Culture
2020.05.30

天下取りの裏にヤラセ疑惑?監督・豊臣秀吉、出演・徳川家康による世にも珍しい茶番劇

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「天下は戦場で取るんじゃない!会議室で取るんだ!」

もし、豊臣秀吉が『踊る大捜査線』を見ていたら、きっとこう呟くに違いない。

あれ?逆じゃない?
天下って、戦いに勝って実力で取るもんじゃないの?
確かに、戦いを繰り広げ、多くの兵たちが血を流した末に、天下を奪い取るのも、時には必要。しかし、それでは「足りん」と気付いた武将がいた。

豊臣秀吉である。
だって、天下人になったところで。結局、また強いヤツがどこからともなく湧いて出る。下手すれば、今度は自分が天下を奪い取られる側に。息つく暇などない。おちおち安眠などできない日々が続くワケである。要は、その繰り返し。この時点で、既に秀吉は、天下を取っても終わりがないことを悟ったのである。

だったら……。
策士・秀吉は、密かに天下人になった「あとのこと」を考えた。戦いに全総力をつぎ込めば、そこを突かれる。余力を残しながら、天下を取るのが前提条件。そのうえで、他の戦国大名たちも、素直に従った方がよいと思わせることが重要だ。ひいては、コレが今後の政権運営のカギとなる。問題は、誰がキーマンとなるのかというコト。

あっ。あの狸、徳川家康がいた!

こうして、世にも珍しい天下取りの茶番劇が生まれることになる。
プロデューサー兼監督:豊臣秀吉
助監督:豊臣秀長(秀吉の弟)
キャスト:徳川家康、あと、まんまと騙された武将たち

今回は、豊臣秀吉の天下取りの際に仕組まれた、さぶさぶの茶番劇「秀吉&家康プレゼンツ。天下取りの最後の仕上げは頭脳戦? NO MORE流血」をご紹介しよう。

徳川家康、ついに豊臣秀吉の元へ上京⁈

徳川家康は思い悩んでいた。
何度も、豊臣秀吉が上洛(京都の豊臣秀吉の元へ行くこと)を催促するからだ。のらりくらりとしてはいたが、早々、何度もかわすことなどできないコトは、目に見えている。

全ては「本能寺の変」から始まる。天正10(1582)年6月。天下まであと一歩のところで、織田信長が謀反にあい自刃。この事件によって、ちょうど天下に一番近い「信長の次期ポスト」が空いたワケである。すぐさま、信長の家臣であった豊臣秀吉は動く。謀反を起こした明智光秀を討つことに成功。その勢いで、信長の家老であった柴田勝家と対峙。この「賤ケ岳の戦い」にも勝ち、柴田勝家も自刃。

豊臣秀吉像

残る敵は、織田信長と同盟を結んでいた徳川家康。信長の二男である信雄(のぶかつ)と家康は連合軍となって、秀吉に対峙する。これが、天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」である。兵力差はあった。豊臣軍は10万(8万とも)、織田信雄・徳川家康連合軍は3万(1万6000とも)。それでも、局地戦では豊臣軍が劣勢となる場面もあり、実際に豊臣方の森長可(ながよし)や池田恒興(いけだつねおき)らは戦死している。

結果、秀吉は戦いの途中で織田信雄と和睦。

一方、徳川家康からすれば、そもそも「小牧・長久手の戦い」は「織田信雄のために加勢した」という名分ありきの戦いだ。その名分が失われた今、形式的にも戦いを継続することなどできず。そして、実質的に見ても、その結論は同じであった。というのも、秀吉と家康は、共にこの戦いで相手の力量を把握したからだ。互いに、軽く侮れない相手だと認め合うことに。こうして、両者は「できるだけ安易な直接対決は避けるべき」との結論に至ったワケである。

徳川家康像

ただ、それでも徳川家康には少しの迷いがあった。捨て身の覚悟で豊臣秀吉と一戦交えるか、とりあえず今は温存して天下取りの時期を待つかと。だからこそ、上洛を催促されても、当初は「一戦交えるために英気を養っている」と返答していたことも。

これに対して、秀吉は家康を上洛させる方法を思いつく。早速、家康の元へと使者を出す。『名将言行録』には、家康に伝えられた秀吉の言葉が記録されている。

「ともかく天下のことは、万事ご談合しなくては叶わぬことですので、ぜひともご上洛なさるよう。さて、貴殿におかれては、ただいま夫人がない由をうけたまわっております。さいわい拙者の妹を差し上げましょう。末子ですので、大政所(おおまんどころ、秀吉の母)が特別にかわいがっておりますので、手放しにくうございますゆえ、大政所も一緒に差し向けましょう。なおまた貴殿方にはお子が多くおありですので、一人養子にいたしたく存じます」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

秀吉の妹、それに母までも、こちらは人質として差し出す用意があるとの申し出であった。これには、さすがの家康も折れて同意。こうして、家康の上洛が決まったのである。

常套手段?秀吉のプレゼント攻勢がスゴイ!

未練を断ち切って向かった京都。そんな家康を待ち受けていたのは、じつに不可思議な対応であった。

天正14(1584)年9月27日。徳川家康が上洛すると、早速、豊臣秀吉からの使者が到着。すぐに会えるかと思っていたが、どうやら秀吉が風邪を引いており難しいという。会見は4、5日延期するとのことであった。家康は戸惑う。切腹でも申し付けられるのか、そんな疑いが頭をかすめたのだとか。

それなのに、だ。
その夜、家康の旅宿に一人の人物が訪ねてくる。
意外にも、豊臣秀吉、その人であった。

家康は、どうなることかと全く先が読めず。
そこで、秀吉が取った行動は、まさかの「へりくだり作戦」であった。

上京させてすまなかったと、まずは、秀吉から名刀が贈られる。その夜、秀吉と家康は二人で酒を酌み交わしたという。
意図が読めないまま。次の日(28日)に。

またしても、秀吉が訪ねてくる。そこでは、名物の茶壷が家康に贈られた。全くもって、不可解な接待である。

そして、29日。翌日も、やはり秀吉が訪問。その日は黄金300枚が贈られた。

ちょっと待って。どゆこと?
これは、秀吉が最も得意とする「プレゼント攻勢」である。何かをお願いするとき、秀吉はへりくだって、プレゼントを用意する。そして、言葉巧みに相手を持ち上げて、いい気分にしてからお願いするのである。

こうして、さらなる翌日。
やはり、秀吉は家康の元を訪ねている。この日は小袖を贈っている。これだけ、色々なプレゼントを家康に貢いでおいてから。ようやく、ここで本題である。明日の会見についてのコト。やっと、会見ができるというのだ。しかし、それだけではない。会見の段取りについて、家康に事細かにお願いしたのである。

「私に対し少し慇懃(いんぎん)にご挨拶をなさって下さい。そうすれば、信長以来の侍大将も、私にむかって主人としての会釈をするでしょうから」
(同上より一部抜粋)

つまり、家康が秀吉を認めれば、他の武将たちも相応の態度を取るだろうと。それを期待してのプレゼント攻勢だったのである。これに対して、家康は同意する。秀吉はお礼を言って、頭を三度も下げて帰っていったという。

いやいや、いくらなんでも、アタマ下げすぎだろ。ってか、ここまでする?もう、戦した方が早いんじゃねと思わなくもない。秀吉のプライドは、一体、どこに行ったのか。

それでも、そんな秀吉の努力の甲斐あって。当日は、脚本通りの進行が粛々と行われることに。茶番劇を知らない諸将たちは固唾を呑んで、二人の会見を待っている。なんといっても、あの徳川家康が上洛したのだから。どうなるんだと、腹の探り合い。いやいや、秀吉の母親を人質に取った上での上洛なんだから。家康の方が上段にいくのではないか。噂しながら、家康の登場を待つ。もう、ドキドキの展開である。

そこで、家康が登場。以下、脚本である。
秀吉:上座より セリフ「大儀であった」
家康:下座にて慇懃に礼を述べる

実際、この脚本通りにコトが展開。家康が秀吉のことを主人のように扱って振舞ったと、話題騒然。この日から、他の武将も秀吉を主人のように仰ぎ見ることになったという。秀吉の茶番劇は目論見通り。見事、成功したのである。

ねーねー。その陣羽織、欲しいんだけど?

これで、もう十分。
そう思わないのが、豊臣秀吉。まだまだ、足りないと思ったのだろう。改めて脚本を追加する。その小道具に使われたのが「陣羽織(じんばおり)」。陣羽織とは、鎧や具足の上に陣中で羽織る袖なしの羽織である。

歌川国芳-「太平記英勇伝-笹井右近尚直-坂井政尚」羽織っているのが「陣羽織」

場所は豊臣秀長の屋敷(諸説あり)。朝の食事に徳川家康や諸将を招いたときに、なぜか秀吉も急に同席。その時に秀吉が羽織っていたのが、白い陣羽織である。紅梅の裏をつけ、襟と袖には赤地に唐草の刺繍が施されたものだったと『名将言行録』には記録されている。一説には、サファヴィール朝ペルシア帝国の宮廷工房で作られたものとも。高級絨毯を裁断して陣羽織に仕立てられたのだとか。そのため、金糸や銀糸などがふんだんに使われた豪奢なものだという。

さて、ちょうど、秀吉が席を外した際に、横から秀長と浅野長政が家康に耳打ちする。あの今着られている陣羽織を、どうか殿下に所望してほしいと。家康は意味不明。人のモノなど欲しくはない。今までそんな真似はしたことがないと拒否。しかし、秀長らは、まあまあ、そう言わずにと、その真意を説明する。家康は納得して、追加の脚本を演じるのである。

以下、追加の脚本。
家康:セリフ「殿下の陣羽織を私に下さいませんか」

秀吉:セリフ「これは私の陣羽織なので、差し上げるわけには」

家康:セリフ「陣羽織と聞けばなおのこと。拝受をお願いします。私がこうしている以上は、再び殿下に御武装をさせ申すことのないようにと思っております」

秀吉:満足げな笑みを浮かべて、大いに喜ぶ。セリフ「それならば差し上げましょう」。自ら脱いで陣羽織を家康に着せる。セリフ「ただいま、徳川殿は私にもう武装させないといわれた。これを各々聞いたであろう。私はよき妹婿をもった果報者だ」。さらにダメ押し。セリフ「近所の清水寺へ行くのも、私には3万から2万の人数がついてくる」。大笑いで締める。

こうして、またもや脚本通りに茶番劇は演じられ、無事に終了。なお、最後の秀吉のセリフだけは、家康に示されたものである。兵の数をそれとなく告げて、その威力を誇示したのだとか。陣羽織も家康の手に渡り、これにて劇は幕を閉じたのであった。

家康上洛のドキドキ舞台裏。秀吉・母の運命は?

さて、今回の豊臣秀吉と徳川家康の対決。どちらが上手(うわて)だったのか。

豊臣秀吉はというと。もちろん、この茶番劇の裏側で、弟の秀長に責められた。家康を上洛させるために、母親の大政所を人質に出したからである。

秀長曰く、老母を敵地に出すなど「武門の瑕瑾(きず)」だと。

これに対して、秀吉は一言。
「器が狭い」。

「家康のような名将が、わしにしたがえば、天下を掌握するのに時日はいらぬ。だが、もし家康と兵を交えれば、たといいったんは勝利を得ても、かならず危殆をまぬがれるわけにはいくまい」
(同上より一部抜粋)

「戦わずして勝を得るのは、良将のなすところ」と説いている。

秀吉の方が、一枚上手(うわて)。だからこそ、家康よりも先に天下人となれたのであろう。流血を避け、政権運営を考えて編み出した水面下での根回し。こうして茶番劇の噂は、瞬く間に中国、四国地方へと拡散。秀吉の威光は戦わずして、世に広められることになったのである。

だが、そうであればと、ひっかかるのは私だけだろうか。
多くの命を無駄死にさせた朝鮮出兵。
できることなら、このときにこそ、「戦わずして……」を発揮してもらいたかったものである。

一方の徳川家康。こちらも、徳川家臣団から責められる。

やはり、最後はこの画像で締めましょう。いつもの、ほっこり徳川家康像

上洛を決めたことに対して、酒井忠次(さかいただつぐ)をはじめ諸将たちは思い止まるように説得。上洛後、どのような展開になるのか読めないからだ。だったら、そんな不明確な選択肢を選ばなければいい。たとえ豊臣方と断絶しても、敵対関係になったとしても致し方ないと、しきりに申し立てたという。

しかし、家康が上洛を決めた理由は別にあった。『名将言行録』には、このように記されている。

「わし一人が腹を切って万民を助ける所存だ。わしが上京しなかったら、かならず断絶の仲になってしまうだろう。そうなれば、百万騎で押し寄せてきても、一合戦で討ち果たすこともできようが、戦の習いとしてはそうばかりではないのだ。わし一人の覚悟によって、民百姓諸侍らを山野で殺せば、その亡霊の思惑も恐ろしい。わし一人が腹を切れば、諸人の命を助けることができる」
(同上より一部抜粋)

じつは、家康は切腹覚悟で上洛を決意していたのだ。それも、徳川家存続、ひいては多くの命を優先させた上での決断のこと。

そのため、家康は上洛する際、自分が切腹に至れば、大政所(秀吉の母)を殺せと井伊直政と大久保忠世(ただよ)に言いつけている。併せて、侍女どもには手をつけるな、助けて返せとも。罪もない女ばらを殺したとなれば、外聞もよくない。そんな醜聞は来世まで伝わるからと。きつく彼らに命令している。

無用な殺生を好まず、その考えを貫き通した徳川家康。
徳川家が15代まで続いた理由はここにあるのかもしれない。

秀吉と家康。
共にそれぞれの思惑が交差するも、無事に茶番劇は終了。何事もなく徳川家康は国元へと戻ることに。流血は起きずに済んだのである。

さてさて。この結末を一番喜んだのは誰か。
殺されずに帰京したあの人、もちろん、秀吉の母であろう。彼女なら、こう言ったに違いない。

「天下は戦場で取るんじゃない!母の捨て身の覚悟で取るんだ!」

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月