日本の神話において、ひときわ謎の多い神がいる。その名もサルタヒコ。鼻の長さは七咫(※)で、背の高さは七尺。つまり、鼻が長く身長は2メートルを超える異形の神だ。サルタヒコの正式名は、『古事記』では「猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神」。『日本書紀』では「猿田彦命」と書かれている。いずれも、アマテラス(天照大神)の孫・ニニギ(瓊瓊杵尊)が、国の統治のために天孫降臨をした際に道案内した神として登場する。
単なる道案内をしたというイメージばかりが先行しがちだが、実は意外なところで重要な役割を果たしていたようだ。伊勢神宮の誕生に関わり、天狗の祖先でもあり、獅子舞等の芸能に登場するなど、後世への影響は多岐にわたる。サルタヒコとは、どのような神だったのか。その真実に迫る。
※七咫(ななあた)は126cm。咫は親指と人差し指(一説に中指)を広げた長さで、一咫は約18cmと言われている。(国立民族学博物館『月例みんぱく 2018年4月号』より)
天孫降臨で道案内を務めたサルタヒコ
サルタヒコは出雲に生まれ、伊勢で死んだ。出雲といえば国譲りをした「国津神」の地で、伊勢といえば国譲りを迫った「天津神」の地(※)。つまり、戦の因縁浅からぬ関係があるはず。サルタヒコはそのような状況下で、どのように生きたのか。その顛末における重要な場面は、「天孫降臨」のやりとりにある。
※国津神は地(葦原中津国)に現れた神々の総称で、天津神は天(高天原)から天降った神々の総称。
天孫降臨とは、ニニギがアマテラスの命を受けて、葦原中津国(あしはらなかつくに:神話における日本の古称で地上世界)を治めるために、高天原(たかまがはら)から日向の高千穂に天降ったこと。ニニギが地上に降り立つと、国津神のサルタヒコはその道のど真ん中に立ち、天津神側の使者を邪視によって追い返す。この邪視とは「にらむ力」であり、これにより相手は口がきけなくなってしまったようだ。
しかし、高天原からアメノウズメ(天鈿女命)が派遣されて、状況は一変する。その時の様子を『日本書紀』では「乳房を露わにして衣装の紐を陰部まで垂らし、笑って相手に向き合った」と描写している。かなりエロティックだ。この様子に驚いたサルタヒコは「どうしてそんな真似をするのだ」と口走ってしまった。これはサルタヒコの敗北を意味している。それまでは無言でにらみを効かせることで優位に立っていたのだが、その一言で立場が逆転してしまったのだ。サルタヒコは道を開けて、ニニギを日向の高千穂まで案内することとなる。
アメノウズメとのその後
ニニギを日向の高千穂に送ったサルタヒコは、伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴川(いすずがわ)に行く。その一方で、アメノウズメはアマテラスからサルタヒコの名を負った女として猿女(サルメ)という名前を与えられ、サルタヒコとともに伊勢へ向かう。一説には、アメノウズメの原郷が伊勢だったから付き添ったと言われる。またこの時、猿の男(サルタヒコ)と猿の女(アメノウズメ)は、男女一対の神として結婚したという解釈もある。
貝に手を食われて溺れ死ぬ!?
その後、サルタヒコは阿邪訶(あさか・現在の三重県松坂市付近)の海で漁をしているときに、貝に手を食われて死んだとされる。大きな体を持ち、統治者でもあったサルタヒコの最期であると考えると、どこか呆気ないようにも思える。
気になるのは手を食うほどの大きさの貝が存在するのかということ。沖縄産のオオシャコガイが大きいものだと殻長2mになるようで、これがその貝とも言われている。三重県伊勢市二見町の夫婦岩で有名な二見興玉神社では、サルタヒコを祀るとともに沖縄産のオオシャコガイが置かれている。
また、本居宣長は「松坂に平生という地名があり、これを比良於と表記すれと比良夫貝の名に繋がる」と考えを示している。『サルタヒコの謎を解く』の著者・藤井耕一郎は、「東海道中膝栗毛」に「その手は桑名のハマグリ」というセリフが出てくることに注目。「その手は桑名」は「その手は食わない」にかけている。手は食わないはずなのに、サルタヒコは桑名の名物・ハマグリに手を食われて溺れ死んだという洒落だと解釈している。
結局のところ、貝に食われるというのは何かの比喩かもしれないし真相は謎に包まれている。少なくともサルタヒコは伊勢という森を統治する神でありながら、海人としての性格を持ち合わせていたことが伺えるエピソードだ。
伊勢の地を献上。やがて伊勢神宮に
サルタヒコの死後、伊勢の土地はその御裔であるオオタ(太田命)によってヤマトヒメ(倭姫命)に献上された。ヤマトヒメはこの地をアマテラスを祀る場所として、伊勢神宮を創建。天孫降臨を先導したサルタヒコだったが、伊勢神宮の誕生とも深い繋がりがあったのだ。現在、伊勢神宮の近くには、サルタヒコを祀る猿田彦神社がある。創建年代は不詳で、オオタの子孫が宇治土公(ウジツチギミ)と姓を称し宮司を務めている。
サルタヒコと獅子舞には共通点があった!
ところで、私は2019年より石川県加賀市で獅子舞を取材している。獅子舞の先導役としてサルタヒコが登場することから、この神の存在を知った。例えば加賀市大聖寺錦町では、獅子舞が出てくる春の桜祭りで先導役としてこのサルタヒコが登場する。また、加賀市三木町では、天狗の面(※)を被り獅子と対峙するという獅子舞の演目がある。
※サルタヒコは鼻が長く顔が赤い容貌から天狗の原型とも言われる。天狗は奈良時代に中国からもたらされた言葉で、最初は流れ星のことを指した。サルタヒコと天狗が同一視されるのは中世になってからという説もある。
サルタヒコがなぜこのような場に登場するのかというと、天孫降臨の際に道案内役を務めたからというだけでなく、獅子舞とサルタヒコが近い関係にあるからとも言える。獅子舞は一種の「ケモノの舞」であり、その根源には「邪視」の舞という神事の意味合いが秘められている。つまり、獅子は「にらむ」ことで厄を払う役目を担っているのだ。これはサルタヒコのにらんで敵を追い返す能力と重なるという説がある。
そのほかにも、芸能にサルタヒコが登場する例は様々。福井県若狭町や美浜町の「王の舞」は、古代の舞楽の系統を引くと言われ、「鼻高面」の仮面をつけた人物が主役を務める。また、能登半島の真脇遺跡からは、縄文時代の土製仮面が発見され、天狗のような表情をしていた。これはサルタヒコ信仰の初期のものと考えられる。能登半島にはほかにも、面様年頭(めんさまねんとう)といって男面と女面を被った子供が、家々を回る来訪神行事がある。ちなみに、弥生時代以降に出てきた銅鐸も、この仮面同様ににらむ役割を担うようになったという説がある。
サルタヒコは道案内をする道祖神の元にもなった
そのほかにもサルタヒコの信仰は、道端で石像の形で祀られる道祖神のもとになった。道中の安全を守ったり、導いたりする信仰と結びついたのだ。天孫降臨の際に天と地の境に立っていたことから、境界の神とも言われる。
道祖神は男女一対で祀られることもあるが、これはサルタヒコが性的な神だからである。サルタヒコの長い鼻は男根を連想し、配偶神であるアメノウズメは女陰や胸をさらけ出す場面が多くみられることが関係している。
このように、サルタヒコは日本の信仰に対して、多方面に深く関わっている神である。この事実を知る人は多くない。しかし、身近なところで、このサルタヒコの存在を感じられる場所はたくさんある。そう考えると、日常の中で新しい発見があるかもしれない。
参考文献
『サルタヒコの謎を解く』 藤井耕一郎著 河出書房新社 2015年10月
『月例みんぱく 2018年4月号』国立民族学博物館
『天孫降臨とは何であったのか』 田中英道著 勉誠出版 2018年4月
『古事記外伝: 正史から消された神話群』藤巻一保著 学研プラス 2011年7月
『サルタヒコ考 ― 猿田彦信仰の展開』飯田道夫著 臨川書店 1998年2月