歌舞伎と浮世絵は、どちらも江戸で華ひらき、町衆が発展させた庶民の豊かな文化です。浮世絵の「浮世」とは、現代・当世のこと。今、この世で味わえる楽しいこと美しいこと、つまり娯楽や享楽が描かれているのが浮世絵です。いっぽう歌舞伎の原点は、江戸初期に現れた出雲の阿国。戦乱の世が終わった開放感と喜びを、奇妙な格好と踊りで表したのが始まりです。今回は、互いに影響を及ぼし及ぼされ発展し続けてきた、歌舞伎と浮世絵の密な関係をひもといていきます。
「阿国歌舞伎図」重要文化財 紙本金地着色 桃山時代・17世紀 88×268㎝ 京都国立博物館
浮世絵は、16世紀後半に庶民生活を描いた風俗画としてスタートします。最初は墨だけの摺り物でしたが、革命が起きたのは明和2(1765)年。多色摺版画の技法が開発され、オールカラーの制作が可能になると、一気に大衆化されました。江戸では、東洲斎写楽や歌川豊国など“似顔”の浮世絵を得意とする絵師が登場。歌舞伎役者を描いた役者絵や美人画が、ブロマイドという形で飛ぶように売れ、大衆のすみずみにまで広がります。また、町では安い料金で芝居が見られるようになり、歌舞伎役者の身ぶりやセリフをそっくり真似することが流行りました。
左/「初代市川鰕蔵の竹村定之進」東洲斎写楽 寛政6(1794)年 大判錦絵 メトロポリタン美術館(N.Y.)右/「市川鰕蔵の暫」勝川春好 寛政3(1791)年 大判錦絵 ©PPA/アフロ
こうなると、歌舞伎にも浮世絵にも新たな役割が生まれます。それは、流行や情報の発信源になること。歌舞伎役者はいわばファッションリーダー。江戸っ子たちは芝居を観て、役者絵を眺めては、その衣装や着こなし、髪型を真似しました。対して浮世絵には、町の情報が満載。役者や花魁などスターの姿から、町の風物や色恋沙汰までが描きうつされ、大衆メディアとしての存在感をどんどん強めていったのです。
左/「市川八百蔵の源義経」歌川豊国 寛政7(1795)年 大判錦絵©Bridgeman images/PPS通信社 右/「沢村宗十郎の名護屋山三元春」東洲斎写楽 寛政6(1794)年 細判錦絵
さて、こうして人気を高めた歌舞伎と浮世絵は、その自由さと先進性ゆえに、しばしばお上からキツイ禁令を下されます。たとえば、1841~1843年の天保の改革下では、役者絵も風刺絵も禁止され、摺りの色数や価格にまで規制がかかりました。それでも人気絵師たちは、反骨精神とユーモアをもって幕府を煙にまき、したたかに軽やかに禁をくぐりぬけたのです。歌川国芳は、人気役者を猫などの動物であらわしたパロディ画を発表。
左/「流行猫の狂言づくし」歌川国芳 天保年間(1831〜1845)大判錦絵 都立中央図書館特別文庫室 右/「けんのけいこ」歌川国芳 弘化4(1847)年 大判錦絵 静岡県立中央図書館
これは、お上から「役者絵じゃないか」と咎められても「猫です」と逃げるための機知でした。歌舞伎にしても同様です。彼らにとって、芝居の中に幕府批評やお家騒動、街の事件簿など「好ましくないもの」を盛り込んで庶民を喜ばせるのはお手のもの。そのうえで、題名や骨格には『忠臣蔵』だとか『勧進帳』といった過去の有名な物語を借りることにより、「昔の話ですから」と幕府の睨みをかわしていたのです。
左/「毛刎九右衛門 市川海老蔵」歌川国芳 天保11(1840)年 大判錦絵 静岡県立中央図書館 右/「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」歌川国芳 弘化2(1845)年ごろ 大判錦絵 ©Artothek/アフロ
そう、歌舞伎も浮世絵も、庶民を喜ばせるのが大命題。浮世絵師たちは「大首絵」に「大顔絵」に三枚続のシリーズものに…と手を替え品を替え、魅力的な役者絵を世に送り出しました。歌舞伎小屋では、「ファンを喜ばせるためならば、舞台の上では殺人、幽霊、なんでもあり。屋台つぶしから変身まで、大技小技もくりだしてみせましょう」とばかりに、ケレン味あふれる世界を次々と生み出していったのです。
「白須賀十右衛門と猫石の怪」歌川国芳 天保6(1835)年 大判錦絵三枚続 静岡県立中央図書館
妖しく、可笑しく、美しく。スカッとさせたり泣かせたり。「歌と舞と技」から成るのが歌舞伎なら、浮世絵は「現世」を描いた絵。つまりどちらもライブ、生きている文化です。だからいつの時代もPOPで刺激的。私たちの永遠なるエンターテインメントなのです。
左/「英名二十八衆句 団七九郎兵衛」月岡芳年 慶応2(1866)年 大判錦絵 東京国立博物館 ©Image:TNM Image Archives 右/「見立三十六句撰 天笠徳兵衛」歌川国貞 安政4(1857)年 大判錦絵 国立国会図書館