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2020.08.22

敵からの攻撃ナシ、抜け道アリ!幕府も騙された藤堂高虎「宇和島城」驚きのからくりとは?

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「攻撃は最大の防御なり」
有名な言葉だが、誰の言葉か明らかではない。一説には、中国最古の兵書『孫子』の兵法とも、英語のことわざとも。

なお、ここでの『孫子』の兵法は、少しニュアンスが違う。
「勝つべからざるは守なり、勝つべきは攻なり」

攻撃されないように万全の守備体制を整え、敵に隙がある場合に攻撃段階に入る。つまり、攻撃が常に勝るというワケではないのだ。

さて、戦国時代において、この防御と攻撃、どちらにおいても重要な役割を担ったのが「城」。籠城戦に持ち込み、守りに徹して耐えるのも一つ。寄せ手を十分に引きつけておき、城からの総攻撃も一つ。「城」を拠点に、防御も攻撃も自由自在。

そういう意味では、「城」自体が、戦の結果を大きく左右するともいえる。難攻不落といわれた大坂城などが、そのいい例だろう。徳川方が20万の大軍で押し寄せても、結局、堀を埋めなければ、落とすことができなかった。

ただ、堅固な城だけで足りるかといえば、そうでもない。様々な工夫を凝らして、敵の知らざる驚くべき仕掛けを作る。そんな築城の名手として有名だったのが、今回の主役、戦国武将の藤堂高虎(とうどうたかとら)である。

彼が築城した城の中でも、愛媛県にある「宇和島城(うわじまじょう)」は、特別だ。信じられない仕掛けが作られている。

その名も「空角の経和(あきかくのなわ)」

その驚くべきからくりを知れば、藤堂高虎が「天才」といわれるのも頷けるはず。
それでは、早速、宇和島城を紹介していこう。

えええっー!お城のカタチが違うじゃん!

と、その前に。
ここで、いきなり、質問です。
もし、あなたが城主となれば、どのような城を築城したいだろうか。

戦国時代には、急な城攻めも待ったなし。誰しも、いざとなれば籠城できる、防御力の高い堅固な城を望むはず。これは、間違いなく城主たちのリクエストの上位に入るだろう。

ただ、防戦一方では、問題を先送りにするだけで、依然解決しない。というのも、籠城しても、それが「永遠」に続くワケではないからだ。補給できなければ、いずれ食料や弾薬などの軍装備は尽き、その先には、最も残酷な結末が待っている。

戦国時代における兵糧攻めとして、有名な三木城(兵庫県)や鳥取城(鳥取県)。城を完全に包囲され、外部からの補給が一切遮断された城攻めの結末は、餓死者続出の、あまりにも凄惨極まりないものだった。

そういう意味では、防御力に長けた堅固な城ながら、敵方に知られず外部との接触も可能。そんなパーフェクトな抜け道なるものが存在する城がベスト。これなら、どうだろうか。

同じように、築城の名手、藤堂高虎(とうどうたかとら)も、そんな考えを持ったのかもしれない。

まずは、こちらの地図を見て頂こう。これは、愛媛県にある宇和島城の絵図面である。

『日本古城絵図 南海道之部(2). 292 予州宇和嶋城図』出典:国立国会図書館デジタルコレクション

この図面を見る限り、城に五つの角があるのは、一目瞭然。宇和島城の設計は「五角形」である。特段、何も不思議と思えることはない。

しかし、である。
寛永3(1626)年。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)が「大御所」として治世を行っていた頃。江戸幕府の「大目付(おおめつけ)」に提出された報告書には、異なる情報が記されている。

この大目付とは、大名や幕政全般を監察する江戸幕府の職名のコト。どうやら、幕府は隠密(伊賀や甲賀の忍者)に命じて、諸大名らの現状を偵察、その情報を大目付に報告させていたようだ。同年8月から10月は、四国内の各藩を探索。

具体的に、藩内のどのような情報を探っていたかというと。大名の居城はもちろん、城下町の様子、さらには住民の話など。隠密らは、各藩内に関する情報を集めて報告書を作成。その記録が『讃岐伊予土佐阿波(さぬきいよとさあわ)探索書』といわれるものである。

そこには、なんとも不可解な情報が記されていた。その内容がコチラ。

「山上本丸へは不被参(まいられず)。下より見申候に、北南六十間計(ばかり)に見及候。-(中略)-四方の間、合(あわせて)十四町三反七間」
(井上宗和著『日本の城の謎』より一部抜粋)

初っ端から、残念な報告書である。
隠密といえども、宇和島城の城山には潜入できず。そのため、正確な城の縄張り(設計のこと)が掴めなかったようだ。結局、下から城を見上げたり、付近を歩いたりと、地道な情報収集を展開。そこから推測したものを報告書として仕上げた。

なかでも、特にご注目頂きたい部分が「四方」という記述。
隠密は、城周辺を徒歩で計測。東西南北に向かってその歩数なども詳細に記録していた。そうして、刑事のように足で情報を集め、宇和島城の設計図を再現したところ。

なんと、「四角形」になったというのである。

つまり、実際の宇和島城は「五角形」。しかし、幕府の隠密が推測した宇和島城は「四角形」。簡単にいえば、隠密が錯覚したのである。一体、どうしてこんなコトが起こってしまったのか。

ちなみに、隠密が無能なのではない。築城した藤堂高虎が一枚上手なのである。なぜなら、わざと誤解されるような設計にあえてしたからだ。

このからくりこそが「空角の経和(あきかくのなわ)」。
トンデモナイ築城術なのである。

隠された「一辺」こそが、最大のカギ

さて、ここで藤堂高虎を簡単に紹介しておこう。

高虎は、何度も主君を変えたといわれる戦国武将としても有名だ。しかし、自らというワケではない。もともとは、父と共に浅井長政に仕え、元亀元(1570)年の「姉川(あねがわ)の合戦」に初陣。織田・徳川連合軍と戦っている。

のちに、織田勢に下り、織田信長の甥、明智光秀の娘婿である津田信澄(のぶずみ)や、羽柴秀長(はしばひでなが)などを経て、豊臣秀吉に臣従。文禄4(1595)年、伊予板島(愛媛県宇和島市)7万石を与えられることに。

もともと宇和島は、日本屈指のリアス式海岸地帯にある。西以外の北、南、東の三方を山で囲まれ、西は海に開けた小平野、その中央に城山があった。ここは、平安時代末期に「天慶の乱(てんぎょうのらん)」を起こした藤原純友(すみとも)の支城があった場所でもある。当時は陸続きではなく小島であったため「板島」と呼ばれていた。

この城山を利用しようと、地方豪族が板島に居城を移し、その後も戦国武将が城主となる。その後、いよいよ藤堂高虎がこの地を治めることに。高虎は付近の城跡を調べるも、熟慮した結果、やはり「板島」を城地に決定。

慶長元(1596)年に、中世に築かれた城の大改修を開始。新しい城郭へと造り直したのである。朝鮮出兵で不在の時期もあったが、縄張り(設計)の指図を作り、工事を進めさせたという。

その後。
工事が終了したのは慶長6(1601)年。6年の歳月をかけて、ようやく宇和島城は完成に至ったのである。

「宇和島城天守閣」 現在の天守は伊達宗利(むねとし)が再建したもの。全国でも珍しい現存天守の一つである

この宇和島城の素晴らしいところは、なんといってもその縄張りにある。もちろん、もともとの自然の地形を利用してというのが前提だが。敵方の予想を裏切って、城の設計を五角形にしたところが、新たな発想の転換といえるだろう。

一般的に、敵方は城が四角形だと予想して、城攻めの計画を立てる。しかし、実際の宇和島城は五角形。つまり、1辺が空くわけである。これが「空角(あきかく)」という言葉の意味である。ちなみに、「経和(なわ)」とは縄張りを指す。

いうなれば、「空角の経和」とは、敵方の裏をかく城の設計だ。敵方の城攻めから外れた城の1辺が、有難くも存在する「からくり」なのである。

これは、思いのほか利点が大きい。
というのも、敵方からは攻撃されず、逆に城内からは抜け道のような使い方ができるからだ。外部との接触も遮断されないため、兵糧攻めの心配もない。なんなら、城から打って出て、敵方の背後を突き、挟撃することも可能だ。

万が一、落城するようなことがあれば、脱出経路にもなる。こう考えれば、ドラえもんの「どこでもドア」に通ずるような便利さを、「空角の経和」で手に入れられることになる。恐るべし、藤堂高虎。

それだけではない。
この宇和島城には、他にも工夫が施されている。例えば、本丸の天守からは、原生林の中を抜ける間道(抜け道のこと)が幾つかあったという。これらは、北西海岸に設けられた「隠し水軍」の基地にも通じていたのだとか。

海からも陸からも発見できない「隠し水軍」。これも宇和島城の魅力である。ちなみに、間道、隠し水軍も、幕府の隠密には発見されていない。

なお、ここまで完璧に、藤堂高虎の狙い通りに築城された宇和島城だったが。高虎自身は、慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」でその功労が認められ、慶長6(1601)年には、伊予(愛媛県)20万石を与えられることに。

宇和島城の完成からわずか。
藤堂高虎は、慶長7(1602)年には今治城(いまばりじょう、愛媛県今治市)の築城を開始。

今治城

やはり、こちらも。
城の傑作といわれるほどの「名城」であった。

最後に。
幕府の隠密が潜入を試みた当時の宇和島藩主は、仙台の伊達政宗(だてまさむね)の長男・秀宗(ひでむね)。

高虎が築城してから14年しか経過しておらず。石垣や天守、矢倉は修築されたが、城の縄張りはそのまま。なんなら、先ほどご紹介した報告書には、天守閣の階層さえも「三段」のところが、「四段」と記されているほど。

隠密よ。一体、どこまで騙されればいいのやら、といった具合である。それにしても、伊達秀宗からすれば、そんな秘法を駆使した宇和島城に入城できたのは運が良かったというべきか。

ただ、伊達秀宗といえば、父・政宗がつけた忠臣、山家清兵衛(やんべせいべえ)の暗殺を命じたことでも有名。

そういう意味では「空角の経和」も役に立つことができず。

どんなに城が立派でも。
やはり、「主あっての城」なのかもしれない。

参考文献
『戦国の城と59人の姫たち』 濱口和久著 並木書房 2016年12月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
歴史道『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月
『日本の城の謎 攻防編』 井上宗和著 祥伝社 2019年10月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。