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Keyword16「文化人ネットワーク」
京都・大坂の愉快な仲間たち
京都・大坂の文化人たちとも交友関係を広げた若冲。画家の池大雅、儒学者の皆川淇園などとも交流があり、とりわけ大典とも親しい大坂の酒造家で、本草学を学び、書画、詩作などの蒐集家でもある木村蒹葭堂との縁は深いものになりました。蒹葭堂の家は文化サロンのように、多くの知識人や芸術家たちが出入りをしたといいます。海外の最新の顔料であったプルシアンブルーを若冲が入手できたのは、蒹葭堂が関係していた可能性もあるようです。
Keyword17「大坂」
大典と一緒にのんびり淀川下り
明和4(1767)年の春、若冲は大典と一緒に舟で大坂を訪れました。その体験をもとに若冲が絵を描き、大典が詩を書いた版画巻が『乗興舟』です。京都伏見から大坂天満橋まで所要時間は6時間ほど。ふたりは大坂で木村蒹葭堂と親交を深めたことでしょう。
Keyword18「千載具眼の徒を竢つ」
今は理解されなくてもいい、という潔さ
大坂の医師で漢詩人であった川井桂山は、若冲が描いた『動植綵絵』の半数にあたる15幅を見たときのことを漢詩文に記しています。そこには「千載具眼(せんざいぐがん)の徒を竢(ま)つ」、すなわち、自分の絵を理解してくれる人が現れるまで千年待つ、という若冲の言葉が書かれています。だれもが驚愕するような斬新な絵画でしたが、若冲は市井で受け入れられなかったわけではありません。理解されないどころか、権力者たちも一般の人々も若冲の絵を欲しがる人が大勢いて、大変な売れっ子でした。
Keyword19「応挙1番、若冲2番?」
京都画壇での圧倒的な人気と実力
『平安人物志』は、明和5(1768)年から増補改訂されながら出版された、近世京都の文化人を収録した人名録。順番は格付けではないといわれますが、明和5年版には大西酔月、円山応挙、若冲、池大雅、与謝蕪村の順番で並び、安永4(1775)年版では応挙、若冲…と掲載され、その人気と名声を知ることができます。
Keyword20「町年寄」
錦市場の存続のために尽力した意外な一面
隠居して悠々自適に絵に没頭していたと思われていた若冲ですが、『京都錦小路青物市場記録』という古文書によって、新たな素顔が明らかになります。明和9(1772)年、近在の商売敵の画策により、錦市場が奉行所から営業を差し止められる事件が起きました。そのとき若冲は錦市場の町年寄を務めていて、市場存続のために奔走したのでしょう。商売敵からの懐柔策にも乗らず、市場は危機を乗り越えたのでした。
Profile いとうじゃくちゅう
正徳6(1716)年、京都・錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれる。4代目当主となるが、40歳のときに家督を次弟に譲り、画業に専念。『動植綵絵』をはじめ、圧倒的な画力で作品を次々と発表し、京都屈指の人気絵師となる。寛政12(1800)年、85歳で没。
※本記事は雑誌『和樂(2021年10・11月号)』の転載です。構成/高橋亜弥子、後藤淳美(本誌)