Culture
2020.06.09

まるでかぐや姫のような生き方をした平安の美女・和泉式部とは。モテモテだった人物像に迫る!

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「あらざらむ この世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」 わたしはもうすぐ死ぬけれども、この世の最後の思い出として、あの方にもう一度会いたい……。誰しも何となく聞いたことのある、百人一首の中でも情熱的なこの首。作者は平安時代に生きた才女、和泉式部(いずみしきぶ)です。歌人として名高い女性ですが、より強いイメージが「恋多き女」。その人生はわかっている範囲でもドラマチック。というより、もはや破天荒でした!

和泉式部という呼び名の由来

和泉式部の生没年などは、この時代のほかの女性と同様にあまりよくわかっていませんが、父親は越前守だった大江雅致(おおえのまさむね)とされています。越前国は今の福井や石川のあたり。京都や奈良にも近いため、重要な土地とされていました。ちなみに『源氏物語』の作者、紫式部の父親も越前守を務めたことがあります。

『東錦絵百人一首/五十六番 和泉式部』著者:一陽斎豊国
国立国会図書館デジタルコレクションより

和泉式部は、和泉国守・橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚。和泉国は現在の大阪府南西部あたりを指します。つまり、和泉式部の名前は夫の職種から取られているのです。そして結婚後、小式部内侍(こしきぶのないし)という子を設けました。彼女もまた「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」という歌が百人一首に収められている歌人です。

モテすぎて勘当!?皇子さまに立て続けに求愛される

結婚し子どもにも恵まれ、当時の女性として順風満帆な人生はこの後すぐにひっくり返ります。なんと、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王(ためたかしんのう)に言い寄られ、どうやら関係を持ってしまった和泉式部。中流階級の和泉式部と親王では、当時かなり身分違いの恋でした。当然夫である道貞とは離婚。父親からも勘当されてしまいます。宮中でスキャンダルに晒された和泉式部にさらなる追討ちが。なんと、為尊親王が病死してしまったのです。

話はここで終わりません。その後すぐに、為尊親王の弟・敦道親王(あつみちしんのう)が和泉式部のもとを訪れます。そう、和泉式部は為尊親王の弟とも恋仲になってしまったのです!このあたりの恋の駆け引きは「和泉式部日記」に克明に描写されているというから驚きです。相変わらず身分違いの恋ですが、敦道親王は和泉式部を自宅に住まわせることにします。これには敦道親王の正妻が大激怒。いくら平安時代が一夫多妻制だったとは言え、プライドが傷ついたのかもしれません。

どうしてこうもはっきりわかるのかというと、この件が『栄華物語』『大鏡』などの書物に描写されているから。彼女がスキャンダルを連発する、噂の的だったことを思わせます。

その後、敦道親王もほどなくして死去。ひとりになった和泉式部は出仕、つまりは宮仕えをします。当時、教養のある貴族の女性は、高貴な姫君の教育係などに宮中でひっぱりだこの存在でした。和歌の名人として名高かった和泉式部を望む声も多かったことでしょう。出仕の際には藤原道長を頼ったのだとか。追い出したかたちになった敦道親王の正妻が藤原家の一族だったということを併せて考えると、その逞しさに頭が下がる思いです……。

かぐや姫のような無茶振りが祇園祭「保昌山」に!

祇園際の山鉾(やまほこ)といえば、祭りの名物!そのひとつに、和泉式部がかぐや姫のごとく行った無茶ぶりがモチーフになった「保昌山(ほうしょうやま)」があります。ものものしい鎧に包まれた武者が抱えるのは、鮮やかな紅梅。このアンバランスさが目を引く山鉾です。元々の名前は「花盗人(はなぬすびと)」。モチーフになった逸話は和泉式部による駆け引き、もとい、無茶振りの話でした。

平安中期の豪傑・藤原保昌(やすまさ)は、宮仕え中の和泉式部に一目惚れし求婚しますが、相手にされません。ある日保昌は「紫宸殿の梅」を折ってきてくれたら結婚すると、和泉式部より伝えられます。紫宸殿(ししんでん)とは帝のおわすところ。和泉式部は、お仕えする天子様の庭の花を盗人せよとお願いしてきたのです。梅が植わる庭は見通しが良く、荒々しい北面の武士が警備にあたっています。藤原道長の懐刀として、大江山の鬼退治にまで参戦した誉れ高き武士である保昌。忸怩たる思いもあったでしょうが、警護の者に弓を射かけられながらもなんとか梅を手折り、晴れて和泉式部と結婚したと伝わっています。

このストーリーから、5人の求婚者のひとりに「蓬莱の玉の枝」という、真珠の実がなる金と銀の枝をリクエストしたかぐや姫を思い出しますね。また、皇子や姫ではない2人の恋愛が、歴史ある祇園祭で鉾のモチーフに使われているというのもすごい話!

職人たちに作らせた「蓬莱の玉の枝」を持参する車持皇子(くらもちのみこ)
『竹取物語』国立国会図書館デジタルコレクションより

子を想う母親でもあった和泉式部

生涯奔放に恋をして楽しんだイメージがある和泉式部ですが、娘・小式部内侍が自らの子どもを産んだ折に先立たれてしまいます。彼女の嘆きは相当なもので、その時残された子ども(自分にとっては孫)を見て詠んだ「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり」という歌は『後拾遺和歌集』に収められています。娘は亡くなったあと、誰のことを思い出しているのだろう、それは私じゃなくて子どものことだろうなあ。だって、私も今、あなたという子どものことを強く思っている……という意味です。

『古今名婦伝 小式部内侍』著者:豊国,柳亭種彦
国立国会図書館デジタルコレクションより

これは我が子を愛する母親だからこそ詠めた、哀しく切ない歌。和泉式部は娘の死をきっかけに出家し、京都「誠心院(せいしんいん)」の初代住職になったといわれています。誠心院では今も、和泉式部忌などを行っており、墓所を訪れることもできますよ。

あの紫式部が日記に書くほど!魅力たっぷりの和泉式部

『源氏物語』の作者、紫式部は『紫式部日記』にて、和泉式部のことを「恋愛に関してはけしからぬ人(感心できない人)」と表現しています。このほかにも『栄華物語』や『大鏡』など様々な作品に素行がや人柄が残っていることからも、和泉式部が当時のゴシップ・クイーンだったのは間違いないでしょう。

裏を返せば、書かずにいられなかったほど絢爛たる宮中で目立っていたということですし、非常に魅力的でもあったということ。恋に奔放で情熱的、ときにはしたたかすら感じさせる和泉式部。十二単の下に隠れた、日本女性の強さを感じさせてくれます。

アイキャッチ画像:『竹取物語』国立国会図書館デジタルコレクションより