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2020.10.21

武田信玄はゴリ押し型?上杉謙信は説得型?戦勝祈願でみる戦国武将の性格分析が面白い!

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好敵手の代名詞といえば、やはりこの2人。
「武田信玄」と「上杉謙信」だろう。

実力に過不足がない、ちょうどよきライバル。両者は、天文22(1553)年8月に川中島(かわなかじま、長野県)にて対峙。そこから足掛け12年もの間、5回も「川中島の戦い」と称して対戦している。

そして、その勝敗はというと。
最終的な決着がつかず。だからこその「好敵手」といわれるのかもしれない。

そんな2人だが。生まれ年は近い。
武田信玄は大永元(1521)年生まれ。父の信虎(のぶとら)を追放して、甲斐(山梨県)の守護となり、近隣諸国を脅かすことに。

そこで対立したのが、上杉謙信である。
こちらは、享禄3(1530)年生まれ。家督を継いで越後(新潟県)を統一。関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)や信濃(長野県)の村上義清(むらかみよしきよ)らに援助を求められる。こうして、謙信は、その相手方の北条氏康や武田信玄と戦うのである。

今回は、武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島の戦い」での「戦勝祈願」がキーワード。両者から社寺に奉納された願文(がんもん)をもとに、2人の性格を分析しようというものである。一体、どのような違いがあるのやら。

それでは、早速、2人の願文を逸話と共にご紹介していこう。
(なお、本記事は、「武田信玄」「上杉謙信」の名で統一して書かれています)

※冒頭の画像は、一猛斎芳虎「信州川中嶋大合戦」出典:国立国会図書館デジタルコレクションとなります

神仏にも押しの一手で勝負する「信玄流」

『名将言行録』に、こんなくだりがある。
川中島の戦いで、上杉謙信が名馬の「放生月毛(ほうしょうつきげ)」を乗り捨てたというのである。家臣が「さすがの輝虎(上杉謙信のこと)も馬をお捨てになられた」と報告にきたところ、信玄はその言葉に激怒。

「馬がくたびれれば乗り替えるのは当然だ。ちょうど乗り替えたときに合戦が負けたことになったら、中間(主人の身のまわりの雑務の従事者)どもが馬を捨てて逃げるであろう。それを輝虎が弱いときめつけるとは、まったく考えのない申しようだ」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

なぜか、ライバルの上杉謙信がけなされたことを怒る武田信玄。あまり理解できない心情なのだが。相手を認めるからこそ、その悪口を言ってもよいのは自分だけ。他の者が口にするのは、許さないという心理なのだろうか。どうにもよく分からない関係である。

月岡芳年「大日本名将鑑武田大膳太夫晴信入道信玄」「大日本名将鑑」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

そんな武田信玄が、「川中島の戦い」に際して、戦勝祈願した願文が『戸隠神社文書』にある。基本的に、戦勝祈願を依頼されれば、その社寺は勤行(ごんぎょう)をする。そのベースとなるのが、願文である。日付は永禄元(1558)年8月。その一部を抜粋しよう。

「信濃の十二郡が私の意のままになるかどうか占わせたところ、舛の九三という卦が出た。これは、往けば必ず得るという意味である。また越後の上杉謙信との和を破って戦いを始めることの可否を占わせたところ、神の卦が出た。これは、君子往く所あり、先に迷って後に得んという意味である。」
(小和田哲男著『戦国軍師の合戦術』より一部抜粋)

うん?
そもそも、願文ってなんなのだ。「お願い、神様。どうか勝たせてください」とすがりつくものではないのか。それがどうした。占いの結果を披露だなんて。なんだか上から目線のような気がするのだが。

とにかく、この続きを見てみよう。

「今年中に、一国中が当方の手に入るはずである。もし、越後勢が攻めてきても、卦の文面通り、敵が滅亡し、私が勝利を得るのは必然である」
(同上より一部抜粋)

違和感の塊である。
先に神に対して、勝利宣言をした方が勝ちということか。なんだが、先着順のような勢いだ。

この信玄の願文からは、戸隠神社に願文を奉納する以前に、戦いの行く末を占っていることが分かる。まず、ある程度、占いで確信を得てから。「ね、そうだよね?」と念押しするような形式となっているようだ。

それにしても、強い。圧が強すぎる。「私が勝利を得るのは必然」だと言い切るあたりが。もう、すごい。「NOと言えない日本人」と揶揄されがちな国民性だが、信玄は違う。とすれば、欧米的なのか。

ただ、自己暗示にかけている面もあるのかもしれない。自分に絶対的な自信がある、そんな人物だと感じる。ストレートで、明確な自己主張を得意とするタイプなのだろう。根っからのリーダー気質といえそうだ。

理路整然と説得するのが性分の「謙信流」

さて、一方の対立する上杉謙信について。

『名将言行録』には、武田信玄が逝去した際の状況が記されている。信玄の遺言通り、死の事実を外部には秘していたようだが。上杉謙信は、北条氏政経由で信玄の死を知ったらしい。ちょうど、気分良く湯漬けを食していた謙信。そのタイミングで、訃報を聞いたという。その反応はというと。

「そのまま箸を捨て、口の中にある湯漬けを吐き出して『ああ残念なことをした。名大将を死なせたものだ。英雄人傑とは、この信玄のような人物をこそいうのだ。関東の武人は柱を失ったも同様。まことに惜しいことだ』といって涙をはらはらと流した。そして三日間は音楽を禁じた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

あれ?
敵同士じゃないのかよと、ここでも突っ込みが入るところだが。生き抜くためには、争うコトも必要だと互いに分かっていた戦国時代。ある意味、敵方でも同士のような気持ちを抱く、そんな背景があったのかもしれない。

つまりは、相手が憎い、恨みがあるといって、単なる殺し合いをしていたワケではないというコト。だからこそ、戦いにはある程度のルールがあり、負けた相手に対するリスペクトも持ち合わせていたのである。

上杉謙信からしても、武田信玄はよきライバル。
この逸話だけなら、謙信は、胸に火傷しそうなほどの「情」を持つ戦国武将だと思ってしまう。

月岡芳年「月百姿(陣中の月)謙信」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

ただ、どちらかというと、謙信は全く逆のイメージが一般的。冷静で頭がキレて信心深いとの人物像ではないだろうか。そんな上杉謙信の願文を、次にご紹介しよう。

先ほどの武田信玄の願文とは、また違った印象を受けるに違いない。そもそも、願文の書き方については一定の形式が存在するのだが。その表現方法やアプローチの仕方は人それぞれ。戦国武将の性格や人柄で、願文もガラリと変わってしまう。それが如実に表れたといえるだろう。

時は、弘治3(1557)年。
謙信は、更科八幡宮(武水別神社、たけみずわけじんじゃ、長野県千曲市)に戦勝祈願を行った。奉納された願文の一部を抜粋する。

「当社(更科八幡宮)の神は、本地が無量寿仏で、それがはるかに十万億土を過ぎて日本に至ったものである」
(小和田哲男著『戦国軍師の合戦術』より一部抜粋)

学術論文を読んでいるような出だしである。なんとも壮大なスケールの話になりそうな予感。いや、これ、戦勝祈願の願文なんですけれども。まずは、戦勝祈願を依頼する「神」の説明から始まるようだ。

信玄の場合は、単刀直入、自身の占いの結果から始まったが。謙信は、どちらかというと論理立てて、用意周到に話を持っていくタイプのようだ。一方で、それが、回りくどい気もしないでもない。

この続きを見てみよう。ざっと、神様の説明が終わったところで。

「ここに武田晴信(信玄)と号する佞臣がおり、信州に乱入し、そこに住む諸士がことごとく滅亡する事態を迎え、また神社仏塔を破壊する挙に出たため、国の悲嘆は何年も続いている。…(中略)…神は非礼を受けつけるはずはない。たとい晴信をかつぎ出そうとする者がいたとしても、晴信はすでに国務を奪おうとして、諸士に対して煩いをなしている。万民たちがどうしてその感応に与(あずか)ることがあろうか。伏してねがわくは、この精誠の趣旨をご覧いただきたい」
(同上より一部抜粋)

アメリカの大統領選挙で、互いをけなす誹謗中傷のスピーチではありません。いや、タイムリーだからか。つい、そんな錯覚に陥りそうだ。どうやら、この願文を見る限り、謙信は、戦いにおける自己の正当性を主張したいようだ。

というのも、願文はじつに多くの効果を生み出す。神に対する戦勝祈願のみならず。家臣や領民などに、戦いは必然で避けられないと、納得してもらう目的もあった。そのため、このような回りくどい、相手の悪行を書き連ねて、自身を正当化する手法に出たのだろう。それにしても、先ほどの泣いていた謙信はどこにいったのやら。

さて、今回、2つの願文をご紹介したが。
こうみると、同じ願文でも戦国武将個人の色合いが強く出ていることが分かる。武田信玄の裏表ないストレートな願文に対して、相手の悪行を非難しつつ自己を正当化する上杉謙信。

性格も全く異なる2人。だからこそ、認め合えたのかもしれない。

最後に。
戦勝祈願を依頼される社寺について、簡単に解説しておく。武将らは、どうやら自国の領地の近場の社寺に頼むことが多かったようだ。

例えば、武田信玄の場合であれば、諏訪明神や戸隠大権現。上杉謙信の場合では、飯綱明神、更科八幡宮が多い。地縁を考えて選んでいたのだろうか。いや、単純に、身近な存在で、常日頃から拝んでいるという理由なのかもしれない。

なお、先ほどの神々のお名前なのだが。
願文の最初に、決まり文句として書くのが一般的。当時の祈願は、ただ神仏にお願いするのではない。ちゃんと、祈願する側も義務を負う。例えば、「もし、約束を破ったならば、……の神の罰を受けます」という誓いを立てるというワケだ。

そして、その願文に書かれる神々は1つではない。
まずは、どの武将も共通の神として「上梵天」「帝釈」「四大天王」などの神名を挙げる。こちらの神々がズラッと並んだあとは、地域によって挙げる神々が異なる。どうやら、東日本と西日本とで、大きく神々が分かれるのだとか。

東日本の戦国武将の場合、やはり東日本の地域に鎮座されている有名どころが続く。「富士大権現」「伊豆箱根両所権現」「鹿島大明神」など。一方で、西日本の戦国武将の場合は「出雲大社」「三輪大明神」などの神名が連なる。

こうして、一通り続けたあと。
ようやく、自国の領地に近い神々を挙げることになる。

ただ、困ったことに。
これまでの歴史を振り返れば。基本的に、争いごとは近隣で起こることが多い。だって、領地が接しているからこそ、隣国へ侵犯してやれと思うもので。つまりは、領地が近いほどもめるし、もめる両者は同じ社寺へご加護を求める可能性が高いというコト。

とすれば、考えたくもないが。
結果的に、戦う者同士、つまりは敵同士が、それぞれ同じ社寺に、戦勝祈願を依頼することも。

果たして、武田信玄と上杉謙信はどうだったのか。

「信玄流」で、勝手に勝利を宣言されるか。
それとも、「謙信流」で論理的に説得されるか。

一番困ったのは。
やはり、神様なのかもしれない。

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参考文献
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『戦国武将の病が歴史を動かした』 若林利光著 PHP研究所 2017年5月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。