織田信長も失敗した難攻不落の城を1日で?若き竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取った驚きの理由

織田信長も失敗した難攻不落の城を1日で?若き竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取った驚きの理由

「陣中で死ぬことこそ武士の本望」
こんな言葉を残したのは、天才軍師と名高い「竹中重治(しげはる)」。「竹中半兵衛(はんべえ)」の方が馴染みのある名前かもしれない。

実際に、竹中重治の生涯はこの言葉通りのモノであった。病に臥しながらも、戦場に戻り、陣中での死を選んだ。最期まで仕事一徹。そんなストイックなイメージがある一方、情にも厚く、じつに謙虚な姿勢は生涯、崩れることはなかった。

ただ、たった一度。
彼は「半兵衛」らしからぬ驚きの行動に出たことがある。

それが「稲葉山城(岐阜城)の乗っ取り」である。
織田信長も苦戦した難攻不落の城を、たった1日で落とす離れ業。

今回は、そんな若き日の竹中重治の逸話をご紹介。この稲葉山城の乗っ取りで、彼の名は広く知れ渡ることに。どうして、重治はこのような行動に出たのか。その驚くべき理由を、城の乗っ取りの全貌と共に、早速ご紹介しよう。
※この記事は竹中重治の名で統一して書いています。

若き日の竹中重治の苦悩

戦場での神がかり的な采配を振るう竹中重治(しげはる)。通称「半兵衛(はんべえ)」。そんな彼が、若き日は同輩の武将からバカにされ、からかわれていたとは、全くもって信じ難い。

重治の主家は斎藤家。
当時の美濃(岐阜県)は大混乱。というのも、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三(さいとうどうさん)が嫡子の義龍に討たれたからである。その義龍はというと、35歳で急死。家督を継いだのは、当時、数えで14歳の龍興(たつおき)であった。

この龍興、政治にはあまり関心がない様子。これまで有力家臣として斎藤家を支えてきた「西美濃三人衆」である安藤守就(もりなり)、稲葉良通(いなばよしみち)、氏家尚元(うじいえなおもと)らを重用せず。

ちなみに、重治からすれば、この安藤守就は岳父。義理の父にあたる。重治も知恵者といわれるほど際立った頭脳があったが、主君の龍興からは認められず。斎藤飛騨守(ひだのかみ)ら一部の家臣だけを周りに置き、龍興の生活は遊興に明け暮れたものだったという。

歌川国芳-「太平記英勇伝-菜藤右兵衛大夫勝興-斎藤竜興」

当時、竹中重治の外見も、からかわれる要因となっていた。女性のような容姿でおっとりと優しい性格だったこともあり、戦国の世を生き抜くゴリゴリした武将とは正反対の存在だったのである。それでも、重治は主家のためにと我慢を続けていた。

しかし、いくら寛容だからといっても、誰にだって限界はある。そして、そんな重治の我慢の限界を超えさせたのが、意外にも龍興の取り巻き家臣からの幼稚な嫌がらせであった。なんと、重治が稲葉山城へ登城する道中で、龍興の取り巻きの家臣が櫓(やぐら)から小便をひっかけたのである。

余りの屈辱に怒りで震えながらも、重治はその場でぐっとこらえたという。どうせ喧嘩を吹っかけたところで、勝ち目はない。彼らのバックには主君の龍興がいるのだ。結果は目に見えている。そのため、激情にかられることなく、冷静に判断。何事もなかったかのように落ち着いて振る舞い、その後、体を拭いて菩提山城(ぼだいさんじょう)に帰ったという。

ただ、この一件で、これまでこらえてきたものが一気に崩れ落ちたようだ。重治の針は振り切れてしまったのだろう。

「もはや、待てぬ」
重治のことだから、この時点までに、ある程度の計画は立てていたはずである。あとは、計画への賛同と実行のみ。しかし、相談した岳父の安藤守就は、首を縦には振らなかった。援護してもらえるとの思惑が外れ、反対に軽はずみだと止められるはめに。

しかし。
重治の腹は決まっていた。「今じゃなけりゃ、いつやんの?」状態である。物事にはタイミングというものがある。そして、重治の中では、今がその実行の時だったのである。

物語のような鮮やかな乗っ取りの手口

時は、永禄7(1564)年2月(永禄5〈1562〉年3月の説もあり)。
目指すは主君、斎藤龍興がいる稲葉山城。
しかし、いきなり竹中重治が真正面から押しかけても、当然、門番は中に入れてはくれない。そこで、入城する際に一役買ったのが、弟の重矩(しげのり)である。じつは、弟は人質として稲葉山城へと差し出されていた身。当時は、謀反抑止のため、有力家臣の家族を人質として出すのが一般的であった。

重治は、弟の重矩と示し合わせ、彼に病気のふりをさせたのだ。つまり、仮病作戦である。こうして、ちょうど夕刻を見計らい、重治と家臣16名(17名の説もあり)の一向は稲葉山城へと向かう。名目は、ダウンしている弟の見舞いである。ちなみに、見舞いの持ち物として持参したのが、長持ち(布団などが入るくらいの大きな長方形の蓋つきの箱)。

この長持ち、明らかに不審である。だって、大きいんだもの。もちろん、門番も長持ちの中身を聞いた。これに対し、重治は、人々に振舞う酒や食べ物だと、いけしゃあしゃあと答えている。ただ、実際の中身は武具一色。門番が中身までチェックすれば、ここまでスムーズに事は運ばなかっただろうが。重治は運をも持ち合わせていた。

門番にそれ以上中身も確認されず、重治は無事に稲葉山城に入城。まあ、人の気持ちとは、こんなもの。これから自分たちにも振るわれるかもしれない酒食となれば、チェックも無意識に甘くなったのだろう。

現在の岐阜城

入城完了。これで大半のリスクは、クリアされたも同然。
あとは、空いている部屋にこそっと侵入。重治と家臣らは、長持ちに入れて持ち運んだ武具を素早く身につける。

さあ、ショーが始まる頃。いざ、乗っ取り開始。

まず、重治が真っ先に斬ったのが、あの斎藤飛騨守。龍興の佞臣の1人である。彼は、当日の宿直の大将でもあった。指令を出す者がいなければ、指揮系統も麻痺し、現場は混乱。下位の兵卒らも明らかに戦闘意欲をなくす。日頃の恨みと、戦の常道を狙ってのコト。

あとは、精鋭揃いの家臣らと駆け付けた兵を斬り、あっさりと稲葉山城の乗っ取りに成功。たったの1日というか、いや、半日というか。実情は、夜だけの数時間でカタをつけたのである。

さて、気になるのはもちろん、あのポンコツな主君。斎藤龍興である。奇襲攻撃を受けた龍興は、着の身着のまま。寝間着姿で城から脱出したといわれている。案外、落城する側って、間抜けな去り際なのだと感じざるを得ない。まあ、命があっただけ、マシといえるのだろうか。

織田信長の提案を拒否した律義者?

人の噂も七十五日。ただ、噂が周囲に回るのは一瞬。当時も、SNSの拡散ほどとまではいかないが、信じ難い出来事として美濃とその周辺の地域に一気に話は広がった。

「あの稲葉山城を?」
そう驚いたのは、あの織田信長。

当時は天下統一に向けて着々と勢力を拡大していたときである。永禄3(1560)年に桶狭間で今川義元を破り、その7年後の永禄10(1567)年に美濃の平定に成功。つまり、重治の稲葉山城乗っ取りは、ちょうど信長の美濃平定の途中の出来事となる。

そんな話を聞いた信長が、放っておくワケがない。
早速、重治の元へと使者が到着。
「稲葉山城を明け渡せ。さすれば、美濃半国を与えよう」

織田信長像

竹中重治からすれば、全くもってオイシイ話である。それも、申し出た織田信長は、今をときめく成長株。あの今川義元を討った男と、戦国時代では話題沸騰。そんな武将に恩を売ることもでき、美濃半国ももらえるとなれば、検討の余地はあるだろう。

しかし、重治は即拒否。このような言葉を残したといわれている。

「わが国の城であるから他国の人に与えて所領を賜るのは本意ではない」
(左文字右京著『日本の大名・旗本のしびれる逸話』から一部抜粋)

どうやら、重治は、主君が反省すれば城は返すつもりだというのだ。そう、実際、稲葉山城の乗っ取りは、主君である斎藤龍興の目を覚まさせるためが目的だったのである。家臣が離れつつある状態が続けば、結果的に信長のような武将により美濃国は狙われる。これを防ぎたかったのだとか。

「主君を戒めるためだった」との見方が大半。しかし、違う説も有力。というのも、稲葉山城の乗っ取後の半年間は、どうやら重治と岳父の安藤守就らは、周囲からの支持集めに奔走していたことが判明しているのだ。周囲に文書をばら撒き、美濃の諸将らの支持を取り付けるつもりだったとか。

そうなると、重治の行動も、いや、人物像まで。少し話が違ってくる。
単なる「主君思いの重治」から「下剋上も視野の重治」に。

ただ、もし、下剋上を目指していたとしても。現実的にみれば、かなり無理な状況ではある。なんせ、同時代には、あの織田信長がいる。そんな信長からは、かなり執拗な干渉も受けていたのだとか。また美濃の諸将からも色よい返事はもらえず。実際に下剋上を成功させ美濃の戦国大名となるには、あまりにも部が悪すぎたのだ。

主家のためか、自身のためか。
どちらにしろ、重治には、乗っ取り後の将来がはっきりと見えていたのだろう。
1年後に、斎藤龍興に稲葉山城を返還している。

なお、この後の竹中重治はというと。
城乗っ取りの責任により、家督は弟へ。重治は主家である斎藤家を離れて、近江(滋賀県)へ引っ込むことに。これで終われば、竹中重治の名は、後世、ここまで広く知られることはなかっただろう。

こんな知略に長けた人物を周囲が放っておくワケがない。
もちろん、目を付けたのは、上昇気流に乗っている織田信長。

こうして、説得役の秀吉が「三顧の礼」を尽くして迎え、その後は、秀吉の天下統一を果たすために、なくてはならない存在へとのし上がる。

ただ、竹中重治が「名軍師」といわれるのは、まだ先のこと。
ほんの少し先のことである。

参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『1人で100人分の成果を出す軍師の戦略』 皆木和義著 クロスメディア・パブリッシング  2014年4月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月
『戦国武将と名城 知略と縄と呪いの秘話』 向井健祐編 株式会社晋遊舎 2012年7月

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