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2021.01.16

セクシーな首筋にグッとくるのは江戸時代から?思わず見惚れる「うなじ魅せ」はこうして生まれた!

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男性に「女性の色気を感じる部分は?」と聞けば必ず出てくるのが「うなじ」。髪の毛をまとめている時やアップにした時にふと見える女性のうなじにドキッとするのでしょうか? 「着物姿の女性のうなじが色っぽい」と思う方も多いようです。

ところで、「女性のうなじ=色っぽい」という公式ができたのは、江戸時代になって、女性が髪を結うようになってから。アップヘアにして、着物の衣紋(えもん/後ろ衿の部分)を抜いて着るようになったことで、注目されるようになったのが「うなじ」なのです!
この記事では、女性のヘアスタイルの変化によって「うなじ」が注目されるようになった経緯と、江戸時代後期に出版されたおしゃれ女子のガイドブック『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』から「お江戸流・魅せるうなじの作り方」を紹介します。

垂髪から結髪へ。日本女性のヘアスタイルの歴史をおさらい

女性のヘアスタイルが大きく変化したのが江戸時代です。
それまでのヘアスタイルは、長い髪を結い上げずに後ろに垂らしたまま、あるいは単に髪を後ろで束ねた「垂髪(すいはつ)」「下げ髪」と呼ばれるヘアスタイルが主流でした。

平安時代は「髪が長い=美人」だった!?

平安時代の女性のヘアスタイルと言えば、『源氏物語絵巻』などにみられる十二単に髪を後ろに長く垂らした姿を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか?

一陽斎豊国「源氏香の図 匂宮」 国立国会図書館デジタルコレクション

清少納言も『枕草子』の「うらやましげなるもの(第153段)」の一つとして、

髪いと長く麗しく、下りばなどめでたき人
(髪がとても長くて美しく、垂れ具合がステキな人)

をあげています。

当時の美人の条件は、長く艶やかな黒髪であること。しかも、「髪は長ければ長いほど美しい」とされていたのです!
平安時代後期の歴史物語『大鏡』には、平安時代中期、村上天皇の女御(にょうご)だった藤原芳子(ふじわらの ほうし/よしこ)の逸話が記されています。

村上の御時の宜曜殿(せんようでん)の女御、かたちおかしげにうつくしうおはしけり。内へまいり給とて、御車にたてまつりたまひければ、わが御身はのり給けれど、御ぐしのすそは母屋の柱のもとにぞおはしける。

(美女として有名だった宜曜殿の女御(=藤原芳子)は、宮中へ参ろうとして牛車の中に乗ったのに、彼女の髪の毛の先は屋敷の柱に巻きついていました。)

『大鏡』の逸話の真偽は不明ですが、美女だったと言われる藤原芳子の髪が長かったことは間違いないようです。

髪の長さは身分の象徴。NG行為は?

平安時代の「艶やかな長い黒髪」を美人とする美意識は、あくまでも、当時、支配階級にあった貴族たちのもの。貴族たちの世話をする女性や働かなくてはいけない女性は、髪の毛が長いと動きにくく、労働に支障をきたしてしまうので、背中くらいの長さの髪にしていました。貴族の女性は、髪の長さが自分の身丈よりも長いのが普通だったそうなので、現在ではロングヘアとされる背中までの長さの髪は「短い」のです。

つまり、「髪の毛が長い」ということは「美しいから」というだけではなく、「労働をしなくてもよい」「身の回りのことを自分でしなくてもよい」という社会的な地位の高さを表すものでもありました。そして、身分の高さの象徴でもある長い黒髪は、短くすることはもちろん、結ぶことも、耳にかけることも許されなかったのです!

長い髪は、やっぱり邪魔……。

安土・桃山時代になると、上流階級の女性は依然として垂髪が主流でしたが、一般の女子たちは、仕事や日常生活に邪魔にならないよう、髪を束ねるようになりました。背で髪を丸めて「玉結び」にしたり、「玉結び」にした髪を布で包んだりする女子もいたとか。

宮中に使える女性は「大垂髪(おすべらかし)」という、長く伸ばした髪を五か所で結ぶヘアスタイルが正式なものとされていました。髪が短い場合は、「髢(かもじ)」という添え髪で補いました。

古屋光教写『男女官装束指掌図』より 国立国会図書館デジタルコレクション
宮中に仕える女官の装束(後ろ姿)を図示したものです。

垂髪が正式な髪形だった時代でも、プライベートでは、「笄(こうがい)」と呼ばれる棒のようなものに髪を巻きつけて、アップスタイルにしていたとか。笄をはずせば、すぐに垂髪になるので、仕事中は髪をといて垂髪にします。
支配層が公家から武家へと変わることにより、次第に垂髪から結髪が公的な場においても認められるようになりました。

江戸時代の女子は、アップスタイルのヘアアレンジを楽しむ!

江戸時代に入ると、髪を後頭部で束ねるようになります。「髻(もとどり)」と呼ばれる束ねた部分が、日本髪の基本の部分となります。
日本髪は、前髪、髷(まげ)、鬢(びん)、髱(たぼ)の4つのパートに大きく分けられます。髪の毛を結った部分と頭頂部が髷、顔の両サイドが鬢、襟足あたりの部分が髱。時代によって流行のヘアスタイルが変わりますが、その際に大きく変化するのが鬢と髱です。

江戸時代初期は、髱を長く伸ばすヘアスタイルが流行します。
江戸時代中期になって髱が小さくなると、今度は鬢を横に広げた「灯籠鬢(とうろうびん)」のようなヘアスタイルや髷を大きく盛ったヘアスタイルが流行します。しかし、大きな盛りヘアは邪魔だったのか、鬢も髷も自然な大きさのヘアスタイルに落ち着きます。

髪の毛を結う時は、髪の毛を一つにまとめるのではなく、髪の毛をいくつかの部分に分けて結い上げることで、多様なヘアスタイルを作り上げていきます。その際は、鬢付油(びんづけあぶら)を使ったりしながら、後れ毛がないようにしっかり結い上げるのだとか。現在は、髪の毛をきっちりまとめず、わざとラフに崩して後れ毛を出すヘアアレンジが人気ですが、このようなヘアアレンジは江戸時代はNGだったようですね……。

「うなじ見せ」の誕生

髪の結い方は、働きやすく便利なように、そして、よりおしゃれで美しく見えるように工夫されました。江戸時代は、女性の髪の結い方のバリエーションが飛躍的に増加し、数百種類ものヘアアレンジが生まれた時代でもあったのです!

そして、髪を結うことによって注目されるようになったのが、首の後ろの部分、「うなじ」なのです。日本髪を結うようになって、着物を「抜き衿」をして着付け、うなじを見せるようになりました。

現在でも、女性の着物は衣紋を抜いて、うなじを見せるのが基本ですが、それまでは男性のように衣紋を抜かずに着ていたようです。

着物の衿を抜くようになったのは、髪の毛で衿が汚れるから?

延宝時代(1673~1681年)から髱が少しずつ大きくなり、元禄時代(1688~1704年)には、カモメの尾羽のように髱が後ろに大きく突き出した「鴎髱(かもめたぼ)」と呼ばれるヘアスタイルが流行します。
明和から安永時代(1764~1781年)には、「春信風島田」と呼ばれる、鈴木春信が錦絵に描いた女性のヘアスタイルが流行しました。このヘアスタイルの後ろに突き出した髱は「鶺鴒髱(せきれいたぼ)」と呼ばれ、衿につかないように「髱挿し(びんさし)」を入れて、上につり上げました。

鈴木春信「柳屋見世」 シカゴ美術館

画像は、当時の会えるアイドル、本柳屋お藤を描いたもの。柳屋は浅草寺境内内にあった楊枝屋で、左側の店番をしている少女がお藤です。
お藤は、当時人気の女形・瀬川菊之丞が流行らせた路考茶と呼ばれる渋い色の着物に、ヘアスタイルは鶺鴒髱。流行の最先端のファッションを着こなす評判の美少女を錦絵を見て、真似する少女も多かったのではないかと思われます。

髪を結う時には、ヘアスタイルを保ち、髪の艶を良くするために鬢付油(びんづけあぶら)が用いられました。髱を大きくして垂れ下がると、どうしても着物の後ろの衿が鬢付油で汚れてしまいがち。着物の衿に油がつくと、洗うのに苦労したとか。
そこで、衿に髪油がつかないように、「髱挿し」道具を使いました。「髱挿し」とは、針金や鯨のひげで形を作って綿で包んで紙を張り、黒漆を塗ったもので、髱を持ちあげるために使いました。
また、「首巻き」という布を後ろ衿にかけることで、衿が汚れないように予防する方法もありました。

「抜き衿」にすると、優雅に見える?

「抜き衿」をするようになったのは、長く伸びた髱が衿に当らないようにしたという説がありますが、江戸時代の身分の高い女性は、着物の裾を引きずって着ていたため、自然と衿が後ろに引っぱられ、衿が抜けた着こなしになりました。 それを真似て、少しでも優雅に見せるために「抜き衿」が好まれるようになったという説もあります。

うなじにも白粉を塗ることを忘れない!

江戸時代後期になって髱がなくなると、うなじの美しさが注目されるようになりました。
江戸時代の美人の条件の一つが「色が白い」こと。江戸時代の女子は、白粉は顔だけではなく、首や胸元までしっかり塗りました。もちろん、うなじにも白粉を塗ります。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 柳はし」 国立国会図書館デジタルコレクション

柳橋にあった料理屋・万八で働く女中を描いていますが、ちょうどメイク中の様子。白粉は水で溶き、指や刷毛を使って顔だけではなく、首、衿、胸元にも塗ります。しかし、後ろの衿足はどうしても塗り残しが出てしますので、合わせ鏡で入念に点検をしないといけないのです。

うなじへの白粉の塗り方は、「二本足」あるいは「三本足」と呼ばれます。
江戸末期の喜田川守貞(きたがわ もりさだ)による風俗誌的随筆『守貞漫稿(もりさだまんこう)』では、次のように記しています。

頸(くび)を際立(きわだて)ぬるには二本足、三本足と云(いう)形あり。江戸にては二本を一本足と云、三本を二本足と云。京坂は淡粧の人も際立ぬる。

「二本足」「三本足」とは、衿足の数のこと。ただし、上方(京坂)と江戸では数え方が違い、「上方では衿足を数えるが、江戸では衿足の間の数を数える」と述べています。一般的には、上方でいうところの二本足が多く、三本足は少ないそうです。
衿足の形の好みに違いはあるものの、衿足を美しく見せようと、「うなじメイク」をしていたことがわかります。

喜田川季荘編(写)『守貞謾稿 巻11』より 国立国会図書館デジタルコレクション

もっと「魅せるうなじ」になる!『都風俗化粧伝』のおしゃれテク紹介

江戸時代後期、文化10(1813)年に出版されたおしゃれ女子のガイドブックが『都風俗化粧伝』です。この本の中では、首筋を美しく魅せるメイク術が紹介されています。もちろん、「うなじ魅せ」にもこだわっていたことがわかります。

鈴木春信「五常 仁」 シカゴ美術館
少女がうなじを剃ってもらっている様子を描いています。

首筋への白粉の塗り方テク

『都風俗化粧伝』では、「化粧之部」で白粉の解き方から塗り方まで、かなり細かくテクニックを紹介しており、江戸の女子たちがメイクの中でも、特に白粉にこだわっていたことがわかります。首まわりへの白粉の塗り方は、「首筋へ白粉をする伝」の中で紹介されています。

首筋へ白粉するは、面(かお)よりは化粧を少し濃くぬるべし。まず、下へ油をぬり、その上へ白粉をぬるなり、かくのごとくする時は白粉よくのびて、久しくはげることなく奇麗に見ゆるあり。かたき伽羅(きゃら)の油を少しばかり手の掌(ひら)にのせ、指にて幾たびもねれば、手のあたたまりにてやわらかになるなり。これをいたって少しばかり首筋へつけ、手の掌にてむらなきよう、よくよくすりこむべし。

首に白粉を塗る時は、下地に油を塗って、顔よりも濃く塗るとキレイに見える。下地の油は手のひらで温めて、むらのないようにすり込むこと。……このように、細かく白粉の塗り方テクを紹介していますが、白粉を塗るだけでもすごく時間がかかりそうですね……。

喜多川歌麿「合わせ鏡のおひさ」 シカゴ美術館

首筋を美しく見せて、スタイルアップ!

『都風俗化粧伝』ではメイクの方法だけではなく、「容儀(かたちづくり)之部」でスタイルアップのテクニックも紹介しています。
例えば、「首筋が短い人」は「後ろ姿が醜い」ので、髪を高く結い、衿は後ろに抜いて首筋を長く見せるだけではなく、首筋後ろの髪の生え際を少し剃り上げ、白粉を塗るテクの紹介も。逆に、「首筋が長すぎる人」は、衿を抜きすぎないこと。

『都風俗化粧伝』には、他にも、メイクの基本から、様々なタイプ別のメイクテクやスタイルアップ術などが紹介されています。中には、「?」というテクもあったりするのですが、おしゃれ女子のバイブルとしてベストセラーになったのも納得の充実した内容です。

「色っぽいうなじにグッとくる!」のは、昔も今も、変わらない?

女性誌のヘアアレンジ特集記事には、「あざと色っぽい“うなじ魅せ”」「男子がグッとくるうなじ見せヘアアレンジ」などのような記事タイトルが並んでいて、「女性のうなじ=色っぽい」という公式は、現在でも成り立つようです。
そう言えば、ここ数年、洋服は、シャツやアウターを「抜き衿」にする着こなしが、「こなれた、おしゃれな着こなし」として人気ですね。最初から、着ると衿が抜けるようなデザインの服もあります。
寒い季節は、どうしても首を隠してしまいがちですが、「うなじ魅せ」の人気は、これからも続くのでしょうか?

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。

この記事に合いの手する人

大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。