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2020.11.18

死刑よりも過酷だった!? 関ヶ原合戦西軍の副将も味わった島流しの地獄

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「島流し」と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか?

おそらく、謀反のような重罪を犯したものの、死刑は免れるかわりに小島に送られ、そこで生涯を全うする―こういった印象を持つ人が多いでしょう。

そこでの生活は、派手ではないものの、つつましやかに暮らすことは許され、牧歌的ともいえる日々であったと想像するかもしれませんね。

しかし、その実情は、多くの罪人にとって「死刑のほうがまだマシ」といえそうなほど過酷な世界であったのです。

この記事では、流刑者が多かった江戸時代を中心に、島流しの伝説を紹介したいと思います。

日本初の流刑者は皇女だった

日本の流刑の歴史は古く、正史では日本書紀に出てきます。第19代天皇の允恭(いんぎょう)帝の治世というから、西暦では5世紀の話です。

允恭帝には9人の皇子・皇女がいましたが、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相姦していることが発覚。ゆくゆくは天皇の跡継ぎとなる木梨軽皇子は不問に付されるも、軽大娘皇女は伊予(現在の愛媛県)に流されます。当時の四国は、畿内という政治の中心地からみれば、はるか僻遠の地だったのです。

時代は下って、文武天皇の大宝年間に大宝律令が制定されます。ここに、流刑に関する規定が公的に定められました。流刑先は、都からの距離に応じた近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)の三等に分けられ、罪が重いほどより遠くに流されました。流される場所は、必ずしも離島ではなく、諏訪や越前のような、本州の開拓の進んでいない地域も含まれています。

天皇も流刑に遭った

大宝律令の制定後、幾人もの人が流刑に処せられてきました。その多くは政治犯で、内乱を主導したとか、策謀を巡らしたといった咎です。中には、承久の乱を起こした後鳥羽上皇や、朝廷を風刺する詩を作ったことで流された小野篁など、皇室トップや公家クラスの人物もいれば、親鸞や日蓮のような鎌倉仏教の教祖もおり、日本史を彩る多士済々が、配流先のうら寂しい土地で涙を流したのです。

なかでも、印象的なエピソードが伝わるのは、後醍醐天皇です。元弘元(1331)年、天皇は鎌倉幕府打倒を計画しますが、側近の密告により発覚。実は、その7年前にも同様の謀議が露見した前科があり、今回ばかりは幕府もお咎めなしとするわけにはいかず、隠岐へと流されます。

鎌倉幕府に抵抗していた頃の後醍醐天皇(尾形月耕画)

絶海の孤島で後醍醐天皇は何をしていたかというと、真言密教立川流の秘法を用い、昼夜を問わず幕府の滅亡そして自身の皇位回復を願う日々を送っていました。

祈りが通じたのか、1年近く経って、脱出のチャンスが訪れます。協力者は、出雲守護の一族、富士名雅清。彼は、衛兵として後醍醐天皇と日夜顔を合わせる間柄でしたが、反幕府に傾いている世間の風を察知して、天皇を脱出させようと決心します。

寒さが身にしみる冬の明け方、雅清の手引きにより天皇は、濃霧をついて出港。「これで帰れる」と、安堵のため息をついた矢先、船は潮流に捉われて漂流。そこへ、追手の船が多数近づいてきました。

天皇は、船乗りにただの釣り船に見せかけるよう伝え、自身は船倉に積まれたイカの下に身を隠して難を逃れます。

天皇は、その日のうちに出雲に到着。そう遠くない船上山を仮御所として、幕府打倒の激を飛ばしました。反幕府勢力は勢いづき、ついに鎌倉幕府は滅びます。

先立つ承久の乱では、流罪に遭った3人の上皇・天皇は、赦免されることなく、その地で逝去しました。もし、各地に反幕府勢力がいなかったら、後醍醐天皇も隠岐から出られることはなく、そこで生涯を閉じていたことでしょう。

関ヶ原合戦の副総帥も島流しに

戦国時代という激動の世に入ると、手続きや手配に何かと手間のかかる流刑は減りました。

代わって増えたのが処刑。手っ取り早いというのもありますが、戦の日々で為政者の心も荒んでいったせいもあるでしょう。釜茹でや串刺しといった、残酷なやり方が目立つことからも、それがうかがえます。

当時の流刑者の中でも、特筆すべきは宇喜多秀家です。関ヶ原合戦で、西軍(反徳川陣営)の副総帥として出陣。敗北すると、いったんは薩摩へ落ちのびて再興をはかるも、最終的には徳川家康に投降します。

処刑を覚悟した秀家ですが、島津氏らの助命嘆願が実って流罪。江戸時代の間に2千人近くが送られることになる、八丈島への流刑者第1号となります。この時の秀家は34歳。妻子を含め、総勢10人余りが付き従います。

受刑者とはいえ身分の高さから、島では客人扱いされ、妻の実家の前田家からの物品仕送りもあり、食うや食わずではなかったようです。が、厳しい生活であることは間違いありませんでした。例えば、次のような逸話が伝わっています。

ある時、江戸から出向いた代官の谷庄兵衛が、一夜秀家を仮屋に招いてご馳走したところ、秀家はご飯を二杯おかわりして三杯目は懐紙に包み、「このようなおいしいご飯は、この島ではなかなか口にできないから、ぜひ家族にも食べさせてやりたい」といって持ち帰った。谷代官は、あまりの痛ましさに言葉もなく、早々に白米二俵を贈ったというのだ。(『流人100話』より)

こうして、耐え忍ぶ暮らしを甘受しながら50年。老いた秀家は、辞世の句を残してこの世を去るのです。秀家の子孫たちは、八丈島で配偶者をめとりながら存続し続け、明治2(1869)年に赦免された際には、20家にもなっていたそうです。

流刑の実情を記した「八丈実記略」に描かれた八丈島(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

流刑者が増えまくった江戸時代

江戸時代に入って太平の世になると、流刑者が激増します。戦乱や謀反もほぼなかったのに、こうなったのは、百万都市江戸にて今でいう刑事犯が増え、牢屋敷に収容しきれず、孤島に流す例が増えたためです。送り先は、江戸の場合は主に伊豆七島、西国の場合は五島列島や隠岐などと定められました。

どのような罪状だと流刑になるのかについては、徳川吉宗の治世下に編纂された、御定書百箇条に詳しく定められています。例えば、殺人はもちろんのこと、鉄砲をひそかに所有していたとか、賭博の常習者、不義密通、恐喝、密貿易から、放蕩までもが流罪に相当しました。

死刑に次ぐ厳しい刑罰であることから、刑期は終身(無期)です。ただ、将軍の代替わりなどを機に、恩赦となることがありました。また、最低5年は島暮らしを送り、本土に住む身寄りの人が、寛永寺や増上寺に赴いて嘆願するという条件も付されていました。

最終的に赦免されて、本土に戻れた罪人の比率は3人に2人ほど。数十年経っていたということも稀ではなく、既に死亡していたという例も少なくありません。それでも、赦免がどれほど嬉しいことかが伝わる歌があります。

嬉しさに 人にも告げん流浪(さすらい)の みゆるしありて赦免花さく (読み人知らず)

舟に乗せられた罪人を見送る縁者たち(「徳川幕府刑事図譜」より、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

食うや食わずの流刑生活

流刑が決まった者には、本土から出帆する前日までに、親類縁者からの(島に持ちこめる)差し入れが許されました。これを見届け物と呼び、玄米なら20俵まで、麦なら5俵まで、現金なら20両までなどと上限がありました。

それなりの量の米穀を持ち込むことが許されたわけですが、裏を返せば、島では食べるものにも事欠くリスクがあったことを意味します。というのも、大半の島は、耕作に適した土地が乏しく、もともと住んでいた島民すらたびたび飢えるほど。八丈島に配流された近藤啓次郎は、一椀のご飯の争いで、ほかの流刑者を殺傷。罰として、さらに過酷な御蔵島に島替えさせられています。こうしたトラブルは、枚挙にいとまがありません。

流刑者の島での生活は「渡世勝手次第」。つまり見知らぬ土地に放り込まれて、自活を求められます。といっても、食べる物がないと、餓死か犯罪かの二者択一となるわけで、島民も見捨ててはおけません。三宅島の例を挙げると、自分たちの作物を収穫したあとの畑を流刑者に開放して、残り芋などを提供する「施餓鬼(せがき)」が行われました。

では、食と並んで大事な「住」については、どうだったのでしょうか。多数派を占める庶民の流刑者だと、島であてがわれる住居は「流人(るにん)小屋」。丸太と草ぶきの粗末な掘っ立て小屋です。寝起きできる場所が最初からあるだけでも、よしとすべきかもしれません。大工・左官のおぼえがあるなら、改造してもっと住みよい所とすることもできました。

ちなみに、流刑者には、無報酬の重労働が課せられていたわけではありません。しかし、定期的に送られる潤沢な見届け物とは無縁の大多数の無頼漢は、働かなければ食い詰めるだけです。そこで、島民の畑仕事など雑役に従事して糊口をしのぎました。そして、病や老いによって労働ができなくなると、各戸を回って物乞いする運命が待っていました。

一方、本土で培ったスキルを活かし、島民の暮らしによく貢献した流刑者も少なくありません。その一人、大奥で医師をしていた奥山交竹院は、いわゆる絵島事件のとばっちりを受けて御蔵島へ配流。しかし、そこで腐らず、島で自生する薬草を探して利用法を島民に伝授。おかげで「医者いらず」の島といわれるようになりました。

厳しい生活からの脱出を試みる人も

島での生活の苦しさや望郷の念から、なんとか島を抜け出して本土に帰ろうとする流刑者もいました。これを、島抜けとか島破りと呼びます。

島民の舟を奪い、荒波を駆って、故国の土を踏もうというわけですが、言うは易く行うは難し。未遂に終われば、島内で処刑。奇跡的に本土にたどり着いても、そこで捕まれば獄門でさらし首です。島役人ら監視役にあたる人たちも処罰を受けるため、万が一にも島抜けしようという気を起こさないよう、流刑者同士の会合を禁止するなど、徹底的に予防策をとりました。それでも各島とも、何年かに1回は島抜けの試みがなされています。

島抜けを決行した1人に、中村安五郎なる人物がいます。根っからのならず者で、16歳にして人を切りつけて、故郷を追放。博徒の人斬り長兵衛の子分となり、のちに親分にのしあがって、子分3千人の頭となります。当然ながら悪行やまず、ついにお縄を頂戴され、新島に流されます。

それで懲りない安五郎は、何人かの若い流人を集めて島抜けを計画します。決行は、島をあげての凧揚げ大会の前日。祭りの日なら監視の目も緩むはずと、読んだのです。

決行の日、安五郎は仲間を、漁船を強奪する者、水先案内役の漁師を捕らえる者、鉄砲を確保する者と分け、いったん島内に散らせます。漁船と漁師の確保は首尾よくいったのですが、鉄砲を奪う際にけがを負わせた女が、血を流しながらも寺の鐘楼の鐘を叩き、島民たちは異変に気付きます。

鉄砲はあっても弾は得られなかったため、安五郎らはとにかく船に飛び乗るや、伊豆半島を目指して漕ぎ出します。

順風が味方して、船は翌朝に網代に到着。島抜けの成功を喜んだのもつかの間、漁師が逃げ出して代官所へ通報。人相書きが配られ、捜索が開始されます。

安五郎一味は、蜘蛛の子を散らすように逃亡するも、一人また一人と捕まり処刑。安五郎だけが故郷の甲州へと逃げ落ちます。彼はそこで悪漢たちの頭目として名をとどろかせ、外部の者を寄せ付けません。しかし、用心棒として潜入していた代官の手先、犬上軍次の密告がもとで、身柄を拘束され、その日のうちに極刑に処せられます。潜入捜査を仕掛けた代官は、実は新島での逃走劇の際に殺された島役人の甥でした。手柄をあげた犬上軍次はといえば、安五郎の子分「黒駒の勝蔵」の報復を受け、惨殺されてしまいます。

島抜けした安五郎が生きていたのは10年ほどですが、これは稀に見る成功例といえるでしょう。

流刑者の悲しき色恋

幕府は、独身の流刑者が、島で妻帯することを公式に禁じていました。しかし、妻を持つことで荒くれ者の心が穏やかになるなどメリットもあって、島内ではそのことが黙認されていました。

流刑者の内縁の妻は、水汲み女と呼ばれていました。島の娘には、受刑者とはいえ、本土出身でまだ若い男が魅力的に見えるのか、こうしたカップルは意外に多かったのです。なかには、3人の水汲み女を囲っていた豪傑もいたり、愛ゆえ赦免されても本土に帰らない者もいたり、流刑地での色恋にまつわる話は尽きません。

とはいえ、ハッピーエンドだけでなく悲恋も多かったようです。ここで、その1例を紹介しましょう。

不倫を疑われて、妻のある男と口論の末、その男を刺した罪で新島に送られた「孫」という若者がいました。

島では、到着したばかりの流刑者は、数日の間は寺預けにすることになっていました。寺の僧は、ここに来る前の長い牢生活と病魔で衰弱しきった若者を見て、身の上話を語らせ、いたく同情しました。

ちょうど、クサヤの製造を営む家の一人娘が、墓参に居合わせたので、クサヤの干場の番でもやらせたらどうかと持ち掛けます。娘はお藤といい、年の頃は16で、その男に興味があったのか、自分の父を説得して雇われることになります。

孫は、クサヤに加工するアジを砂浜に並べ、野犬やカモメに取られないよう見張るという簡単な仕事をするうち健康を回復し、精悍な男っぷりがよみがえり始めました。お藤は、本名もわからない男に思慕の念を抱いたようですが、恋仲にまでは発展しません。

しかし、他の雇人たちはやっかみもあって、あらぬ噂を立てます。やがて、その噂が島一番のクサヤ製造業者の主であり、名主でもある父親の耳に入ります。彼は、孫を辞めさせます。

話は、もちろんこれで終わりません。事情を知ったお藤は、孫の住む流人小屋に駆けつけ、恋の炎が燃え上がります。

事態を見過ごせないと考えた島の役人らは、孫を別の島に送ることに決めます。それを知った孫は、首をくくって死を選びました。

冷たくなった孫の遺骸が運び出されると、お藤はその許へ駆け寄り号泣します。それから、身をひるがえして崖へ向かって走り出し、飛び下りました。

孫は、島役人のはからいで、お藤が身を投げた崖から水葬にふせられたそうです。

* * *

このように、多くの罪人にとって流刑地での暮らしは、死刑のほうがまだ良かったと思えるほど過酷なものでした。そして、埋もれさせておくには惜しい島流しにまつわるエピソードは、まだまだ数限りなくあります。興味を持たれた方は、以下の図書を一読されることをおすすめします。

参考・引用図書
江戸の流刑』(小石房子/平凡社)
遠島―島流し』(大隈三好/雄山閣)
日本流人島史―その多様性と刑罰の時代的特性』(重松 一義 /不二出版)
流罪の日本史』(渡邊大門/筑摩書房)
『流人100話』(小石房子/立風書房)

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書いた人

フリーライター。北国に生まれるも、日本の古くからの文化への関心が抑えきれず、2019年に京都へ移転。趣味は絶景名所探訪と美術館・博物館めぐり。仕事の合間に、おうちにいながら神社仏閣の散策ができるYouTube動画を制作・配信中→Mystical Places in Japan