初めて日光東照宮に訪れたのは、ちょうど5年前。
移住のために車で北海道を目指した時だ。その道中で、多くの観光名所に立ち寄った。
その中でも、忘れられない名所といえば。
こちらの日光東照宮。
旅番組でもお馴染みのあの社殿の数々。行く前からガイドブックを隅々まで読み込み、既に行った気になるほどの力のいれよう。それほどまでに事前準備をしたところで。いざ、絢爛豪華でありながら荘厳な雰囲気を持つ日光東照宮を目の前にすると。ただただ圧倒されるだけだった。
さすが「日光を見ずして結構と言うなかれ」。
途中で道から外れたとしても。なんなら遠回りになることさえ厭わない。たとえ、目的地と反対方向になってでも、やはり、一度は行くべき神社といえるだろう。
そんな日光東照宮、もともとは江戸幕府を築いた徳川家康の霊廟である。もちろん、子孫にあたる徳川家の将軍自らが参拝することも。この儀式を「日光社参(にっこうしゃさん)」というのだとか。
この日光社参、2代将軍・秀忠(ひでただ)が詣でたのが始まりだ。順調に4代将軍・家綱(いえつな)まで行うが、それ以降、参拝が途絶えてしまう。
しかし、これを65年ぶりに復活させたのが8代将軍・吉宗(よしむね)。
つぎ込んだ費用は、目玉が10回も飛び出すかというほどのすんごい額。それにしても、吉宗は、どうして多額の費用を投じてまで、この「日光社参」を行ったのか。
今回は、復活となった日光社参の「目的」に焦点を当て、徳川吉宗の真意を探っていきたい。
ホントのホントは簡素な日光東照宮
日光東照宮というと、もう絢爛豪華。あの極彩色のカラフルなイメージが先行する。しかし、ホントのところ、それは「権現(ごんげん)」として神となった徳川家康の希望ではなかった。
名将言行録には、こんな内容が記されている。
「家康は死に臨んで板倉重昌を召し『わしの死後は、将軍(秀忠)からワシの廟所(墓所)のことに関して申しつけられたら、始祖のことであるからといって、きっと立派にするよう申しつけられるであろうが、それは無用である。わしの子孫に至るまで、代々が始祖の廟に勝らぬようにという考えのためであるから、そのつもりで簡単な造作にしておけよ』と申しつけられた」
岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋
家康は、じつにのちのことを考え、廟所を簡素にするよう命じていた。これを受け、2代将軍・秀忠は、伊勢国(三重県)津藩主の藤堂高虎(とうどうたかとら)に工事の総括を任せることに。こうして完成したのが、現在のきらびやかな姿とはほど遠いもの。世界遺産など無縁の簡素な造りの廟所であった。
そんな初期の日光東照宮に家康の遺骸が埋葬されたのは、約1年後。遺言通り、いったん駿府国(静岡県)の久能山(くのうざん)へ埋葬し、1年経過した元和3(1617)年3月に日光山へと改葬される。
そして、翌月の同年4月17日。
父の1周忌として、2代秀忠は、命日に日光東照宮へと参詣。残念ながら、大雨の中の参拝であったとか。当時は随行者も少なく、どちらかといえば、私的な参拝との位置づけであった。秀忠はのちにも参詣をしており、生涯を通じて4度の参拝の機会に恵まれた(3度とも諸説あり)。
この秀忠の参詣こそが「日光社参」の始まりといわれている。
本来ならば、簡素な造りに簡素な参拝。
それがそれが。
「大恩ある祖父の神廟が、どうして簡素なんだ!」
そんな熱い思いを持った子孫の登場で、日光東照宮は現在の姿へと生まれ変わる。祖父を尊敬してやまなかった3代将軍・家光(いえみつ)が、なんと、ことごとく建物を造り替えたのである。寛永11(1634)年から1年半余りの急ピッチで工事を進め、出来上がったのが、現在のあの荘厳な日光東照宮。
それだけではない。
2年に1度の割合で日光東照宮への参詣を行うのみならず、諸大名らも随行させたのである。つまり、頻度も、規模も超拡大。いつの間にか「日光社参」は公的行事へと格上げに。その結果、数えてみれば。3代家光は、生涯にわたって10度も「日光社参」を行うほどの執着ぶり(9度とも諸説あり)。
しかし、である。
このまま「日光社参」が代々受け継がれたのかといえば、そう単純な話でもない。なんと、3代家光の思惑が裏目に出る。というのも、参拝の規模を拡大したせいで、かなりの費用の支出が伴うことに。そのため、逆に「日光社参」の実現が、困難となってしまったのだ。
それでも、4代将軍・家綱は、なんとか2度「日光社参」を執り行っている。回数は激減したが、まだ行えるだけマシな方だろう。5代将軍・綱吉(つなよし)、6代将軍・家宣(いえのぶ)に至っては、計画だけ立ち上がるのだが、すぐ頓挫。なんせ幕府の財政に余裕がない状況だから、致し方ない。
こうして、4代家綱が行って以降、無念にも「日光社参」は途絶えてしまったのである。
合計36万人⁈「日光社参」を利用した幕府の威信回復?
享保12(1727)年7月。
ときは、8代将軍・吉宗の治世のころ。気付けば、既に将軍就任から11年が過ぎていた。そんな折に、突然、吉宗は重大な宣言をする。
「来年に『日光社参』を行う。準備いたせ」
さて、ここで少し説明を入れておこう。
8代吉宗が、紀州藩主を経て将軍として迎えられたのは、享保元(1716)年。将軍家の血筋が途絶え、いわゆる「御三家」から選ばれたという将軍である。将軍就任後、吉宗は、抜本的な大改革に乗り出していく。これが有名な「享保(きょうほう)の改革」である。
じつは、当時の江戸幕府は瀕死の状態。5代綱吉の元禄時代以降、華美さが好まれ、放漫な支出が繰り返されていたからだ。結果、幕府の財政状況は破産寸前。そこで、8代吉宗は、まず、政治体制を改変。これまでの側用人(そばようにん、将軍近侍の役職)重視の政治から、譜代大名(ふだいだいみょう、関ヶ原の戦い以前に臣従した大名)らの伝統的勢力を尊重。人心を一新して幕閣を編成したのである。
並行して質素倹約を徹底。加えて、様々な政策を打ち上げ、実行に移した。新田開発の奨励や法令の編纂、能力による人材登用など、ズラッと並ぶ施策の数々。なかには、庶民の不満や進言を吸い上げる「目安箱(めやすばこ)」といったユニークなものも。
確かに「享保の改革」といえば、そんな具体的な施策に目を奪われてしまいがち。しかし、8代吉宗が行った改革の神髄は別にある。
それが、コチラ。
「諸事権現様 (家康)定め通り」という宣言。
つまり、8代吉宗が目指したのは、江戸幕府を開いた初代家康の治世へと回帰するコト。家康時代の幕政への復古を大きく望んで、改革が行われたのである。
だからだろうか。
家康の治世を目指す。そのためにも、江戸幕府開祖である家康の神廟への参拝は必須だったのか。8代吉宗の「日光社参」への意欲は、3代家光とほぼ同じ。いや、それ以上だったかもしれない。
蓋をあければ。
質素倹約はどこへやら。8代吉宗の「日光社参」は、恐れ多くも仰々しい大層なモノに。当日の参加者は、譜代大名と旗本らで約13万3,000人。荷物を運ぶなどの仕事を行う「人足(にんそく)」が約22万8,000人。合計36万人。人が人なら、馬の数もスゴイ。なんと、32万6,000頭の馬が集められたというのである。
いやいや。もっと大変なのは、参加せざるを得ない武士たちだろう。家格に応じて、付き従う家臣や武具の数が定められていたからだ。もちろん、用意するのは自腹。これを受けて賃金や物価が暴騰し、幕府からは値段の据え置きを命じる法令も出される有様。これ以外にも、街道や宿場の整備方法など、ありとあらゆる法令が乱発。これらは総称して「社参法度(しゃさんはっと)」と呼ばれている。
おっと。忘れていた。武士以外にも涙をのんだ人たちが。ちょうど農繫期と重なって困り果てたのが、農民の方々。大名行列が滞りなく行われるようにと、大事な時期に街道の整備などに人手を割かれたのである。たった1回の通行のために、道をならして砂を敷く。街路樹は枝を切って見栄えよく。さらには、街道沿いの家屋などには修繕がなされたという。当日は、10間(約18メートル)ごとに、火事に備えて手桶が置かれたのだとか。
準備がこれほどなら、当日の「日光社参」はもっとスゴイことに。
なんせ約13万人の移動なのである。
「子(ね)の刻」、つまり午前0時に先頭の秋元喬房(あきもとたかふさ)が出立。そこから次々と、大名や旗本の部隊が続く。ようやく8代吉宗が、約2,000人の親衛隊と共に城を出たのが「卯(う)の刻」。午前6時である。この時点で既に6時間が経過。最後尾は松平輝貞(まつだいらてるさだ)。時刻は「巳(み)の刻」、つまり午前10時。出発するだけで10時間も要している。
無事に城を出た一行は、その道中を4日間かけて進んでいく。なお、日光東照宮までのルートはというと。2代秀忠が通ったのと同じものであった。
江戸日本橋を出て、本郷追分(ほんごうおいわけ、東京都)で、中山道(なかせんどう)と分かれる。岩淵(いわぶち、東京都)から川口(埼玉県川口市)、鳩ヶ谷(はとがや、同市)、大門(だいもん、埼玉県さいたま市)と進み、岩槻城(いわつきじょう、同市)で1泊。幸手(さって、埼玉県幸手市)で日光街道に合流する。ここまでが「日光御成道(にっこうおなりみち)」と呼ばれる「日光社参」用のルートである。全長約12里30町(約48キロ)の道となる。
その後、栗橋(くりはし、埼玉県久喜市)から利根川を渡って中田(茨城県古河市)へ。北上して古河城(こがじょう、同市)、宇都宮城(うつのみやじょう、栃木県宇都宮市)でそれぞれ1泊して、日光東照宮へ向かう。こうして4日目に、ようやく家康の神廟へと到着するのであった。
もちろん、到着後も気を抜けない。将軍が到着したらしたで、警護もやはり大変である。滞在はたったの2日間のみだが、領内の出入口は武士で固められ、午後6時半を過ぎると閉門。領内の巡回のみならず、万が一のために、日光へと繋がるあらゆる主要道路が封鎖。それだけではない。近くの宿場には大名や旗本が陣を置き、徳川御三家も約12キロ先に本陣を置くほどの厳戒態勢だったのである。
ただ、8代吉宗からすれば、周囲の苦労は別世界だったようで。
日光に到着したその翌日が、ちょうど家康の命日である4月17日。8代吉宗は、心ゆくまで霊廟に拝礼し、目的を達成して満足げに往路を引き返したのであった。
こうして65年ぶりの「日光社参」は、無事に幕を閉じたのである。
さて。
無事とはいったものの。8代吉宗がつぎ込んだ総額はというと。ざっと見積もっても、この1回の「日光社参」で約20万両以上。一両7万円に換算すれば、約140億円もの金額となる。質素とはほど遠い、絶叫する金額である。
まあ、確かに。
道中の利根川を渡るところだけで約2万両、14億円。そりゃ、140億円なんて軽々と突破するはず。というのも、通常なら渡し船で利根川を渡るのだが。まさか、将軍を渡し船に案内して、ハイ、というワケにもいかない。そのため、栗橋―中田間に、臨時に橋が設置されたのである。橋というのも「舟橋(ふなばし)」。高瀬舟をズラッと並べて綱で繋ぎ、その上に板を敷くアレである。なんと繋いだ舟の数は51隻。
その上、板を何枚も重ねるだけでは足りず。当日は、馬が滑らないように板の上に白砂まで撒かれていたという。なんなら、欄干まであったというから恐れ入る。もちろん、渡っている最中に揺れるなどもってのほか。両岸より太い綱(虎綱、とらつな)で固定された。工期に4ヶ月も費やしたのだが、「日光社参」の終了後に解体。なんとも、勿体ない話である。
ふと、思う。
一体、ここまでして「日光社参」を行う必要があったのかと。
誰だって疑問に思うはず。後世の私でさえ思うのだから、質素倹約を奨励していた当時は、どのように捉えられたのか。なんなら、8代吉宗自身が、矛盾と思わなかったのだろうか。
これには多くの理由が考えられる。
じつは、8代吉宗の将軍在位期間は約30年。そのうち、特に積極的な改革を推し進めたのが、享保7(1722)年から享保15(1730)年の間。ちょうど、65年ぶりに「日光社参」を復活させた享保13(1728)年は、その真っ只中の年となる。
未だ途中ではあるが、この時点で既に自身の改革は大成功。だからこそ、莫大な費用がかかる「日光社参」も復活させることができたのだと。そう内外にアピールしたかったと考えられる。
加えて、直系の血筋ではない8代吉宗だが、ことのほか、初代家康を尊敬する気持ちは強かったとも。祥月命日の前日に悪夢を見ては申し訳ないと、一睡もしなかったという逸話もあるほどだ。
そんな純粋な気持ちも、もちろんあってのことだが。8代吉宗の改革の目標は、初代家康の治世の回帰。加えて、家康の絶対的な権威を、直系ではない自分にそのまま引き継ぐ。そんな狙いもあったのではないだろうか。家康を崇めることが、ダイレクトに自分に返ってくる。そんなしたたかなところも全くないとは言い切れない。
しかし、それにしても。
莫大な費用をかけすぎだろと思わなくもないのだが。これらの理由で、そこまでの費用対効果は見込めないだろう。ホントのところは、どうなのか。
じつは、他にも理由がある。それがコチラ。
「日光社参」は、徳川勢力を総動員した軍事演習だったというコト。
江戸時代、諸藩は軍事行動が一切できず。軍事関係は、将軍が一手に掌握していたのである。そのため、軍事行動がなされる場合には、承認許可となる将軍の「黒印状(こくいんじょう)」が必要であった。
今回の「日光社参」。なんと、この黒印状にて参加命令が出ているのである。言い換えれば、これは軍事行動にあたるワケである。そして、参加したのは、外様大名(とざまだいみょう、関ヶ原の戦い以後に臣従した大名)以外。つまり、旗本、譜代大名の徳川勢力を集結させて行われたのである。
特に、戦国時代とは異なり、世は平和の時代。なんなら、馬に乗れない者や草鞋(わらじ)の結び方さえ知らないという現代っ子の武士たちも。平時はよいが、いざという時の避難訓練と同様。8代吉宗も軍事演習が必要だと判断したのだろう。
『徳川実紀』には、この「日光社参」に備えて、江戸城吹上(ふきあげ)にて行軍の予行演習がなされたとの記述がある。「日光社参」という名目で、戦とは無縁の生活に慣れ切った者たちに、実践とはいかないまでも、大規模な軍事演習を行ったのである。
こうみれば、「日光社参」は、リスクマネジメントの1つといえるのかもしれない。武士1人1人に危機意識を持たせつつ、徳川勢力の団結を図る。同時に、これは、外様大名らの謀反の牽制となる示威行動でもあった。
一石三鳥ほどの効果となれば、莫大な費用をかけても、お釣りがくる。頭脳明晰な8代吉宗なら、そんな計算をサクッとしたに違いない。
最後に。
この「日光社参」で、一番得をしたのは誰かというと。
まさかの「罪人」。
恩赦により、139人の罪人が放免されたといわれている。
武士も農民も。準備や当日の社参で、てんてこまい。にもかかわらず、罪人が得をしたとは。何とも皮肉な話である。
皮肉といえば。
神廟の中から、子孫の参拝を見ていた家康も。
簡素な造り、簡素な参拝はどこへやら。
……。
きっと、目に涙をためて、言葉を失ったに違いない。
参考文献
『神社で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2015年6月
『大名家の秘密: 秘史『盛衰記』を読む』 氏家幹人著 草思社 2018年9月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月