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2025.02.05

中世サバイバルを駆け抜けた!『逃げ上手の若君』小笠原貞宗のリアルと先祖に迫る

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『逃げ上手の若君』で主人公の敵役でありながら、領主として大人としての人格者と描かれて絶大な人気を誇る小笠原貞宗(おがさわら さだむね)。その実際の人物像に迫る!!

……と、その前に、鎌倉初期御家人のオレとしては小笠原氏の先祖についてもぜひ紹介したい。オレについては第1回の記事を参照な!

母親は誰なのか?『逃げ上手の若君』北条時行の謎に満ちた出生に迫る

小笠原貞宗の先祖たち

小笠原氏は、源頼朝(みなもとの よりとも)様や足利尊氏(あしかが たかうじ)と同じく、河内源氏(かわち げんじ)の一族だ。

▼河内源氏についてはこちらを参考に
ここでおさらい。河内源氏の系譜を3分で解説【鎌倉殿の13人】

頼朝様のご先祖が義家(よしいえ)様だが、義家様の弟の義光(よしみつ)殿は常陸国(ひたちのくに=現・茨城県)に勢力を得た。

楊洲周延 『日本歴史教訓画 一 新羅三郎時秋』 出典:東京都立図書館

しかし義光殿の死後、後を継いだ義清(よしきよ)殿とその子・清光(きよみつ)殿は常陸国の勢力争いに敗れ、甲斐国(かいのくに=現・山梨県)に流罪となってしまった。しかし流罪となってからもしぶといのが河内源氏。

義清殿たちは館を構え、甲斐国で勢力を拡大。その後、加賀美遠光(かがみ とおみつ)殿が生まれた。小笠原長清殿は、遠光殿の次男として生まれた。

ちなみに、長清殿の母は諸説あるが、一説にはNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した和田義盛(わだ よしもり)の妹だ。

和田義盛とは?人物解説!横田栄司が演じるのは、鎌倉幕府のビッグ・ベン?【鎌倉殿の13人予習シリーズ】

小笠原氏の簡易家系図

小笠原長清について

小笠原長清殿は、甲斐国の小笠原郷(山梨県北杜市明野町小笠原)を所領としていた。 応保2(1162)年生まれだから、頼朝様や和田義盛よりちょうど15歳年下。

治承4(1180)年の頼朝様旗揚げの時、長清殿は満18歳。当時は京にいて、平清盛(たいらの きよもり)殿の息子・知盛(とももり)殿に仕えていたらしい。

以仁王が平家に反旗を翻した時、母の病気を理由にして故郷に戻ろうとしていたがなかなか許されず、8月に入ってやっと戻ることができた。そしてすぐに頼朝様の元へ行き、頼朝様に仕えることとなった。

ここら辺は、なんというか……父の遠光殿が仕えていたのが高倉(たかくら)天皇だったので、その繋がりで平家の屋敷を守っていたんだと思う。高倉天皇は母も妻も平家の人物だしな。だからもともと先祖代々の平家の家人というわけではない。

それから情勢を読む「目」がとても優れていたんだと思う。

小笠原長清の「目」

源平合戦で武功を重ねて、上総広常(かずさ ひろつね)殿の娘を妻とした。『鎌倉殿の13人』を観ていた読者原はよく知っていると思うが、上総殿は頼朝様から謀反を疑われて誅殺されている。

その時、一歩間違えれば小笠原殿も縁者として処罰されていたかもしれない。しかし罪には問われずに、小笠原殿の妻が上総殿の所領の一部を相続している。

それ以降も小笠原殿は武功を立て続けた。しかし頼朝様が亡くなり、頼家様も病に倒れて起こった比企能員(ひき よしかず)の乱の際に、小笠原殿の嫡男・長経(ながつね)殿は頼家様の側近だったため、比企の味方と目されてしまった。

長経殿は鎌倉から去ってしまったが、他の息子たちは鎌倉に残り、小笠原殿の姉妹である大弐局(だいにのつぼね)が実朝様の養育係を務めていたため、鎌倉での地位を失わずに済んだ。

そしてなんと言っても、小笠原殿の時勢を読む「目」の力が発揮されるのが、承久の乱の時。後鳥羽院から義時追討の院宣が発布されたが、鎌倉はイチかバチか反撃に出た。その時に、小笠原殿は同じ甲斐・信濃の武士である武田信光殿と一緒に東山道の大将として鎌倉から出発したのだが……。

実はギリギリまで鎌倉につくか朝廷につくか迷っていたらしい。

小笠原殿が「どうしようか」と武田殿に相談すると、武田殿はこう答えた。

「鎌倉が勝つなら鎌倉に、朝廷が勝つなら朝廷につく。これが武士の習いですよ」

そしてその直後、北条時房殿から手紙が届く。

「武田殿・小笠原殿。大井戸渡・河合渡を渡って朝廷軍と戦ってください。そうしたら、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野の6カ国をあげましょう」

こうして、武田殿と小笠原殿は「じゃぁ鎌倉につこう」と言って朝廷軍と戦った。

まぁ、後鳥羽院の院宣って「義時を倒したら褒美は思いのままだぞ」って、ふんわりしてたから……。ハッキリと具体的な報酬を提示した鎌倉につくわなぁ……と、朝廷軍の大将だったオレも思う。

つーかほんとマジ……上はしっかりしてほしい。

小笠原貞宗までの小笠原氏

長清殿以降の小笠原氏をざっと解説したのが、次の図だ。

小笠原貞宗のファミリーツリー

小笠原氏は妻の名前はそこそこ残っているが、母の名前はあまり残っていない。『逃げ若』に登場する小笠原貞宗も母は諸説あるので、母方の家系は割愛した。

比企能員の乱で本家となった伴野(ともの)氏だが、弘安8(1185)年の霜月(しもつき)騒動で失脚してしまう。この騒動についてはここでは詳しくは取り上げないが、安達(あだち)氏が滅んだ内乱だな。伴野氏は安達氏の当主・泰盛(やすもり)の母の家だったので、連座して処刑されてしまった。しかし泰房(やすふさ)が生き延びた。

一方、元々本家筋だった小笠原長経(おがさわら ながつね)殿の子孫、長氏(ながうじ)が再び家督を継ぎ、宗長(むねなが)・貞宗と続くワケだ。

小笠原貞宗について

さて、いよいよ小笠原貞宗についてだが、『逃げ上手の若君』でも描かれた通り、元々は鎌倉御家人であったが足利尊氏(あしかが たかうじ)が反旗を翻した時にこれに従っている。この時の尊氏の動向については過去の記事を参考にしてほしい。

先祖も濃ゆいぞ!『逃げ上手の若君』足利尊氏とミステリアスな一族のナゾに迫る

ちなみに貞宗の父・宗長は北条氏の御内人(みうちびと)だった。祖父の長氏は京都で六波羅評定衆(ろくはら・ひょうじょうしゅう)として名を連ねている。

評定衆は政務や訴訟を審議するメンバー。御内人については五大院宗繁の記事を参照してくれ。
『逃げ上手の若君』に登場した極悪人!? 五大院宗繁の実像と謎に迫る

北条氏との関係が深いのになぜ足利尊氏の元で戦ったのか……その心情はわからない。しかし御内人の中にも完全に北条氏の従者として働いていた者もいれば、御家人としての仕事をメインに副業感覚で働いていた者もいて、広いグラデーションがあった。

小笠原貞宗は最初は幕府軍として戦っていたが、尊氏から協力を呼び掛ける文をもらい、これに従った。先祖の長清殿のようにギリギリまで迷って両軍を見極めたのかもしれない。時代の流れを読む「目」に優れていたのだな!

尊氏の下で戦い、信濃国で勢力を拡大した小笠原氏の中興の祖だ。そして武家の礼法として『修身論』と『体用論』をまとめて後醍醐天皇に献上し、貞宗の子孫は歴代の将軍の弓馬の師匠となり、現代に続く弓馬術礼法小笠原流の基礎を作った……とされている。

これは江戸時代の小笠原氏から伝わる伝承ではあるが、子孫たちにとってはそれだけ偉大なご先祖様なのだろう。

『逃げ上手の若君』の物語はまだ途中なので、小笠原貞宗や小笠原氏がどういう人生を辿ったかはネタバレになってしまうかもしれんが、小笠原氏の血筋は明治以降も続いた。

近現代まで血筋が辿れるというのも、歴史の沼を感じることができるな!

▼三浦胤義殿の、濃ゆ~い&わかりやすい「鎌倉時代解説記事」一覧はこちら!
三浦胤義bot記事一覧

アイキャッチ画像:『犬追物図屏風』 ColBaseをもとに作成

参考文献:
『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『国史大辞典』吉川弘文館
熊谷知未「小笠原氏と北条氏」(『信濃』第43巻第9号、1991年)
鈴木由美「御家人・得宗被官としての小笠原氏」(『信濃』第64巻第12号、2012年)