日本文化の
入り口マガジン
01月16日(土)
愛する気持ちが強いほどその人の顔を覚えておくのは難しい(阿仏)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
01月14日(木)

愛する気持ちが強いほどその人の顔を覚えておくのは難しい(阿仏)

読み物
Culture
2021.01.10

一族44名が死罪となった「野村騒動」は冤罪か。ヒーローから転落した代官事件の顛末

この記事を書いた人

勧善懲悪時代劇の悪役として、よく登場するのが“お代官さま”だ。悪徳商人などと結託して私腹を肥やし、「●●屋、おぬしも悪よのう。ふふふ」とほくそ笑む。そして最後には正義の味方に粛清されるのがお決まりのパターンだ。

今回の主人公・野村増右衛門は伊勢国桑名藩の代官だった。下級武士の身分から藩政改革を担う郡代に取り立てられ、めざましい活躍をしたが、最期は公金横領などの嫌疑をかけられ、一族44人もろともに死罪となった。これを「野村騒動」という。まるで、時代劇のようなお家騒動だ。本来ならばめでたし、めでたしだが、どうにも釈然としない。事件そのものが胡散臭いし、冤罪のにおいがプンプンする。それに本人だけでなくなぜ親族縁者まで殺されなければならないのか。次々と疑問が湧いて出る。

そこで増右衛門の位牌を安置する桑名市養泉寺の住職・下間(しもづま)賢了さん、そして野村騒動を研究している三重県環境生活部文化振興課歴史公文書班の藤谷彰さんのお力を借りながら、310年前の疑獄事件を追ってみた。

“陰謀・処刑・絶戸(ぜっこ)” 歴史の闇に消えた野村増右衛門って?

始まりはたまたま「アマゾン」で見つけた1冊の本だった。近藤重太郎さんという人が書かれた『北勢町川原郷土史』(三重県郷土資料刊行会発行)である。私事で恐縮だが、母の実家は三重県いなべ市川原にある「養泉寺」だ。存命中に母から「実家の山門はどこかの屋敷の門を移築したものだ」と聞いており、それがどこだったのかを知りたかった。幸い、同書には養泉寺の項にページが割かれ、その中の『養泉寺伽藍及建物建立年代』に

一、山門 一坪半野村増右ヱ門家のもの天明年間 

とあった。また、同書『養泉寺雑記』には

山門 由緒の当人野村増右衛門は、島田の土豪、元禄年間桑名藩大奉行役として才腕を振い、員弁郡下にも梅土井大長稲部の諸農地の開拓、鎌田川・宇賀川等の治水治山に誉高かったが、晩年或陰謀が、露見し桑名藩の忌諱(きい)に触れ、宝永六年寅五月二九日、一族四六名の処刑により絶戸した邸宅の門であり、権兵衛氏井水開鑿(かいさく)の功により桑名藩より賜った。※『北勢町川原郷土史』には宝永六年とあるが、正しくは宝永七年

とある。

権兵衛氏は上切権兵衛という名前で川原大井水を6年がかりで開鑿。水田開発に尽力し、地域の発展に貢献した人であったらしい。褒美が本人ではなく寺に与えられたのは妙だが、同地は三重県の最北端。岐阜県と境を接する山奥で、桑名市内から車で1時間ほどかかるこの地まで桑名藩領だったんだということに驚く。それと共に、陰謀が露見して絶戸したという野村増右衛門に興味が湧いた。絶戸とは家系が絶えてしまった家のことをいう。

いなべ市の養泉寺の山門 野村増右衛門屋敷にあった山門を移築した。しかし、その後何度か修復されており、柱や屋根は当時のものではない。欄間(らんま)や枡組は移築した頃のものであるという。

在地代官から行政のトップへとスピード出世

増右衛門屋敷のあった島田地区は桑名市内を東西に流れるいなべ川の南部。四日市に近く、田園風景が広がるのどかな場所だ。増右衛門は故郷であるここ島田の地で静かに眠っており、増右衛門の墓に続く坂道の下にはその名を記した石碑が建てられている。かつては周辺に野村屋敷跡と思われる土手や生け垣、石垣の一部や庭園なども残っていたらしいが、今では跡形もない。

野村増右衛門は正保4(1646)年、島田の在地代官であった野村仁右衛門の子どもとして誕生した。幼名は兵助、元服して仁左衛門(「桑名市史」には仁右衛門とある)、後に増右衛門と改称する。在地代官とは庄屋あがりの代官のことで、増右衛門の家はもともと島田村の庄屋であった可能性が高いという。

父の仁右衛門は貞享2(1685)年頃には地方(じかた)30石(こく)3人扶持(ぶち)、増右衛門本人の給料は8石2人扶持で手代(代官の下役で下級役人)だったとされる。1人扶持を石高に換算すると1日5合。増右衛門の場合2人扶持なので、2人×(5合×365日)=3650合(約3石6斗)。8石と合わせて約11石6斗。1石は1両に換算されるため(あくまで江戸時代後期の加賀藩の事例だが、1石は10万~30万円程度ではないかと言われている)、増右衛門の年収は約110万円~約330万円。仮に家族6人(両親・自分・妻・子ども2人)とすると、食べていくだけで精いっぱいだったと思う。

さて、本来なら父の跡を継いで島田の在地代官として終わるはずだった増右衛門だが、運命は彼を思わぬ方向へと導いた。元禄9(1696)年には20人扶持、同年暮れには新知180石で桑名城下赤須賀中町に屋敷を与えられた。翌年には300石に加増され、三之丸北大手角に屋敷が移り、元禄13(1700)年には54歳で物頭(ものがしら)となる。物頭とは足軽など下級武士を束ねる中級武士をいう。これによって増右衛門はさらに50石加増され、5年間その任にあたった。さらに5年後には750石の禄高を得て郡代となった。郡代は地方行政官のトップであり、この時点で増右衛門は桑名藩の行政を牛耳るポストに着いたのだ。同時に増右衛門の息子や兄弟も諸役に登用されている。

桑名藩のピンチに藩政改革を断行 見事V字回復を果たした増右衛門

下級武士に過ぎなかった増右衛門がなぜ藩政改革の担い手となって驚異的なスピード出世を遂げたのか、残念ながら今のところ「これだ!」という根拠はない。そこで背景として考えられる当時の桑名藩の状況をみてみよう。

元禄14(1701)年2月6日、桑名城下は大火に見舞われる。桑名一色町から出火した炎はたちまちのうちに城下を焼き尽くし、桑名城の本丸、二之丸、三之丸も灰塵に帰した。4月にも城下で火災が起こり、8月には大洪水と災害が次々に発生。このため、財政がひっ迫した桑名藩は幕府から1万両を借金した。宝永5(1709)年には駿府城修復御手伝普請(すんぷじょうしゅうふくおてつだいぶしん)のために、豪商・山田良順(彦左衛門)から借金している。御手伝普請とは江戸幕府が諸大名に命じて手伝わせた土木工事で、資材の調達から人足の手配まですべてが大名持ちだったため、その出費はたいへんなものであった。

すなわち桑名藩は城下再建の必要性に迫られ、幕府にお手伝い普請を押し付けられ、借金地獄に苦しんでいた。これらの諸問題を解決できるだけの人材が、当時の藩上層部にはいなかったのではないか。増右衛門は身分こそ低かったがとても有能で、それが藩主・松平定重の知るところとなり、大抜擢につながったのではないだろうか。

藤谷さんは増右衛門について次のように語る。
「野村騒動については、後年、吟味や仕置きに関する藩の記録はすべて焼却されており、なぜ増右衛門が処刑されるに至ったのか、また処刑されたのは正確には何人だったのかなど詳しいことがよくわかっていません。そこで文化年間に桑名藩士(白河藩士)駒井乗頓が執筆した『鶯宿雑記(おうしゅくざっき)』の中の『野村一件聞書写』や野村騒動を元に書かれたフィクション『野邑奸曲録(のむらかんきょくろく)』、『桑名市史』などを比較・検討しながら、増右衛門の実態に迫っています」

増右衛門が金策に長けていたことは、『山田家文書(桑名藩の豪商・山田家の文書)』から確認できる。駿府城修復御手伝普請の借金を返済するために藩士の給料を半分にし、1万5千俵ずつの返済を予定していた。また、元禄期(1688~1704年)から宝永期(1704~1711年)にかけて普請奉行として屋敷や土蔵などを普請し、宝永4(1708)年の風雨災害への対応なども彼の業績の一つとして挙げることができると、藤谷さんはいう。

野村騒動について語る三重県環境生活部文化振興課歴史公文書班の藤谷彰さん

藩に対する増右衛門の貢献度については「桑名市史」にも「産業の開発、民利の増進に寄与した功績は枚挙に遑(いとま)がない。」と書かれている。以下は同書に掲げる増右衛門の功績の一部である。

・わずか3年で元禄大火後の城郭再建、市街の復興事業を達成
・幕命による相模国酒勾川の砂浚大工事
・領内町屋川下流沿岸の新田開拓
・宇賀川改修による農地の開発
・員弁郡(いなべぐん 現・いなべ市)阿下喜(あげき)の鎌田川大工事
・神社仏閣の造営修理
・山林の造成etc

スーパー公務員だった増右衛門。その全盛期にはさまざまな人々が増右衛門の力量や権勢を頼みとして屋敷を訪れたため、野村家の門前には市が立つほどの賑わいだったという。

増右衛門失脚 一族44人を含む関係者など約370人を処刑、処罰

しかし、そんな増右衛門の栄光にもかげりが見えてきた。宝永7(1710)年3月、山田良順の世話で藩金2万両を調達するため京・大坂へ上京。その留守中に家老から増右衛門に対する訴状が出され、帰国後の5月25日、突如彼は公金盗用や豪奢な私生活、窮乏に瀕する百姓からの搾取など大小さまざまな嫌疑をかけられ、逮捕された。その後、前勘定奉行の木村惣内から18カ条の尋問を受けるが、3カ条について申し開きができなかった。その3カ条とは、

・丹生川村の下に新田を取り立て、森脇村と名付けたこと
・他領に縁付いた娘を人返ししたこと
    ・津留めのこと
          ―藤谷 彰『野村増右衛門像の再考』(「ふびと」第70号)―

               
であった。「津留め」とは領内の港における物資の移出入を禁じることである。残念ながらこれら3カ条については『鶯宿雑記(おうしゅくざっき)』の中の『野村一件聞書写』に記されているのみで、どうしてこれらが罪になるのかといった解釈や詳細については不明だという。

「鶯宿雑記」に収録されている「野村一件聞書写」  国立国会図書館デジタルコレクション

とにかく増右衛門は3カ条についての申し開きができなかったために死罪を言い渡され、わずか4日後の5月29日、家老久松家において足軽目付の松尾平太夫によって打ち首にされた。享年65であった。長男で150石取りの御船奉行であった野村兵橘、次男の政次郎も打ち首となった。処刑時の様子を「桑名市史」は次のように伝えている。

一書に増右衛門は肥え太り、髪をもみ上げ、堂々たる偉丈夫で首の座につく。久松式部が罪状を読み上げる。隼人願いて許あって首を打つ。増右衛門斬首に当り、刀に水を注ぐや、からからと打ち笑う。隼人は最後の慈悲として差許すから西面せよと言えば、「本来東西無し何処(いずこ)か南北有らん」とて肯かず、従容(しょうよう)として打たれたと云う。又別書には足軽松尾平太夫首を打つ、最期甚だ未練なりとぞあり。真否何れとも判じがたい。※「 」の部分は書き下し文にした。

増右衛門と二人の息子以外の処刑者については諸説あって不明な部分もあるが、市史には「刑死者44人」とあり、そのうち13人は童子(1歳、2歳の幼児も含む)で80歳前後の増右衛門老母もいたと書かれている。処刑にも打ち首だけでなく「差殺す」あるいは「乞食討」「乞食打首」といった記述が見られる。「乞食討」、「乞食打首」とはいったいどういう処刑なのか不明だが、通常の処刑とは異なる人間性を無視した苛酷で残忍なものではなかったかと想像する。重罪人だったので墓をつくることも供養することも許されず、悲惨な状況だったようだ。増右衛門の息がかかった370余人(一説には570人ともいう)も処罰を受け、桑名藩から増右衛門の影は一掃された。

とにかく訴えから処刑までの経緯が不透明で、十分な詮議もなされず、あれよあれよという間に処刑されてしまった感がある。まさに“死人に口なし”だ。当時、桑名藩における重罪人の処刑は12月末に行うことになっており、5月の仕置きは異例中の異例だった。そのため落首に「竹は八月、木は切ろ九月、野村増右衛門は五月斬り」と詠まれたほどである。

増右衛門が死罪になった理由

死罪になった理由は金子才覚の途中で不埒(ふらち)があり、詮議の上でも不埒があり、近年豪奢な生活をしていたことで私欲ありとみなされたことであった。不埒とは、“不届きな”とか“けしからぬ”といった意味だが、具体的にどんな行為が不届きとみなされたのかは不明のままだ。『野邑奸曲録』には増右衛門の豪奢な暮らしぶりや金銀の取り込みが記され、現存する史料の内容とも一致する部分があることから、こうした実態があった可能性を推測させると藤谷さんはいう。

しかしそれが事実だったとしても、死罪に値するほどの罪だったのかどうか……しかも、一族すべてをこの世から消し去らなければならないほどの……

果たして増右衛門はシロだったのか、クロだったのか。「権力を手にしたことで、増右衛門は人が変わったのではないでしょうか」と、藤谷さんは推理する。権力の階段を駆け上がった増右衛門のもとには、砂糖に群がる蟻のようにいろいろな人々が押し寄せた。彼らと交わるうちに増長し、白が次第に黒く染まっていった可能性はある。それが人々の反感を買い、また増右衛門の栄達を快く思わない人々の嫉妬心をあおったとは考えられないだろうか。「ちょっとできるからってなにさ、あの子」的な憎しみや妬みがどす黒く渦巻き、彼の出自の低さがその闇を一層濃くしたような気がする。

野村騒動で藩主は国替え 処刑されて113年後に赦免されはしたけれど…… 

野村騒動は幕府の知るところとなり、藩主・定重(久松松平家3代)は越後高田藩に移封された。事実上の左遷である。藤谷さんの調査によれば、この時領内の百姓から「藩主の国替えをやめさせてほしい」との嘆願書が出されている。藩の財政を立て直すため、増右衛門は百姓に重税を課していた。彼を処刑し、税の負担を軽減してくれた藩主・定重は恩人だというわけだ。

騒動から113年経った文政6(1823)年、松平定永(久松松平家10代)が再び桑名藩に戻ると同時に野村騒動で罪を得た増右衛門や一族関係者に対して赦免の沙汰があり、現桑名市東方(ひがしかた)には供養塔が建てられた。明治42(1909)年に供養塔は同市大正寺に移転。その時、供養塔の下から処刑された増右衛門一族44名の法号実名が列記された銅板が発見された。増右衛門の墓は文化6(1809)年に同市最勝寺の境内に建てられたが、その後故郷の島田に移された。

桑名市の養泉寺に残る増右衛門とその一族の位牌

桑名市矢田の養泉寺には増右衛門の百回忌法要を依頼した野村織部という人の手紙が残り、増右衛門と一族のものとされる位牌が安置されている。なんでも増右衛門の死後いろいろと怪異が起こり、位牌が動くので気味が悪いと誰かが寺に預けたらしい。同寺は伊勢長島の一向一揆で先頭に立って織田信長と戦った下間頼旦(しもづま らいたん)ゆかりの寺だが、増右衛門と関係はないという。奇しくも母の実家と同じ寺号だ。

野村織部の手紙 養泉寺蔵

増右衛門のものとされる位牌の法名は「善本院釋隨念道意士」。供養塔に記された増右衛門の法名と一致する。俗名は書かれていない。左右に置かれた黒塗の位牌にはそれとわからないように一族の法名が刻まれている。悲しみが塗り込められた野村騒動の希少な遺品である。

増右衛門と一族の位牌 養泉寺蔵

養泉寺には野村騒動の顛末が連載された新聞と思われるものが保存されている。それによると、増右衛門はまさに私腹を肥やす悪代官。藩による苛酷な処置は将来の罪根を絶つためのものであったと書かれている。下間さんのおとうさんが大切に保管しておられたものだそうで、昭和初期のものではないかと思う。

いつか野村騒動の真実を明らかに

野村騒動についての一連の流れを見ていると、増右衛門にまったく非がなかったとは言い切れないものの、直接証拠はおろか状況証拠も不十分だ。おそらく罪状認否もしないまま、増右衛門は一族と共に抹殺された。仮に冤罪でないとするなら、久松松平家が再び桑名の地に戻って来た際、100年以上昔の事件の首謀者とその一族に対して赦免などするだろうか。事件の関連書類の焼却が、無実の者たちを処刑した後ろめたさを暗示している気がする。

赦免されても処刑された人間は戻ってこないし、社会的な復権も難しい。一旦貼られたレッテルはなかなかはがせないものだ。かりにグレーな部分があったとしても、増右衛門が桑名藩に対して残した功績が消えるわけではない。おそらく彼がいなければ、藩の復興は難しかったことだろう。この先、さらに研究が進み、野村騒動の真実が明らかにされることを期待している。

〔参考文献〕
近藤重太郎「北勢町川原郷土史」
「桑名市史」本編
「桑名市史」補編
藤谷彰「野村増右衛門像の再考」(「ふびと」第70号)
藤谷彰「藩内の反発で失脚か―桑名藩郡代・野村増右衛門の取り立て」(三重県HP内 歴史の情報蔵)
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=337 
西羽晃「桑名歴史散歩」

〔取材・撮影協力〕
三重県環境生活部文化振興課歴史公文書班:藤谷彰さん
桑名市 養泉寺

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO