ひとたびメスを握れば神のごとく、「もうだめだ」とみんながあきらめる病人、ケガ人を手術し、奇跡を起こすアウトローの天才外科医B・Jことブラック・ジャック。故手塚治虫の代表作だ。手術の後に法外な値段を要求するが、それはまさしく生命の値段。「正義か そんなもんはこの世の中にありはしない」とつぶやいて去っていく。そんなB・Jに憧れて医師をめざした人も少なくないのではなかろうか。
ところで、時は幕末。刺客に襲われ瀕死の重傷を負った仲間の命を畳針で救った青年医師がいる。彼の名前は所郁太郎(ところ いくたろう)。いったい、どんな人物だったのだろうか。
美濃出身の勤王志士 長州藩士となって遊撃軍参謀兼医院総長に大抜擢
それでは彼の生涯を、ざっくりと追ってみよう。
郁太郎は天保9(1838)年、美濃国不破郡赤坂村(現在の岐阜県大垣市赤坂町)の造り酒屋・矢橋亦一(やばし またいち)の四男に生まれた。生家は当時赤坂の名主を務めていた矢橋家(現在も存続。祖先は桓武天皇第二皇子の嵯峨天皇まで遡るとされる)の分家とされる。
幼名を郁四郎といい、4歳で実母のさいと死別。その後、後妻に入ったりまに育てられる。幼い頃から頭がよくて、反面いたずら好きの腕白小僧でもあった。見かねたりまに「おまえの祖先は武士であるからいたずらはやめて、剣術でも習いなさい」とさとされ、以後心を入れ替えまじめに勉学に励むようになったという。
後に美濃国大野郡清水村(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町清水)の若原家(生家矢橋家の親戚)に預けられた。この時、揖斐郡大野町西方(にしかた)の医師・所伊織(ところ いおり)に見込まれ、11歳で所家の養子となり、郁太郎と名乗るようになる。男の子に恵まれなかった伊織は、ゆくゆくは娘のたつと郁太郎を結婚させるつもりだった。
所家の養子となった郁太郎は加納藩(現在の岐阜市加納が本拠地)の藩医・青木松軒(あおき しょうけん)のもとで医学を学び、京都、福井に遊学。その後大阪に出て緒方洪庵の「適塾」に入門し、約2年にわたり西洋医学や蘭学を学ぶ。彼は適塾生の中でもかなり優秀だったようだ。
この間、郁太郎は医学の勉強ばかりしていたわけではない。時はまさに幕末の動乱期。海外の圧力に屈して次々に不平等な条約を結ぶ幕府に対しての不平、不満が高まり、渦を巻いていた。もともと勤王の志あつかった郁太郎もこのまま美濃で一介の医師としての生涯を終えるのではなく、日本のために働きたいという思いを強くしていた。
※「適塾」こぼれ話
「適塾」を開いた緒方洪庵は優れた蘭方医であると同時に優れた教育者でもあった。全国から塾生が集まり、慶応大学創立者の福澤諭吉をはじめ日本の近代化に貢献した優秀な人材を数多く輩出しているが、その中にB・Jの生みの親、手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙(てづか りょうせん)もいた。良仙は手塚治虫の歴史漫画「陽だまりの樹」の主人公のひとりだ。郁太郎は手塚良仙の後輩にあたる。
なかなか故郷に戻ろうとしない郁太郎に故郷からは再三帰郷を促す手紙が届き、事情を察した洪庵にも諭されて、後ろ髪をひかれる思いで郁太郎は大阪を後にする。
文久2(1862)年、伊織の娘たつと結婚。まもなくたつは妊娠する。ようやく、これで婿殿の腰も落ち着くという養父母の喜びもつかの間、郁太郎は身重の妻と養父母を残し、再び京都に赴く。京都の同志から国家の一大事を示唆する密書が届いたのだった。以後、郁太郎が生きて故郷に戻ることはなかったのである。
京都に戻った郁太郎は長州藩邸の近くで開業。藩士と親交を深め、同年、桂小五郎(後の木戸孝允)の推挙により長州藩医院総督となる(お雇い格)。そして「八月十八日の政変」で京都を追われた攘夷急進派の公家・三条実美(さんじょう さねとみ)ら七卿に付いて長州(現在の山口県西部)へ下り、正式に長州藩士として遊撃軍参謀兼医院総長となる。他藩出身の新規採用者としては異例の大抜擢だった。
長州ファイブ(長州五傑)のひとりとしてイギリスに密航留学
郁太郎が命を救った井上聞多は天保6(1835)年、長州藩士・井上光亨(いのうえ みつのり)の次男として現在の山口市湯田温泉に生まれた。聞多は郁太郎より3歳年上であった。
井上家は毛利氏に仕えた名門。17歳で兄とともに藩校明倫館に入学。安政2(1855)年、志道慎平(しじ しんぺい)の養子となり(のち、井上姓に戻る)、参勤交代について江戸へ。蘭学や江川太郎左衛門(日本に西洋の砲術を普及させ、世界遺産となった伊豆韮山反射炉を企画した)の塾で西洋砲術を学ぶ。聞多は海軍技術や航海術など西洋技術に高い関心を寄せていた。
しかし、次第に尊王攘夷運動にのめり込み、品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館を焼き打ちにするなどの過激な行動に出る。
文久3(1863)年には山尾庸三(やまお ようぞう)・野村弥吉(のち井上勝)・伊藤俊輔(のち伊藤博文)・遠藤謹助とともにイギリスに留学する。この時代、自由な海外渡航は禁止されていたため、藩公認の密航であった。5人は長州ファイブ(長州五傑)と呼ばれ、ロンドン大学にも顕彰碑が建てられている。
イギリス留学は聞多に大きな影響を与えた。日本との国力の違いに気づき、攘夷ではなく開国しなければ日本に未来はないと考えるようになったのだ。
攘夷運動がヒートアップしすぎて、朝敵になってしまった長州藩
ところが同年3月、尊王攘夷派の急先鋒だった長州藩は下関で外国船を砲撃。また仲の良い攘夷派の公家たちと結託し、攘夷祈願のため大和(奈良)に行幸する孝明天皇に、攘夷親政(天皇が自ら攘夷のために戦うこと)を行うための軍議を開催させ、さらに過激な攘夷運動を展開しようともくろんだため、薩摩や会津など公武合体派(朝廷(公)と幕府(武)を結び付けることで弱体化した幕藩体制の再強化を図る)が、長州藩とそれに味方する公家たちを京都から追放する(八月十八日の政変)。
孝明天皇は熱心な攘夷論者だったが、自ら攘夷派の先頭に立って外国勢力を排除しようという考えはなかった。
翌元治元(1864)年7月、長州藩の急進派が京都へ出兵。蛤御門で会津・桑名の藩兵と激突し、長州藩は敗北(禁門の変)。この戦いで京都は火の海になり、多くの人々が多大な被害をこうむった。
禁門とは禁裏(きんり)の門、すなわち皇居。天皇の身辺をおびやかし、御所に向かって発砲した長州藩は朝敵とみなされ、幕府は長州征伐を宣言。30余藩に出兵を命じた(第1次長州征討)。
さらには前年の報復として四国連合艦隊(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)が下関を砲撃。わずか1時間ばかりで各砲台は連合艦隊に占拠されてしまう。
長州藩の危機を察知した聞多は急きょイギリスから帰国。藩に海外の情勢を説いて開国の必要性を訴え、講和に努めようとしたが聞き入れられなかった。
まさに長州藩は存亡の危機に陥っていたのである。
郁太郎も長州藩士として禁門の変に参戦。敵の追撃を逃れるために町家の長持に隠れ、頭を剃り込み、変装して難を逃れたという。
聞多、暴漢に襲われ瀕死の重傷
急進派の中心人物たちが禁門の変であいついで命を落としたため、長州藩内では幕府に謝罪することで許してもらおうとする俗論党(保守党)が大勢を占めるようになっていた。
しかし、正義派(改革派)の代表格であった聞多は「ただ許しを請うのではなく、武力を備え、幕府が攻めてきたら応戦するべきだ」という“武備恭順”を主張。9月25日の御前会議で激論を展開し、藩主・毛利敬親は“武備恭順”と決定した。
その夜、自宅に戻る途中の聞多は、袖解橋(そでときばし)(現在の山口県山口市)の辺りで俗論党の闇討ちにあう。全身をなますのように切り刻まれながらも近くの農家に這うようにしてたどりつき、もっこに乗せられて自宅に戻った。
襲われた際、祇園一の美貌を誇った勤王芸者の中西君尾からもらった鏡を懐に忍ばせていたため、致命傷を負わずにすんだとされる。
畳針で約50針 4時間ほどかかってオペに成功
二人の藩医が呼ばれたが、血だらけの聞多を前になす術がなかった。
そこへ駆けつけたのが郁太郎だ。郁太郎は正義派のひとりとして、御前会議の結果を聞きに来たのである。まさか聞多がこんなことになっているとは思いも寄らなかった。
「早く介錯して下され。少しでも早く」と苦しさのあまりうめく弟を見るに忍びず、兄の五郎三郎はいっそ一思いに殺して楽にしてやりたいと刀の束に手をかけた。すると兄弟の母・お勝が必死で兄を制した。「私の一心できっと助けて見せる」と言い放つ。
子を思う母の心は郁太郎の胸を熱くさせた。彼は外科医である。何がなんでも聞多を助けてやらなければ…そう心に誓ったが、あいにく手もとに手術道具がない。もちろん麻酔もない。B・Jは常に緊急手術用の透明な無菌室(ビニールケース)を携帯しているが、そんなものがあるはずがない。ないないづくしの中、数日前から井上家に出入りしている畳職人の使っている畳針を焼酎で消毒してオペが始まった。
ピノコの代わりに二人の藩医を助手に、血だらけの傷口を薄めた焼酎で洗い、畳針で縫合していく。
いくら針とはいえ、畳針は布用の手縫い針よりも長くて太い。はたして人間の皮膚が縫えるものだろうか。
いったいどのようにしてオペをしたのか……
昭和8(1933)年に発行された「所 郁太郎」(青山松任著)によれば
郁太郎は助手をかえりみて、「オイ、脈はよいか。」「大丈夫です。」「本人が動かぬやうに、大腿部を、しっかりおさへて居(を)つて貰(もら)ひたい。」「畏(かしこま)りました。」
といったやりとりを交わしながらが、50数針縫って全身に包帯をしたとある。
オペに要した時間は約4時間。6カ所の大きな傷を縫い合わせた。
縫われた聞多も大変だったが、縫う郁太郎に相当の技術がなければできなかっただろう。
高杉晋作とも親交のあった郁太郎、奇跡のオペから半年後陣中に没す
出血多量の聞多だったが、郁太郎の治療と母の看護のかいあって奇跡的に一命をとりとめることができた。
しかし、半年後、郁太郎は幕府の第2次長州征伐に対抗するため遊撃軍参謀として布陣していた吉敷(よしき。現在の山口市西部)の陣中で腸チフスにかかり、元治2(1865)年3月12日、享年28歳で亡くなった。郁太郎は高杉晋作とも親交が深く、彼が死んだ時、馬を飛ばしてやってきた晋作は人目もはばからず、畳をかきむしって号泣したという。
明治維新後、井上聞多は外務大臣など政府の要職を歴任。鹿鳴館を利用して欧化政策を推進し、実業にも携わった。郁太郎の贈従四位にも尽力。郁太郎の生家の甥を養育して所家の再興を図った。大正4(1915)年9月1日、79年の生涯を閉じる。
現在、大野町西方の養父・所伊織旧宅の跡地には井上の孫である井上三郎侯爵の尽力により「所郁太郎贈従四位頌徳記念碑」が建っている。
また静岡県熱海市には、郁太郎の業績を記念して義理の孫にあたる所安夫氏が建てた「熱海所記念病院」がある。
聞多の命を救いながら、自らは助かることが叶わなかった郁太郎。その短い生涯を思う時、「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」というB・Jの師・本間丈太郎の言葉が浮かぶ。
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参照
所 郁太郎(青山松任著)
郁太郎と丁輔(大野町教育委員会編集 大野町文化財保護協会発行)
郷土の志士 所 郁太郎(揖斐郡大野町読書サークル発行)
所郁太郎(大野町役場ホームページ)
ふるさとの先人 所郁太郎 (嚶鳴(おうめい)フォーラムホームページ 岐阜県大野町)