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Culture
2020.09.22

見せる下着は江戸時代にも!浮世絵美女の「チラ魅せ」テクニックがおしゃれなんです!

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あなたは下着を見せる派? 見せない派?

女性の下着は「洋服を美しく見せるためのサポート的役割」と捉えられてきました。例えば、ドレスのウエストのくびれを演出するための下着が生まれたり、ミニスカートの誕生でパンティストッキングが人気となったり、その時代のファッションの流行に合わせて下着は変化してきましたが、「下着=見せないもの・身体を整えるもの」という見方が主流でした。

でも、最近の女性誌や女性向けのサイトでは、「見せブラ」の提案や「見せるランジェリーが流行」と紹介する記事もあり、「ファッションの一部」として、わざと見せながら自由に楽しむことが提案されていることも。ブラジャー機能付きのブラトップは、もはや欠かせないものとなっています。
ブラの紐も含めて「下着を見せるか、見せないか」は、様々な意見、個人的な好みや考え方があり、正解はないような?

それでは、洋装が入る前、江戸時代の女性はどうだったのでしょうか? 江戸時代の着物ファッションのトレンドを伝える、浮世絵に描かれた美女たちのスタイリングを手がかりに見ていきましょう。

そもそも、着物は下着の進化系だった!

現在、私たちが「着物」と呼んでいるものは、江戸時代までは「小袖(こそで)」と称されていました。
平安時代以降、宮廷貴族が着用する「大袖(おおそで)」に対し、袖口が小さく縫い狭められ、袂(たもと)がある衣服を「小袖」と呼ぶようになったのです。小袖は、宮廷貴族や上級武家が着用する束帯(そくたい)や女房装束の十二単(じゅうにひとえ)といった大袖の衣服の下に着用する下着として用いられてきました。小袖は、下着として着ていたので、男女とも白が基本でした。

『古代江戸絵集』より 国立国会図書館デジタルコレクション

室町時代になると、小袖に染や刺繍、金銀の箔(はく)による色や文様をつけるようになりました。安土桃山時代には、上級武家の女性たちが「打掛(うちかけ)」という小袖と同じ形の衣を着るようになります。
江戸時代に入ると、上級武家の女性は小袖に打掛というスタイルを踏襲しますが、庶民は小袖が表着(うわぎ)となり、「着るもの」の代表となったため、小袖を「着物」と書いて「きもの」と呼ぶようになったのです。そして、様々な着物ファッションが生まれ、時代によって、流行に合わせて、その装いも変化していきます。

江戸時代後期の着物事情

江戸時代後期、町人や商人が裕福になると、衣装にお金をかけて贅を競うようになりました。財政逼迫という事情もあった江戸幕府は「奢侈(しゃし)禁止令」を出し、庶民の着物の色・柄・生地・値段に規制をかけ、絞りや刺繍、絹などの贅沢な装いを禁止します。
これにより、庶民が着られる着物の色は「茶、鼠、藍」(=ブラウン、グレー、ネイビー)のみとなってしまいましたが、そこでお洒落をあきらめないのが町人の意地。許可された色の範囲で、「路考茶(ろこうちゃ)」「団十郎茶」「梅鼠(うめねず)」「鳩羽鼠(はとばねずみ)」など、微妙に染め分けをした新色を続々登場させ、落ち着いた色調の中で「人とは違う着物」「粋な着物」という新たな美意識を開花させることで御上に対抗したのです!
この時にできた茶色と鼠色の膨大なバリエーションを「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」と呼びます。着物の柄も、遠目には無地に見える縞、格子、小紋や中型染めなどのすっきりした柄行きになりました。

男性は、表地は目立たない小紋、縞模様の地味な着物を着て、外からは見えない裏地や襦袢(じゅばん)を派手にしたり、凝ったものにして着るといったおしゃれを楽しむようになりました。
一方、女性は、総柄模様から上半身は無地で裾に模様が入る裾模様となり、模様が目立たないように位置を下げていきます。上半身が地味な分、帯の幅が広がり、結び目も大きくなりました。極端に大きくなった帯の結び目には、帯が解けたり、ずり落ちたりしないように「帯締め」を使うことが、この頃から始まりました。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 阿寿かやま」 国立国会図書館デジタルコレクション

画像は江戸・飛鳥山に花見に来た女性。「三つ並び杵」という三味線の流派の杵屋一門の家紋と、杵の模様を散らした裾模様の着物を着ています。彼女は杵屋流の伝承者で、名取の許しを受けた三味線の師匠でしょうか? 色数も少なく、まさに江戸っ子好みの「江戸褄(えどづま)」と呼ばれる着物です。着物の同系色の帯を合わせて、すっきりとまとめているのが粋です。衿元、袖口、裾からのぞく赤い下着の色が効果的なアクセントとなっています。

江戸時代の浮世絵を見ると、現在よりも重ね着をしており、下着、長襦袢、中着、表着くらいを重ねるのが普通でした。無地で地味な表着の下から、派手な小紋をのぞかせるスタイリングも人気だったようです。

襦袢の誕生と長襦袢の流行

重ね着した装束の一番下に着るものが小袖で、小袖が肌に一番近い下着だったのが、室町時代に小袖を一番表に着る表着として着るようになると、新たに小袖の下に着る下着が必要となり、襦袢が誕生します。

襦袢の語源はポルトガル語?

「襦袢」は着物を着る時の下着ですが、襦袢とはポルトガル語「ジバン(gibāo)」が転訛した言葉です。「ジバン」とは、当時渡来していたポルトガル人の肌着、シャツを真似たものとも、天正遣欧少年使節が持ち帰ったものとも言われています。
江戸前期になると、丈が腰までの長さで着物と同じような衿をつけた「半襦袢」を下着として着るようになります。初めは袖のない白地のものでした。

長襦袢の流行は遊里から

江戸中期になると、遊郭の遊女たちが長襦袢を着るようになりました。江戸時代の遊里は文化の発信地であり、浮世絵に描かれる遊女たちはファッションリーダーでもあったのです!
長襦袢は、遊郭の遊女が部屋着として着たものが最初です。江戸・吉原を描いた浮世絵に、遊女が長襦袢でくつろぐ姿や、客の布団に入る姿などが描かれています。長襦袢には豪華な着物とは異なった色気があり、評判となりました。これを流行に敏感な町人たちが真似し、長襦袢を着るようになったのです。

天保年間(1830~1844年)には、絞りや刺繍など、着物にも匹敵する豪華な長襦袢も現れました。このため、長襦袢も「奢侈禁止令」の対象となって規制されましたが、女性たちは「見えない粋」として下着を工夫し、楽しんでいたようです。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 八町堀」 国立国会図書館デジタルコレクション

夏の朝、起きたばかりの女性が寝巻代わりに着ていた長襦袢は、赤地に麻の葉と梅の絞り柄です。暑いのか、胸元が大胆に開いています。後ろに蚊帳(かや)を吊るしたままなので、起き出したところでしょうか?

なお、長襦袢が流行するようになっても、家事や野外労働をする女性たちは、足元のさばきが良い半襦袢に腰巻という着方をしていました。

半衿と掛け衿のおしゃれ

着物で、意外と目立つのが衿元です。
現代では、衿元はピタリと着付けるのが基本とされていますが、浮世絵の美女たちは、衿元がゆったりとしていて、長襦袢も見えているような……?

半衿の色を見れば、年齢がわかる?

「半衿」は、長襦袢や半襦袢の衿に縫い付ける変え衿のこと。半衿の「半」は、襦袢の衿の長さの半分程度しかないためと言われています。

襦袢の地衿に、別柄の布地を重ねるようになったのは江戸時代初期の頃です。
半衿は襦袢の衿の汚れを防ぎ、衿の擦り切れを保護することが目的で、地衿の2倍の幅の半衿の外側だけを衿と胴の間に縫い付けて、衿を包むように折り返して使うものだったようです。この時、首の後ろが当たるところは二等分して内に折り込み、衿の合わせ目になるほど衿幅が広く見えるように折り方を加減していくというものでした。当時は、上着、中着、下着と何枚も重ねて着ることがあったので、半衿幅を広くとることで一番下にくる衿がきちんと重り、全体的に整った印象になります。また、胸元から首筋に線状に見えるため、着物の色柄を強調する役目もありました。当時の浮世絵を見ると、現在よりもたくさん半衿を見せていることがわかります。

半衿は、若い娘は鹿の子絞りや刺繍の入った赤、中年以上は浅黄や紫、茶を使いました。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 五百羅かん」 国立国会図書館デジタルコレクション。

本所五ツ目にあった天恩山五百羅漢寺(てんおんざんごひゃくらかんじ)にお参りするおばあさんにお供する15、16歳の少女を描いています。少女の着物は、縦絣(たてがすり)に縦縞という、江戸後期に流行した柄で、袖のあたりが透けているので、夏用の絽の着物と思われます。少女にしては渋い色の着物ですが、赤い半衿をつけた襦袢をたっぷり見せつつ、袖口と裾からチラリと見える赤い下着、さらに帯締、頭の結綿(ゆいわた)、手にした団扇も赤で揃えるという赤を利かせたスタイリングで、おしゃれ上級者のように思われます

なお、最初に襦袢を着たと言われる御殿女中は、半襦袢に白絹の衿を掛けるのが決まりでした。

黒い掛け衿は、おしゃれと実用を兼ねるもの?

上着の衿に汚れを防ぐための黒衿を掛けるのが流行しました。
掛け衿は、髪の油が衿に付かないためのものですが、江戸時代後期には、おしゃれの一つとして黒衿を掛けることが多くなったと言われています。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 尾張町」 国立国会図書館デジタルコレクション
恵比寿屋という木綿を扱う太物屋で、5枚が一つに綴じられた端切れのセットを手に取って思案している少女は、着物の衿に黒繻子の掛け衿をしています。江戸の町人の女性は、衣類をはじめとする身の回りのものは全部、自分で縫いました。そのため、端切れとはいえ、選び方は真剣そのものです。

下半身に巻く下着の呼び名は様々

女性の下半身に巻く布(=下着)には、「裾除け」「蹴出し(けだし)」「湯文字(ゆもじ)」「腰巻(こしまき)」「御腰(おこし)」など、様々な名称があります。

「裾除け」と「蹴出し」の違いは?

「裾除け(すそよけ)」は、江戸時代に着物の裾が傷まないように着物の内側に着る下着として考案されました。そのため、丈は着物より少しだけ短く、床につかない程度にしました。
また、着物の裾を滑りよくして、歩く時に足を出しやすくするということから、「蹴出し(けだし)」とも呼ばれました。

「湯文字」は隠語?

「湯文字」は、江戸時代まで女性が風呂に入る時に腰に巻いていた「湯巻」の女房詞(にょうぼうことば)です。(女房詞とは、室町時代に宮中に仕える女性たちによって使われ始めた隠語で、食物・衣服・日常の用具に関するものが多く、上品で優美な言葉として、のちには将軍家に仕える女性から町家の女性にまで広がりました。)
丈は膝下あたりまでで裾除けと似ていますが、湯文字は完全に下着とされ、外に見せることはなかったのですが、浮世絵では赤い湯文字がチラリと見えるものもありますね。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 染井」 国立国会図書館デジタルコレクション

染井の菊見物から帰ってきたばかりの少女は、庭先から縁側に上がり、きつかった帯を解いて足を洗い終えたところのようです。着物の表着は渋い色の目の細かい縞で、中着も縞ですが、水紋に鴛鴦(おしどり)が泳いでいます。赤い襦袢は、縞と花柄の絞りです。なんとなく、赤い湯文字もチラリと見えているような?

「御腰(おこし)」は腰に巻いた布のことですが、着用方法から見ると、湯文字に近い意味があるようです。

「腰巻」は下着なの?

「腰巻(こしまき)」は、戦国時代以降、武家の婦人が夏の暑さ対策に打掛の上半身を脱いで腰に巻き付けていることの呼び名ですが、裾除けや湯文字と同じような意味で使う場合もあります。
 

女性の下着は、赤が人気! その理由は?

江戸の粋とも呼ばれる地味色が広まっても、裾除けや襦袢、蹴出しには「紅絹(もみ)」と呼ばれる緋色(ひいろ)が人気でした。「紅絹」は、通常、鬱金(うこん)で黄に下染めした上へ紅をかけて染め上げました。紅花には、子どもを産む女性の体を冷やさないようにする効果があると言われています。赤い下着は、生理的な実用性と、少しでも華やかな色を身につけていたいという女心からきたものだったのです!

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 堀の内祖師堂」 国立国会図書館デジタルコレクション

こちらはお百度参りをする女性を描いています。手に神仏への百度参りの時に数を数えるのに用いた銭緡(ぜにさし)と呼ばれる百本のこより、または細い縄を束ねて根元をくくったものを持っているので、両手が空くよう、着物の裾が地面に着かないようにたくし上げて「抱え帯」と呼ばれる腰帯をしています。こうすれば、長く歩いても裾が乱れず安心です。
髪型は既婚女性が結う丸髷(まるまげ)で、歯はお歯黒をしていますが、眉は剃ったばかりのようなので、結婚して間もない若妻のようです。渋い色の着物の裾をわざと広げ、青い梅模様の着物の裏地と花模様の赤い長襦袢を見せているところに、おしゃれ心が感じられます。

下着をチラリと見せて、魅せる美女たち

江戸時代の浮世絵に描かれた美女たちの着物のスタイリングを見ていくと、現在よりもゆったりとした着付けで、襦袢や裾除けといった下着もおしゃれのアクセントとしてチラリと見せていたのではないかと思われます。また、ふとした瞬間に、着物の裾から白い足がのぞいて、思わず目にした男性をドキッとさせることもあったかもしれません。

浮世絵に描かれた美女たちと対面していると、下着が見えるか見えないかなんて気にせずに、「着物はもっと自由に着てもいいんだよ」というメッセージが伝わってきたような気がします。

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。