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Culture
2021.02.03

関ヶ原の戦いにも同行!徳川家康に愛された36歳年下の「お梶の方」。その思いとは?

この記事を書いた人

異性の好みは変化する。
…のか?

中途半端な問いかけから始まってしまった今回の記事。一体、何の話かというと、年を取るにつれて、異性の好みに変化が生じるのかというコト。

胸に手を当て、我が身を振り返ってみると。
確かに、そうかも。
いや、よくよく考えれば。「変化する」というよりは、より一層自分の好みが「はっきりする」という感じだろうか。

なんせ、若い頃は、容姿や雰囲気など、とかく大雑把なところに惑わされがち(私はそうでした…)。ただ、年を取るにつれ、見えない部分もじんわりと見えるようになる。若い頃には全くもって意味不明だった言葉も、その行間が読めるようになったりして。人間の渋みさえも、それはそれで悪くない。そんなふうに思えてしまう。

年を重ね、ある程度なんでも受け止められるようになった。これを「耐性」と呼ぶのか「柔軟性」と呼ぶのかはさておき。その一方で、これまでの恋愛遍歴を通して「自分の好み」を自覚する。ぼんやりとしか見えなかった輪郭も、よりくっきり明確に。ゆえに「好み」自体に変化は生じてはいない。そんな気もする。

それなのに、である。
ここまで書いた前提を覆すかのように、晩年になって、女性の好みが思いっきり逆行する方も。

後継ぎ確保を重視して女性を選んでいたとされる「神君・徳川家康」のコトである。なんなら、豊臣秀吉が乗り移ったかの如くの晩年の勢いはスゴイの一言。若くて清楚な少女に目がない御仁へと変貌。そんな家康の寵愛を受けた女性こそが、今回の主役。

その名も「お梶(かじ)の方(お勝の方、英勝院)」。
出世魚のように、名前が変わっていくこの女性。なんと、2人の年齢は36歳差だとか。

家康の寵愛を受けた理由とは、一体、何だったのか。
早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、豊斎「家康公 市川団十郎」「お梶局 中村芝翫」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

モノの本質を見極めることができた女性

「お梶の方」は、徳川家康の側室である。
先ほど36歳差とご紹介したが、なんと、2人の出会いは彼女が13歳の頃。現在でいえば、中学…年生と50歳前の…と書きたいが、生々しいので、これくらいにしておこう。

名は「お八」。
あの江戸城を築いた太田資長(すけなが、太田道灌のこと)の子孫、太田康資(やすすけ)の娘である(養女など諸説あり)。

出会ったのは、天正18(1590)年。ちょうど豊臣秀吉の「小田原攻め」で、北条父子が降伏した年である。こののち、秀吉は、北条氏の旧領を徳川家康に与える。こうして、家康は駿府(静岡県)など馴染みのある領地から関東へ。本拠を江戸として、再出発するのであった。

関東へ移った家康は、まず、名家の者らを江戸に集めた。じつは、集められた名家の中の1つが「太田家」。一説には、太田家の当主が京都にいたため、その代わりに妹の「お八」が江戸城へと召し出されたという。これが運命というのだろうか。お八は、そのまま家康の元へ(諸説あり)。

この年齢差もあって、家康は、どうやら娘のように可愛がったとか。とはいえ、結果的には家康の側室となってしまうのだが。ちなみに、彼女がどれほどの寵愛を受けたかというと。あの天下分け目の戦いといわれた「関ヶ原の戦い」の陣中にも馬に乗った彼女の姿があったとか。一般的には戦に女性を伴わないのだが、家康は彼女を陣中へと召し連れていたようだ。

関ヶ原古戦場跡(撮影:大村健太)

ジンクスなどものともせず。西軍を撃破し、見事「関ヶ原の戦い」で勝利を収めた徳川家康。その後、天下人として江戸幕府の礎を築くのだが。じつは、この戦勝記念にと、家康は「お梶の方」の名を「お勝の方(於勝)」に改めさせたという。戦に勝ったから「お勝の方」なのか。それでは、あまりにも単純というか。単なる親父ギャグだろうと突っ込みたくもなる。

さらに、これだけでは飽き足らず。
家康は、その後の「大坂の陣」の際にも「お勝の方」を召し連れている。性懲りもなく、冬の陣、夏の陣の2回である。こうなれば、「お勝の方」は、家康にとってのゲン担ぎの可能性も。そこまで側に置きたいとは、なんとも素敵な女性だったのだろう。

そんな彼女の人柄を語る上で外せないのが、あの問答。
「故老諸談(ころうしょだん)」に記されている家康との対話である。

ある日のこと。
家康が、大久保忠世や本多正信、鳥居元忠ら家臣たちと語っていたときである。突然、家康は、家臣らに「この世で一番美味しいものは何か」と訊いたという。主君の問いかけに、その場にいた家臣らは答えを捻りだす。

なんとも安易に想像できる場面である。さぞかし、盛り上がったであろう。アレがうまい、コレがうまい。いつの世もこういう話題は事欠かない。その場にいたお梶の方も笑って話を聞いていたという。

盛り上がる家康と家臣たち。そんな中で、家康は、お梶の方にも同じ質問をした。これもまた、突然の出来事。しかし、彼女は焦らずに冷静に答える。お梶の方が考える一番美味しいものはというと。

「塩」
その理由は、至ってシンプル。塩がなければ味を調えることができないからだ。

きっと、家臣らは豪勢な食材や料理、珍味などを答えたに違いない。そんな中での「塩」という答え。その素朴さが、かえってインパクトを与えたはずだ。明確な理由に、うーんと納得せざるを得ない家臣たち。ただ、これだけで、家康から一目置かれたのかというと、まだ早い。じつに、この問答には、さらなる続きがあるのだ。

家康は、お梶の方の答えを聞いて、さらに質問を投げかける。
「では、一番まずいものは何か」

さてさて。
ここで、お梶の方が返した答えは。
やはり「塩」

塩を入れ過ぎれば、食べることができない。それが理由なのだとか。少々、こじつけめいたところも否めないが。この答えを聞いた家康は感心すると共に、「男であれば大将として活躍できるのに」と嘆いたとも。

家康からそんな言葉を引き出したお梶の方であった。

家康の元へ再び…その理由とは?

打てば響く、そんなやり取りができるのも、寵愛を受ける理由なのかもしれない。ただ、実際に、彼女の魅力はそれだけなのか。

このお梶の方、じつに、不思議な女性なのである。
というのも、一度、家康はお梶の方を手放している。手放すとは、文字通り、自分の元から離れさせたのだ。だったら、彼女はどこへ向かったというのだ。

残念ながら、そう簡単に自由を手に入れられるワケもなく。
どうやら、家康の命で、別の男の元へと嫁いだという。

相手は、家康のお気に入りの近侍である「松平正綱(まつだいらまさつな)」。
会計の統括を担う勘定頭などで活躍、家康の死の間際には、遺言を聞いたほど信頼の厚い家臣である。

それにしても、現代では考えられにくいコトなのだが。
当時は、主君が召し上げた女性を、家臣に下げ渡すのも珍しくない。家臣からすれば、ある意味、主君と同じ女性を娶るだなんてと。名誉なコトだったらしい。ただ、一度、松平正綱に嫁がせたものの、すぐにお梶の方は、再び家康の元へ。何故だか戻されたというのである。

月岡芳年 「大日本名将鑑」「德川家康公」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

この理由については、2つの説がある。
1つは、家康との間に子ができなかったため、家臣に下げ渡されたというもの。ただ、その後、お梶の方の妊娠が発覚し、再び家康の元へ戻されたというのである。

もう1つは、全く逆。
36歳という年齢差を考えてのこと。年老いた我が身を思えば、この先、若くして誰とも添い遂げられない彼女が不憫極まりない。家康はそんな結論に至ったという。そのため、お気に入りの近侍に、お梶の方を嫁がせたのである。結局、目線が父親じゃんという感じ。

ただ、何を思ったのか。家康の思いを感じ取ったのか、お梶の方は夫となった松平正綱に一切身を許さなかったという。実際のところ、家康との間に愛情があったのか、なかったのか。彼女の状況を知った家康は、それならと、再びお梶の方を自分の元へ戻したというのである。

どちらの説が正しいのか。
もちろん、当時の2人の事情など全く分かるはずもないのだが。
それにしても、実用的一辺倒で女性を選ぶ家康が、若い少女を寵愛する。そうであるならば、私は断然、後者の理由であると期待したい。

ちなみに、その後のお梶の方だが。
慶長12(1607)年、家康との間に女の子が生まれる。ちょうど、彼女が30歳のときのこと。「市姫(いちひめ)」という娘で可愛がられたのだが、不幸にも4歳(諸説あり)という若さで天に召されてしまう。

その後は子に恵まれず。代わりに、家康の次男である結城秀康の子や、家康の11男の「頼房(よりふさ)」らを養育。無事に育て上げ、頼房はのちに水戸徳川家の祖となるほど。

家康の死後は、出家して「英勝院」という名に。
三代将軍・家光の庇護を受けながら余生を過ごしたという。

寛永19(1642)年に死去。享年65。
こうして、次々と名を変えた「お梶の方」は、「英勝院」としてこの世を去ったのである。

最後に。
このまま徳川家康の純愛話で締めくくろうかとも思ったが。

「お梶の方」、いや、「お勝の方」をご紹介したのであれば、もう1人触れなければならない人物がいる。

家康の寵愛を受けたのは、もちろん、彼女1人ではない。
冒頭で、女性の好みが変化するという話題を出したが。家康の場合は、明らかに好みの「変化」だろう。年老いてなお、さらに若い少女に心を奪われていく。

「佐渡殿、雁殿、お六殿」
これは、家康の寵愛の対象を称したものである。
「佐渡殿」とは、腹心の家臣であった「本多正信」のこと、「雁殿」は家康が大好きだった「鷹狩り」のこと。そして、問題の「お六殿」である。

お六殿は、女性だ。それも、非常に美しかったという。
そして、一体、この女性は誰なのかというと。

なんと、「お勝の方」の部屋子をしていた女性だというではないか。どうやら、家康が手を付けて、側室にしたというのである。家康68歳、お六の方13歳。

自分の部屋子が側室に。
そんな彼女を見て、お梶の方は、一体、何を思ったのだろう。
若き日の自分を重ね合わせたのだろうか。

歴史は繰り返す。
それは、事件だけではない。
男女の間でも起こりうること。
そう、改めて思い知ったのかもしれない。

参考文献
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月
『徳川将軍家の真実』 山下昌也著 学研プラス 2012年5月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

担当スタッフのおすすめ

もともと家康のタイプは「未亡人で出産経験者」。阿茶局がドストライクでした。それが晩年になると、36歳も年下の少女を寵愛するなんて。異性のタイプってこんなにも変わるものでしょうか……?