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Culture
2020.10.24

疑心暗鬼な武田信玄のダークサイドが怖すぎる!家臣に迫った起請文の内容とは?

この記事を書いた人

2人でテレビを見ていた時である。
ドラマだか、コントだか、すっかり番組の内容は忘れてしまったが。ある登場人物の不可解なセリフに、「あれは絶対、浮気してるな」と私が断言したことがある。

裏ではきっと、こんなからくりやあんな仕掛けがあるに違いないと、説明したところ。

きょとんとした彼が一言。
「絶対そんなん思いつかん。経験者でないと」

今度は私がきょとんとする番。
一拍おいてから、「なるほど、一理ある」
どこぞのオッサンのように、ポンと膝を打って唸ってしまった。

ちなみに、私が浮気したかどうかは問題でない(もちろんしていないが)。そういう話ではなく。一体、何が言いたいのかといえば。いくら自明の理だと思うことも、バックグラウンドが異なる相手には、それが全く通用しないというコト。

こちらは「想定内」でも、相手は思いもつかない「想定外」となるのである。

ここまで読んで、コレって戦国時代の記事だよねと、タイトルに戻られた方。合ってますよー。今、読んで頂いているのは、まごうことなき戦国時代ドンピシャの記事。最後は、冒頭部分もうまく回収して終わる予定なので、ご安心を。

さて、導入部分が長くなってしまったが。
今回の主人公は、甲斐の虎こと、勇猛な戦国武将の1人とされる「武田信玄(たけだしんげん)」。旗たなびく「風林火山」の文字を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。

そんな戦国武将が、疑心暗鬼にかられてるとしたら?
そして、家臣にその誓いを迫っていたとしたら?

今回は、そんな武田信玄のダークサイドに焦点を当てて、皆さんにご紹介していきたい。
(この記事は「武田信玄」に統一して書かれています)

※冒頭の画像は、月岡芳年「武田大膳太夫晴信入道信玄」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

信玄が家臣に迫った恐怖の起請文とは?

ここに1通の書状がある。
差出人は、「武田信豊(のぶとよ)」。あの武田信玄の実弟・「信繁(のぶしげ)」の次男である。つまり、武田信玄からすれば、甥に当たる人物だ。

日付は永禄10(1567)年8月7日。受取人は吉田信成(のぶなり)、浅利信種(あさりのぶたね)。両名は武田奉行であり、この書状は甥の信豊が信玄に宛てたものと考えられる。

落合芳畿 「太平記英勇伝」 「四」「武田大膳太夫晴信入道信玄」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

タイトルは「起請文(きしょうもん)」。
起請文とは、約束した内容を必ず守ると、神仏を仲立ちとして、相手方に誓う文書である。なんだか文字で説明すると難しく感じるのだが、じつは、現代において私たちも使う場合がある。「神に誓って~する」というアレである。性質としては、これと同様だといえるだろう。

なお、起請文の書き方については、一般的に決まったフォーマットがある。
内容は、大きく分けて2つ。誓約内容を記した「前書(まえがき)」と、誓約に反する場合は神仏の罰を受けるという呪詛的な内容の「神文(しんもん)」からなる。

まずは、この起請文の内容から。

「起請文
一、信玄様に対したてまつり、逆心・謀反などを企てません。
一、長尾輝虎(上杉謙信)を始めとして、敵方よりいかなる利益をもって誘われようとも、同意したりはいたしません。
一、家中の者が、甲斐国主にとって悪いことや、臆病な意見を言ったとしても、一切同心したりはいたしません。」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

この部分が、先ほどの「前書」にあたる箇所である。ちなみに、これが全ての約束事ではない。代表的なものを抜き出した。

注目すべきは、何度も、逆心や謀反、離反などをしないと、書き連ねられているコトである。つまりは、「裏切らない」ことを、二重三重の言葉で誓約させられている。それにしても、呆れるほどの用意周到ぶり。余りにも家臣を疑い過ぎだろう。

加えて、気になるのは、最後の条項である。
「悪いこと」や「臆病な意見」に同意しない。
ただ、よくよく考えると。この条項、大いに危険性をはらんだ内容ともいえる。例えば、国主、つまり信玄が「攻めるぞ」と判断した場合、家臣らも「攻める」の一択となる。

「しばし待って時機を見た方がよいのでは」とは、臆病な意見となるのか。

「兵力差があります、殿、それはあまりに無謀です」みたいなものも、やはり、臆病な意見に分類されそうな気がする。

つまり、国主に対しては、「殿、ラジャ! 」「即OK! 」のような意見しか言えないのではないかとも思えてくる。果たしてそれが、長い目で見れば、武田信玄のためと言えるのだろうか。さすがに、これには疑問を持たざるを得ない。

続いて、今度は「神文」の部分である。
もし、先ほどの約束事を守らなければ、「こんな罰受けますぜ」という内容である。こちらは、そのまま全文抜粋しよう。

「右の条々に違反したら、上は梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王・五道の冥官、ことに、甲州一二三大明神・国立と橋立の両大明神・御嶽権現・富士浅間大菩薩・当国の諏訪上下大明神・飯縄と戸隠。特に熊野の三所権現・伊豆、箱根、三嶋の大明神・正八幡大菩薩・天満大自在天神の御罰をこうむるでありましょう。
今生においては癩病(らいびょう)を受け、来世においては無間地獄(むげんじごく)の底に堕ちるでありましょう。」
(同上より一部抜粋)

河鍋暁斎筆「地獄極楽図」出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

マジで恐ろしすぎる。まずもって、違反したら、どんだけの神様から罰を受けなければならないのか。1人の神様だけでも、躊躇するのに。本気で、これほど多数の神様から罰せられるとなると、容易に約束を破ろうとは、思えないだろう。

加えて、この世では病気となり、来世では無限地獄とは。
よくぞここまで考えたなと、つい感心してしまうほどの罰文である。

ここに、武田信玄の本気度がみえてくる。
相手を裏切らせないための信玄の本気度が、明確に表れるのである。

信玄は、どうして信じられなくなったのか?

さて、先ほどご紹介した起請文だが。読めば読むほど、1つの疑問がわいくてる。どうして、武田信玄は、ここまで家臣を信じられなくなったのか。

そのヒントとなるのが、先ほどの「起請文の日付」と「冒頭の関係なさそうな話」である。

そもそも、武田信玄の後継者といえば「武田勝頼(かつより)」を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、この勝頼、「諏訪御両人(すわごりょうにん)」という側室との間にできた子で、しかも四男である。

じつは、信玄には正室である「三条の方」との間にできた長男がいた。嫡男の「義信(よしのぶ)」である。前途有望な若者であったが、彼は東光寺(山梨県甲府市)に幽閉されて廃嫡の身に。武田家の後継者としての地位が奪われている。

そして、ついに永禄10(1567)年10月19日に自害。
時系列からみて、この出来事が、どうやら先ほどの起請文と関係しているようだ。

それでは、さらに時代を少し遡ろう。
どうして、嫡男の「義信」は自刃へと追い込まれたのか。

全ては、武田信玄の外交方針の変化ゆえのこと。
特に、武田家と今川家の関係が変わったというかなんというか。ズバリ、信玄からみて「今川家の重要度合い」が低くなったというのが、大きな原因の1つだといえる。

右田年英「今川義元桶狭間大合戰之圖」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これは、別に武田信玄に限ったことではない。戦国時代において、近隣諸国との関係は、生き残りをかける上で非常に重要な戦略の1つ。その見極めが命取りとなることも。そして、今川家についていえば、あの「今川義元(いまがわよしもと)」がいたからこそ、両者の関係が成り立っていたのである。

しかし、永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」で今川義元は討死。結果、勢力図が大きく書き換えられてしまう。もちろん、台頭してきたのは、今川義元を破った織田信長。それ以前からも、信濃(長野県)に侵攻していた信玄の前に、上杉謙信が立ちはだかり、足踏み状態に。

武田信玄からすれば、外交方針を転換する時期だと判断。つまり、今川家との不可侵条約を破って、今度は今川領への侵攻を考えたのである。ただ、嫡男の義信からすれば、武田家はこれまでの今川家との協力関係があったからこそ。あまりにも信義に反すると思ったのだろうか。

加えて、義信の妻は、今川義元の娘であった。政略結婚で同盟をより強固なものとしていた時代。義信からすれば、妻の実家を見捨てることができなかったのかもしれない。さらに、今川方に肩入れする国衆らも関係してと、見事複雑にそれぞれの利益が絡み合った末のこと。義信は信玄に反発するのである。

月岡芳年「大日本名将鑑武田大膳太夫晴信入道信玄」「大日本名将鑑」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

こうして、武田二十四将の一人で、義信の傅役であった重臣・飯富虎昌(おぶとらまさ)らが、信玄への謀反を謀議。しかし、コトが起こる前に、なんと飯富虎昌の実弟(山県昌景)より密告がなされ、信玄に発覚。

飯富虎昌らは、永禄8(1565)年10月15日に自害。義信も同じく謀反の嫌疑をかけられて幽閉。そして、その2年後。ちょうど、起請文の日付の約2か月後となる永禄10(1567)年10月19日、義信は自害したのである。

それにしても、である。
謀反が頓挫したのだから、あそこまでの起請文を書かせなくてもと、思わないでもない。家臣団の引き締めという目的だとしても、随分ではないか。

一体、武田信玄があそこまで疑心暗鬼に陥る理由は何だったのか。

それは、「信玄自らが身に覚えのあったこと」だったからだ。

もともと、信玄が武田家の当主となったのは、父・「信虎(のぶとら)」を追放したからである。天文10(1541) 年、当時の重臣らと謀議して、父を今川義元のもとへと放逐し、強制的に隠居させている。そして、家臣団の支持を得て、信玄は武田家を率いることに。

いうなれば、謀反である。
今回の義信とほぼ同じ状況であった。

だからこそ、信玄はこれほどまでに疑心暗鬼に陥ったのだろう。通常であれば、気を引き締めるくらいのもの。ただ、自分が経験したからこそ。謀反は、信玄にとって単なる妄想ではなく、現実的な不安の種だったといえる。一般人であれば、石垣を叩いて渡るところ。信玄は、石垣を崩して再度造り直させるほどに用心深くなっていた。

自分以外は誰も信じない。そんな思いがあったのか、家臣らに血判付きの起請文の提出を迫ったのである。

「歴史は繰り返される」
この言葉が、信玄の頭には強烈に刷り込まれたに違いない。

最後に。
信じられないことだが、このような起請文は、現存するだけで82通あるという(『甲府市史』)。疑心暗鬼にかられた武田信玄は、家臣らに血判付きの起請文を出させていた。

つまり、少なくとも82人の家臣らは、この強烈な誓いの言葉を胸に、本心はどうであれ信玄に仕えていたということになる。

さて、この起請文。
一見、有益にみえるかもしれないが、そのじつ、幸か不幸か、全てを縛る。
確かに、悪い行いを防ぐことはできるかもしれないが。逆に、善い行いも、起請文に反する可能性があれば、なかなか行動を起こせない。例えば、主君のためを思って耳の痛いことも進言する「諫言(かんげん)」などはもってのほか。

こうして、気付けば、主君の周りにはイエスマンしか残らない。
ふと、有名なアンデルセン童話の1つ「裸の大様」を思い出した。
裸の大様に対して、「裸ですよ」とは誰も指摘できず。街中を裸のままで練り歩く。けれど、彼はマシな方だ。最終的に、行列を見ていた子どもが「大様は裸だ」と叫ぶのだから。

結果論かもしれないが。
そんな「真実」をいう人がいれば、武田家は滅亡しなかったのかもしれない。

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参考文献
『戦国武将の病が歴史を動かした』 若林利光著 PHP研究所 2017年5月
『戦国武将の手紙を読む』 小和田哲男著 中央公論新社 2010年11月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。