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2017.09.21

パフォーマーとしても天才だった葛飾北斎。即興アートもお手のもの!

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富嶽三十六景シリーズをはじめとする浮世絵や、肉筆画、絵手本として残した北斎漫画など、様々な分野で才能を発揮していた葛飾北斎。実は、自己プロデュース能力にも長けていました。絵手本の悪口を聞いた北斎が行った、驚きのパフォーマンスとは?

葛飾北斎が人気急上昇した理由は、思い切ったアピール力!

北斎は、40歳を過ぎたころから即興の「席画」や「曲画」などの、今でいうパフォーマンス・アートをたびたび試みています。

たとえば、寛政11(1799)年には三囲稲荷の開帳に合わせて「曲画」を披露し、文化元(1804)年の音羽護国寺の観世音開帳時には、本堂の前で120畳の紙に大ダルマを描いているのです。

その評判は将軍家にも伝わり、11代将軍家斉の前で谷文晁とともに「席画」を行ったという話も伝わっていて、さまざまなパフォーマンスによって、北斎が名を上げていったことがわかります。
P 尾張名所図会. 附録 巻1「尾張名所図会」附録 巻1 国立国会図書館/北斎みずから用意したチラシにひかれて集まった観衆の前で、大筆を操る北斎とサポートする弟子たち。北斎は絵師としてのみならず、策士としても優秀だったようだ。

その後、「北斎漫画」が評判になっていた文化14(1817)年に訪れた名古屋で、絵手本の悪口を耳にすると、江戸で行っていたパフォーマンスを西本願寺掛所で決行。大勢の見物人の前に用意された120畳もの紙に大ダルマを描くと、やんやの喝采を浴び、北斎人気は急上昇。名古屋や関西からの門人も急増しました。

このようなパフォーマンスによって名前を広めることを思いついた北斎は、自己プロデュース能力にも長けていたようです。

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