織田信長と言えば、奇天烈、残忍、新しもの好きなど、いろいろと強烈なイメージがありますが、群を抜くのが「独占欲の強さ!」でしょう。手に入れたいと思ったものは絶対手に入れる。そのねちっこいほどの執着心があったからこそ、天下統一などと大それた目標に向かってまっしぐらに進めたのではないでしょうか。
織田信長の執着したものの一つに「茶道具」があります。信長の茶の湯への傾倒ぶりはすさまじく、自分だけにはとどまらず、家臣や弟までをも巻き込んでのめり込んでいきました。趣味の範囲を超え、戦略の一つとなり、茶会は権威の象徴にも利用されます。
血で血を洗う戦国時代。織田信長ら武将たちが、茶の湯にはまった3つの理由
「それが欲しいんじゃ!!」と独占欲を発揮した「名物狩り」
クイズの答え「名物狩り」とは、茶道具の名品蒐集のことでした。織田信長は永禄11(1568)年に足利義昭上洛により、武士や商人から名だたる茶器を献上されます。それがきっかけとなり、この名物狩りにはまったのではといわれています。
織田信長の一代記『信長公記』には、
畿内・隣国は皆、信長の支配に従った。松永久秀は、我が国に二つとない茶入「九十九髪(つくもがみ)」を信長に献上し、今井宗久(いまいそうきゅう)は、これまた有名な大名物の茶壷「松島」および武野紹鷗(たけのじょうおう)旧蔵の茶人「茄子」を献上した。
確かに、美濃を平定し尾張・美濃を手中に収めましたが、まだまだ35歳の地方大名。勢いはあったにせよ、ここまでされたら勘違いしてしまうのも仕方がないのかもしれません。六本木ヒルズの高層階に招かれ、高級シャンパンやらグラスやらを次々譲り受け、ハイになってしまった若手ベンチャー社長の気分とでもいいましょうか?
こうして信長は名物に取りつかれ、美濃に帰り、居城の岐阜城でも次々と強欲をむき出しにします。
さて、信長は、金銀・米銭には不足することはなかったので、この上は、唐土から渡来した美術工芸品や天下の名物を手もとに置こうと考えて、次の品々を提出するように命じた。
一.上京の大文字屋宗観所持の茶入「初花」
一.祐乗坊所持の茶入「富士茄子」
一.法王寺所蔵の竹茶杓
一.池上如慶(いけがみじょけい)所持の花入れ「蕪(かぶら)なし」
一.佐野家所蔵の絵「平沙落雁(へいさらくがん)図」
一.江村家所蔵の桃底の花入 以上松井友閑(まついゆうかん)および丹羽長秀が使者となり、金銀・米を下げ渡して右の品々を召し上げた。天下に条目を発布して、五月十一日、美濃の岐阜に帰城した。
もはや公私混同を超え、職権乱用です。本当に茶の湯にはまった豊臣秀吉や徳川家康はさておき、家臣たちの中には「茶の湯最高!!」と忖度していただけの人もいたのでは?とも思ってしまいます。なんたって茶会を開くには大変なお金も必要となるため、恨めしく思った家臣もいたはず。
あわや一家断絶? 帰蝶の兄嫁にした仕打ち
さらには、京都の公家・山科言継(やましなときつぐ)が書いた日記『言継卿記』にこんな一説があります。
信長が濃姫の兄、故斎藤義龍の未亡人が持っていた茶壷を欲しがりました。当時信長は「名物狩り」と呼ばれる強引な茶道具蒐集を行っており、信長の命令は絶対であり、これに逆らうことは許されないはず……。
これに対し、未亡人は、絶対に壺を渡さないと壺を戦乱で紛失したことにしたのだとか。もしこれ以上強要するなら、自害すると言い放ったのです。これに美濃の有力な武将たちが一致団結。自分たちも自害・切腹をいとわずとして抵抗し、ようやく信長はあきらめるにいたりました。
正室である帰蝶の身内を一家断絶の危機にも陥れてしまうほどの執着心。しかしこの後も名物狩りは収まることなく、市中から名物がなくなり、値がどんどん上がってしまいました。
名物を使って政治手腕を遺憾なく発揮
価値の上がった品々を、家臣には褒章として、大名には政治交渉の手段として使用していったところが、織田信長の手腕の凄さでもあったといえます。いつの時代も交渉に長けること、その術を巧みに利用できるものが、天下を取るのですね~!
しかし、これらの名物は、「本能寺の変」の後、安土城が焼失してしまった際に燃えてしまいました。一つだけ奇跡的に発見された松永久秀が献上した『九十九髪(唐物茄子茶入)』が豊臣秀吉、徳川家康の手に渡り、現在は、静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区)に『大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子』として所蔵されています。
それにしても、重臣の豊臣秀吉、明智光秀はもちろん、徳川家康も茶の湯にはまり、利休をはじめ、津田宗及、今井宗久ら茶人や、大名でありながら茶人としても名を残した古田織部などが育ったのも織田信長の功績と言えるでしょう。弟の織田長益は織田有楽斎となり、武家茶道の開祖となりました。それを思うと、織田信長という人物は、現代に生まれていたら名プロデューサーとして活躍していたのかもしれませんね。
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