を撃退。結果はトリプルパンチであった。

殿おぉ!まさかの9枚割りって、どゆこと?

さて、お次は加藤嘉明(かとうよしあき)。同じ「加藤」でも、加藤清正とは別人なので、ご注意を。

加藤嘉明は、豊臣秀吉子飼いの家臣の1人。織田信長亡きあと、家臣のなかで繰り広げられる後継者争い。その最たるものが、天正11(1583)年、豊臣秀吉と柴田勝家が激突した「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」だ。この合戦で武功を挙げた加藤嘉明は、のちに「賤ケ岳七本槍」の1人として数えられる。

嘉明は秀吉の家臣として有名だ。ただ、元をたどれば、父・教明(のりあき)は、三河国(愛知県)で徳川家康(当時は松平信康)に仕えていた身。三河一向一揆で家康に背いて流浪し、息子の嘉明も近江国(滋賀県)へと流れつく。馬喰(ばくろう、馬飼いの仕事)に養われ、当時から馬の扱いには非常に長けていたのだとか。瞬時に馬をいなして手なずけたことが認められ、秀吉の家臣に。以降は、順調に出世の階段を駆け上がっていく。

秀吉死後は、徳川家康に臣従。伊予松山藩(愛媛県)の20万石から、寛永4(1627)年には、陸奥会津藩(福島県)の43万5千石へと加増。物事に動じることがなく、実直で律義者と周囲からの評判も。

加藤嘉明像

そんな加藤嘉明の逸話は、多く残っている。
どの話からもイメージできるのは、あまり、細かいことを気にしない性格だというコト。固執せず、さっぱりした気性だったようだ。柔軟性には欠けるかもしれないが、抜きん出た実直さ、律義さは折り紙つき。家臣からすれば、分かりやすい主君だったのかもしれない。

ただ、この話に限っては、嘉明の行動は全く読めず、予測不能。意外なオチがつく。そもそも、コトの発端は、嘉明のコレクター癖による。当時、彼は南蛮渡来の焼物の蒐集(しゅうしゅう)に凝っていた。なかでも、お気に入りは「虫喰南蛮(むしくいなんばん)」と名付けられた10枚1セットの小皿。非常に大切にしていたという。

ある日、そんな「虫喰南蛮」の1枚が割られる事件が発生。うっかり割ってしまったのは、嘉明の近習(きんじゅ)の1人。その日は来客の饗応の準備に追われて、忙しかったというのだ。

さて、割った当の本人はどうすることもできず。ちびる覚悟で震えながら嘉明に申し出る。主君によっては、大事な皿を割ったと、即刻手討ちにすることも。もちろん、斬られても文句など言えない。だって、割った自分が一番悪いのだから、自業自得である。こうして、近習は、最悪の結末を想像しながら、嘉明の判断を待つことに。

すると、パリン!
突然、皿の割れる音が。

恐る恐る主君を仰ぎ見ると。
パリン!

えっ?えええええええええー?
主君自らが、お気に入りの「虫喰南蛮」の小皿を割っているではないか。

全くもって予想外の展開である。何を思ったのか、加藤嘉明は残りの9枚の皿を次々と割っていたのだ。近習の恐怖は、もちろんピークに。ま、まさかの。主君はついに、怒り狂ってキレてしまったのか。

自暴自棄?嫌味?
もう、支離滅裂、意味不明である。

確かに、10枚セットの小皿であるため、1枚欠けると価値はないも同然。だからといって、9枚も割っちゃう?それって、振り幅、広すぎだろ。

一方、嘉明の本音はというと。思惑は、全く別のところにあった。

「十枚組の皿で一枚足りないと、この皿を箱から出すたびに、誰それが粗相(そそう)して割ったのだと言われ続けることになる。それではその者がかわいそうだ。だから、全部割って、最初から何も無かったことにしたのだ」
(歴史の謎研究会編『刀剣・兜で知る戦国武将40話』より一部抜粋)

家臣を叱責などせず。それでいて、口だけでもない。行動で示す。

ただ「許す」「問題ない」という言葉を口にするのは簡単だ。けれど、そんな言葉を並べられても、9枚の皿を見るたびに、大失態を思い出す。「9枚の皿」の存在は「皿1枚割った証拠」と同義だ。近習は、この先何度もいたたまれない気持ちを抱くはず。そこまで、嘉明は考えたのだ。だっだら、その証拠ごと、思い切って全て消し去ればいいと。

なんという大胆さ。そして、あっぱれな男意気。嘉明の行動から「本当の優しさ」とは何だろうと、つい考え込んでしまった。なかなか、奥が深いものである。

恐るべし、加藤嘉明の優しさであった。

さて、ここまで家臣思いのエピソードを2つ書いてきたが。
嗚呼(ああ)。
もう書きながら、ふごふごと私の鼻息が荒くなる。筆が止まらんとはこういうコトか。読み返せば、BL(ボーイズラブ)小説のようになってしまった。ある意味、新たな境地ではあるのだが。

今なら分かる。彼らの気持ちになって書き上げた今なら。熱き殿の恩顧に心震えた家臣たち。きっと、家臣たちの胸中はこんな感じだろう。
「殿おぉ~!(溢れすぎる愛)時々(涙)」

普段厳しい環境に置かれるほど、人はそのギャップにやられてしまう。
冷静に考えれば、全くもって納得できない詐欺効果だ。だって、ちょっと優しいより、ずっと優しい方が、断然いいに決まってる。けれど、当事者には分からない。優しさが続くと、それに麻痺してしまうからだ。ちょうど、伸びきったゴムのように。まさか、ゆるゆるだとは気付かない。

逆に、ずっと厳しければ、僅かな優しさなのに効果絶大。優しくされた記憶が確実に残る。ずっと塩辛いモノを食べ続けて、黒糖を一舐めした感じ。そこまで甘くないのに、超絶甘いと感じるアレだ。ああ、自分は大切にされてるんだと、強烈に思える。それがまた、心地よい。

だから、できるんだ。

だから、家臣たちは、命がけで主君のために戦えるのだろう。ちっぽけな自分一人の命なんかで、結果は変わらないかもしれない。でも、だからこそ。自分だけでも、「大切な殿のために」と思えてしまう。

絶妙な緩急。
強固な人間関係を永続させる秘密は、コレだったのだ。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『毛利元就』 森本繁著 新人物往来社 1996年10月
『図説毛利元就』 荒井魏編 毎日新聞社 1997年2月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。