疫病退散のご利益がある角大師
下のお札の写真を見て、「どこかで見たことがあるなあ」という方は、多いのではないでしょうか。
近畿地方の家でよく見かける、このお札。絵柄にある、2本の角を生やした妖魔(?)が気味悪いという印象を持たれたかもしれません。
これは、角大師(つのだいし)といって、疫病をはじめ種々の災難を除くご利益のあるお札として、古くから伝わっているものです。
ごく最近になって、疫病退散に関係して、江戸時代後期生まれの妖怪アマビエが注目されていますが、角大師はそれ以上に歴史があるものです。
物の怪としか思えない角大師ですが、その正体は実は人間。それも、比叡山延暦寺の中興の祖として名高い、良源(りょうげん)というお坊さんです。
天台宗のトップたる天台座主を務め、元三大師(がんざんだいし)として民衆に親しまれてきたこの人物が、なぜに不気味な姿として崇敬されてきたのでしょうか?
今回の記事では、その謎を探ります。
不思議な伝承に満ちた生い立ち
良源が生まれたのは、延喜12(912)年。今は玉泉寺(滋賀県長浜市三川町)があるあたりで産声をあげたと伝えられています。父は木津氏、母は物部氏の末裔ですが、貴顕の人ではなかったようです。
良源の幼名は観音丸。これは、子宝に恵まれなかった母親が、寺の観音様に祈願したところ、太陽の光が懐に入る夢を見て懐妊したことにちなんでいます。
観音丸は幼い頃から、他の子たちとは違う雰囲気をまとっていました。ある日、修業時代の最澄が訪れたこともある梵釈寺で遊んでいると、寺の僧に「おまえは一般人とは異なったすぐれた人相をしている。なぜ遊びばかりして学業につかないのか。早く仏道を習学せよ」と告げられます。ここから話が進み、12歳で比叡山延暦寺に入門します。
一を聞いて十を知る利発さで、早くから僧房で耳目を集める存在となり、17歳で得度。つまり、正式な僧侶になり、良源という僧名を賜ります。
良源が青年期を過ぎる頃、世間では藤原純友の乱に平将門の乱と、中央政府を動揺させる事件が続発しました。武力鎮圧にほとほと手を焼き、今後も同種の反乱を予期した皇室・貴族は、将門調伏に効験を見せた天台密教の祈祷の威力に注目。比叡山の存在感が、大きくなります。
その流れで、政権幹部の藤原師輔(ふじわらのもろすけ)は、良源に接近。比叡山の中ではまだ寂れていた横川(よかわ)を修行拠点としていた良源も、横川の整備を支援してくれる師輔に恩を感じていました。師輔は、村上天皇の后である自分の娘が妊娠している時に、皇子が生まれてくるよう祈祷を依頼。その際に良源は、胎内の女子を男子に変えるという秘法を用いたそうです。はたして、生まれたのは男子で、のちに冷泉天皇となります。
このように良源は、生まれ持った能力と自助努力、そして政治的有力者のサポートによって、僧界で出世を遂げ、歴代よりも若い55歳にして天台座主に就任。程なく起きた比叡山の大火からの復興、二十六カ条起請と呼ばれる布告による綱紀粛正など、総本山に山積する課題の解決に手腕を発揮しました。
天台座主になって20年後、惜しまれつつ入滅。名実ともに比叡山中興の祖として歴史に名をとどめるとともに、その遺徳を称えた後世の人々によって、さまざまな伝承が生み出されていきます。
民衆を救うために鬼へと変貌
そうした伝承の中でも、第一に挙げられるのが、冒頭で触れた角大師です。
それは、良源の最晩年73歳の時の話。夜更けに瞑想の境地に浸っていると、何か不穏な空気が漂ってきます。ほの暗い灯りの陰に怪しい者がいるので、良源は「何者ぞ」と尋ねます。すると、こんな答えが返ってきました。
「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しています。あなたもまた、これに罹らなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
おりしも、巷では疫病が蔓延していました。良源のもとを訪れたのは、それを広めている疫病神だったのです。
逃れえぬ因縁と考えた良源は、左の小指を指し出し、「これに付いてみよ」と言います。すると、たちまち高熱を発して、尋常でない苦痛をおぼえたため、得意の秘法の一つを行い、身体の中に入った疫病神を弾き出しました。疫病神は逃げ出し、良源はすぐに体調を回復します。
良源は弟子を集め、鏡を持ってくるように言い、二つ三つ指示を出しました。それから、鏡の前に座り、瞑想に入ります。そうするうち、鏡に映る姿が変貌していき、頭から角を生やして、骨の浮き出た鬼のようになりました。他の弟子たちが恐ろしさにひれ伏すなか、気丈で知られた明普阿闍梨が、鏡の妖魔を描き取りました。
目を見開いた良源は、絵を見て満足気にうなずき、すぐに版木におこし、お札を摺るよう伝えます。摺り上げられたお札に加持を施した良源は、ふもとの家という家に配布し、戸口に貼ってもらうよう命じました。畿内に疫病が猛威をふるうなか、お札を貼っている家の人だけは難を免れたそうです。
以来、民衆はこれを角大師と称え、こぞってそのお札を貼るようになり、今に至るというわけです。お札は、天台宗の主要寺院で授与されるだけでなく、Tシャツやトートバックなどにプリントされて通販で売られるなど、広く親しまれています。ちなみに、延暦寺の2021年のカレンダーの表紙には、「疫病退散の祈り」をこめて角大師のイラストが描かれています。
イケメン僧に群がる女官の前でも鬼に
角大師とはまったく別のエピソードですが、良源には鬼大師という呼び名もありました。
若い時分の良源は、かなりの美男子で、宮中に招かれた際は女官たちから色目を使われることがよくあったそうです。
ある年の春のこと、御所に参内した良源は、庭園の桜の美しさに惹かれて、しばらく散策していました。
不意に、女官らが花見の酒宴をしているところに出くわし、無理やりという感じで引っ張りこまれます。しばらくの間、座興に調子を合わせていましたが、「今日は、ほんとうによいお花見をさせてもらいました。そのお礼に、私も一つ、一番得意とする百面相をお目にかけます」と、みなに合図があるまで顔を伏せるように言いました。
しばらくして、「はい」と呼び声があったので、女官らが顔を上げると、そこには恐ろしい二本角の鬼の姿が。腰を抜かした女官らは、恐怖のあまりまた顔を伏せます。音一つしないので、おそるおそる顔を上げると、さっきまで鬼がいた場所には誰もいず、良源の姿も消えていたそうです。
これと似た話に、宮中の女性の目から逃れるため、鬼の面をかぶって参内したというのがあります。その面は、良源が創建した京都の蘆山寺(ろざんじ)に保管され、2月3日の節分の日に一般公開されます。
豪雨の被害も食い止める
元三大師のお札には、豆大師というものもあります。
江戸時代の寛永年間(1624~1645)のこと、大坂の百姓が、豊作祈願のため比叡山の横川を訪れました。
熱心に祈っていると、来るときには小雨だった雨足が土砂降りになり、自分の水田が気になって仕方ありません。
田植えを終えたばかりなのに、洪水ですべてが流されてしまうのではないかと、寺の僧に苦衷を訴えたところ―
「田作りの守護をして下さるお大師さまにお参りに来ていて、それは何をいうて御座るぞ、いまこそ一途にお大師さまにお祈りする時じゃないか」
百姓は気を取り直して、懸命に祈りました。
とはいうものの、やはり心配は収まらず、大雨の中を急ぎ足で自分の村を目指します。近づくほどに洪水のもたらした被害が大きくなり、半ば諦めかけたところで村にたどり着きました。
案の定、村の田畑は、全滅といっていい被害を受けていました。ところが、くだんの百姓の田だけは、被災していないのに驚きます。村人に質すと―
「三十人余りの子供上がりの若者が、手に手に桶や鍬を持って来てサ、畔をつくるやら、水を汲み出すやら、いやもうその働きの素早いこと、手際のよいこと、おぬしの田だけが苗の顔が見えていらア」
その若者たちがやってきたのは、まさに百姓が、横川で僧に諭されて、一心不乱に祈っていた時刻と一致していました。
百姓が再び横川に参詣すると、前回会った僧に事の次第を話しました。すると、僧は次のように答えを返したそうです。
「お大師さまは観音さまの御化身じゃから、三十三身になぞらえて、三十三人の童子となってお救い下されたのじゃと思います」
この出来事が元になって、33体もの小さい良源の姿絵を描いたお札を、豆大師(魔を滅するということで魔滅大師)と呼んで貼られるようになったのです。
良源にまつわる不思議な話は、まだまだあるのですが、これぐらいにしておきましょう。さて、元三大師良源のお札に限りませんが、何気なく貼られているお札には、意外と深い歴史・伝承が息づいているものが少なくありません。気になるお札があったら、調べてみるのも一興かと思います。
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アマビエ様お願い。江戸の人々は浮世絵で未知の病がおさまるのを祈っていた
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参考・引用図書
『元三大師』(山田恵諦/第一書房)
『良源』(平林盛得/吉川弘文館)
『疫神病除の護符に描かれた元三大師良源』(福井智英、吉田慈敬/サンライズ出版)
アイキャッチ:国立国会図書館