ダムの建設などによって、故郷の村や町が湖の底に沈んでしまった……。現在も各地でそのような話を耳にすることがあります。
しかし、かつて湖の底だったところに、いま多くの人々が生活している――。そんな話はなかなか耳にしたことがないのではないでしょうか。
しかもそれがこの日本に、それも、とある県の中心部ほぼ全域だったとしたら……?
そんなミステリーを実際にこの目で確かめてきました。
盆地にカモメが飛ぶ謎
現存する日本最古の和歌集『万葉集』に、このような歌があります。
※「万葉集って何?」という方は、こちらの記事を読んでみてください。
お嬢さん名前教えてよ~♪奈良時代の和歌集『万葉集』は天皇のナンパから始まるって知ってた!?
大倭(やまと)には 群山(むやらま)あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ。
■怜(うま)し国ぞ。あきづしま大倭の国は。※ ■=りっしんべんに可。表記は山本健吉『万葉秀歌鑑賞』(講談社、1987年)による。
大意はこのようになります。
大倭の国にはいろいろの山があるが、その中でも立派な、天の香具山よ。その山上に登り立って、民家や田畑のある平地地方を見はらしているとき、国原には竈の煙があちこちに立ち登っている。池にはカモメがあちこちに飛び交っている。立派な国よ、このあきづき島大倭の国は。
(同書より)
この歌を詠んだのは、第34代舒明天皇。推古天皇亡き後、蘇我氏によって擁立されたとされる、西暦629年から641年まで在位した天皇です。
時代は飛鳥時代。当時の日本の都は、現在の奈良県明日香村にあった「飛鳥岡本宮」に置かれていました。
この歌、どこか不思議に感じませんか?
舒明天皇は、天香久山に登って国を見晴らしているんです。
なのに舒明天皇の目には「海原」が映っている。そして、「カモメ」も飛んでいる……。
奈良県は、島国・日本の中では数少ない「海に面しない県」の一つ。現在の奈良県内で、カモメを見かけることはまずありません(7年ほど住んでいましたが一度も見たことはありませんでした)。
舒明天皇が立っている大和三山の一つ「天香具山」は大和盆地の南部、現在の奈良県橿原市にあり、南には吉野へと続く山々がそびえています。
こんな場所に、なぜ「カモメ」が?
それにはこんな推測が成り立つのです。
奈良県はかつて「湖」だった!
奈良県はご存知の通り、県の中心部が奈良盆地(大和盆地)と重なります。
奈良盆地は東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートル。かなりざっくりとですが、ひし形をしています。
このひし形の左側を構成するのは信貴山などから成る生駒山地と、葛城山などから成る金剛山地、右側を構成するのは笠置山地です。ひし形全体が標高500~1000m前後の山々に囲まれているのが、奈良盆地なのです。
また、ひし形のてっぺんに向かって、京都へとつながる木津川が流れています。
また、ひし形の中心部から放射線状に佐保川や竜田川、布留川、初瀬川、葛城川などが流れており、これらの河川が「大和川水系」を形成しています。
この大和川は、ひし形の左の角・生駒山地と金剛山地の切れ目にある「亀の瀬渓谷」を経て大阪平野を横切り、大阪湾へと注ぎ込みます。
このような奈良盆地を、国立研究開発法人産業技術総合研究所の「地質図Navi」で見てみます。
地質ごとに色分けして見てみると、奈良盆地のほとんどは薄いグレー色、完新世(約10000年前〜現在)の間の「堆積岩」によって形成されていることが分かります。
この地質は、生駒・金剛山地をはさんだ西側、大阪湾に面した大阪平野と同じ。
つまり、大阪平野を構成する海や川の堆積物と同じ土壌の成分が、奈良盆地にも確認できるのです。
洪水シミュレーションで検証
さて、もし奈良盆地が水に沈んでいたとしたら、その湖はどのような形だったのでしょうか。
オープンソースデータ「OpenStreetMap」を使った洪水シミュレーションを使って、大量の水を流してみたいと思います(奈良県の人、すみません)。
大阪平野が水没するまで海面を上昇させてみると、このようになります。
これは……まさに「湖」!
考古学や地質学などにおいて、いわゆる「古代奈良湖」「大和湖」と呼ばれる湖は、おおよそこのようなものだったのではないかと推測されています。
日本沈没級に海面が上昇した場合のシミュレーションではありますが、大阪平野が水没すれば高い山に囲まれているはずの奈良盆地もともに水没してしまうことが分かります。
遺跡が示す「奈良湖」の痕跡
このシミュレーション図に、奈良県内の旧石器時代〜縄文時代の遺跡の場所を重ねてみます。
すると、この大きな湖の湖畔に沿うようにして、遺跡が残っていることがわかります。
この後、弥生時代に入ると遺跡はかつて奈良湖の水面下にあった場所にも、多数築かれるようになります。
つまり、奈良湖は縄文時代の終わり頃まで存在していたものの、その後徐々に水が引いて干上がっていき、弥生時代には湖が小さくなったり沼として残ったりして、そこで農耕が行われるようになった、と考えられるのです。
奈良盆地についての実証的なフィールドワークを続けていた研究者・千田正美氏によれば、奈良盆地はもともとひし形のてっぺん付近が京都方面に向かって開けており、大阪湾と一体を成した海湾だったものの、「奈良山丘陵」の堆積物がひし形のてっぺんをふさぎはじめ、洪積世(200万~1万年前)の終わり頃には海と切り離され、奈良湖となったそうです(千田正美『奈良盆地の景観と変遷』柳原書店、1978年)。
その後、亀の瀬付近で断層による陥没ができ、水が大阪平野に向かって排水されはじめ、徐々に水が干上がっていったと考えられており、千田氏は「大和湖の水面は、六〇〇〇年ほどまえには七〇メートルの辺であったが、その後、だんだん低下して、二五〇〇年以前には、五〇メートル辺まで低下するに至った」(同書)と推測しています。
「日本最古の道」は湖畔を通っていた?
ところで、奈良にはさまざまな「日本最古」があります。
日本最古の木造建築、日本最古の仏像、日本最古の神社、日本最古の市場などなど。「日本最古」の数では「日本最多」なのではないでしょうか。
そんな中でも、実はこんな「日本最古」があります。
「現存する日本最古の道」
それは「山の辺の道」と呼ばれる古道のこと。『日本書紀』崇神天皇の条にも登場し、現存する中で最も古い道(官道)とされています。
現在も、三輪から奈良県天理市の石上神宮までの道が残っており、最近では、JR桜井駅から天理駅までの約16キロがハイキングコースになっています。古代の面影を残し、多くのハイカーがこぞって歩く、隠れた人気コース。
当時の道をはっきりと跡づけることはできませんが、現存する山の辺の道のルートを地図で示すとおおよそこのようになります。
南の海柘榴市(つばいち)から三輪神社、景行・崇神天皇陵を経て、現在の天理市を抜け、おそらくは奈良へとつながっていたと考えられています。
現在、山の辺の道の北端は石上神宮までとなっており、ハイキングコースの出発点にもなっています。この石上神宮から少しこの道を歩いてみました。
スタートは、この石上神宮。
国宝の拝殿、重要文化財の楼門のすぐ脇に……
……スタート地点があります。
早速、すごくいい雰囲気。
途中、住宅街も抜けていきますが、ハイキングコースになるだけあって、けっこう起伏に富んでいます。
柿畑を抜けて、すぐにたどり着くのが、廃仏毀釈で打ち壊された幻の寺、内山永久寺跡。松尾芭蕉の句碑も残っています。
このまま南へ向かうと、崇神天皇陵(行灯山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)などの古墳群を抜けて、約10キロほどで奈良県桜井市の三輪神社に抜けます。
南へ向かう道中、道の左手は常に険しい山。標高500メートルを超える山々が連なるその稜線と並行するようにして、山の辺の道は南北に通じているのです。
龍王山から見えた景色は
山の辺の道は途中、龍王山のふもとを抜けていきます。
この龍王山、かつてはこの地域を拠点としていた十市(といち)一族が山城を築いたことでも知られています。
龍王山の頂上付近から、真西を向くと、亀の瀬渓谷。晴れた日には、その向こう側の大阪湾、さらには明石海峡大橋も望むことができます。
さらにそこから少し南を向くと、
「大和三山」の畝傍山、耳成山、天香久山も望むことができます。
よく言われるように、本当に地面にポコっと生えたような、なんだかかわいい山々。
この眺めからは、大和盆地が非常に平坦で、少ない水量だったとしても、広い面積が水に浸かったであろうことがよく分かります。
もしかすると、こんな感じだったのかも。
舒明天皇が見た景色は
大和盆地を南北に通る道が、なぜ歩きやすいフラットな場所を通らず、わざわざ起伏の激しい山裾を通っているのか。
その理由も「奈良湖」の存在で説明が付きます。山の辺の道は「奈良湖」の湖畔を通る道であり、この道が敷かれた当時、道の西側にはまだ水があった(あるいは沼だった)と考えられるからです。
山の辺の道の沿道に、崇神天皇陵、景行天皇陵をはじめとする陵墓や古墳、遺跡、古い社寺が多く存在していることも、奈良湖の存在を裏付けます。古代の人々は、沼地やゆるくなっている場所を避けて、陵墓や古墳などを築いたのでしょう。
奈良盆地が水で覆われていた、あるいは沼地や湿地帯だったとすれば、生駒山地と金剛山地の間から飛んできたカモメが舒明天皇の目に留まったとしても不思議はありません。
登り立ち 国見をすれば
天香久山に立ってそう詠った時、舒明天皇の視界の先にはキラキラと光る水面が、まだ大和盆地のあちこちに広がっていた――。
豊富な栄養を含んだ水がもたらした、良質な土壌を人々は耕し、作物を植え、暮らしを立てている。
家々の竈から立ち上る煙を見れば、豊かな生活の様子が想像できる。
そんな人々の姿を思い浮かべていた時、ふと見上げると、真っ白なカモメが高い空を音もなく飛んでいる。
亀の瀬の谷を、わざわざこちらまで飛んできたか。
ああ、この地はなんと豊かなのだ…。
――静かに大和の国を見晴らす舒明天皇のそんな姿を想像するのは、都合の良い解釈でしょうか。
(「鴎」が指しているのは「水鳥」であるとの説もありますが、ここはあえてロマン重視で解釈しました)
諸説あるとは言え、確かに言えることは、大和の地には謎を秘めた、それでいて古代の人々の暮らしが垣間見える不思議なストーリーがまだまだたくさん眠っている、ということでしょう。
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