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Culture
2021.03.03

「カフェー=エロ」の時代があった?!純喫茶の歴史を深堀りしたら「不純なカフェー」に辿り着いた

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「カフェー」と書かれた看板を見て、「オッ、ここはどんなエロいサービスをしてくれるのかな?」と、男性が鼻の下を伸ばして入店する……。かつて日本にそんな時代があったのを知っていますか?

え? カフェーって喫茶店、ですよね? コーヒーとか飲むお店、じゃないのかな。

純喫茶めぐりが趣味の私は、いつものように純喫茶でぼんやりしていた時、「そういえば、純喫茶の『純』って何だろう?」と疑問を感じました。

たしかに! 純喫茶ってなんだろう。

気になって調べていくうちに見えてきたのは、かつての日本に存在した「不純なカフェー」の存在。
「純喫茶」が日本に生まれた経緯を、喫茶店の歴史とともに紹介します。

不純なカフェー……。気になる!

文化人のサロンが、なぜ「不純」な店に?!

1910年代以降、当時の繁華街だった東京・銀座を中心に喫茶店文化が発展し始めました。

当初のカフェーは、文化人たちが交流するサロンのような場所でしたが、1930(昭和5)年頃から、女給(食事や飲物をサーブするウェイトレス)が客の隣に座り接待をする、色っぽいサービスをウリにする店が急増します。

客の元へ酒を運ぶ女給。当時はバーやレストランのような業態の店も「カフェー」と呼ばれていた。 国立国会図書館デジタルコレクションより

風紀の乱れが問題となり、1933(昭和8)年に「特殊飲食店営業取締規則」が発令されます。
女性が接待をする店は「特殊飲食店」として規制下に置かれ、そうでない店を「純喫茶」と呼ぶようになりました。

以上が「純喫茶」が生まれた、おおまかな経緯です。

だから、「純」喫茶だったんですね!

文化人のサロンが発祥だったはずなのに、どうして「不純」な店が増えてしまったのでしょうか?
日本の喫茶店の歴史を紹介しつつ、その経緯を読み解いていきます。

日本最初の喫茶店「可否茶館」は経営不振で4年で閉店

まずは、日本に喫茶店が生まれた頃の話を。

通説として「日本最初の喫茶店」とされているのは、1888(明治21)年に東京・上野に誕生した「可否茶館」です。(読み方は「カヒサカン」「カヒチャカン」「コーヒーサカン」など諸説あり)

「通説として」と書いたのは、可否茶館以前にもコーヒーを提供した店が存在したこと、また設備の内容から喫茶店と呼べるのか? と疑問を持つ研究者もいることからです。(※この記事の論点は「日本最初の喫茶店はどこか」ではないので、これ以上は掘り下げず話を先に進めます)

可否茶館の跡地に立つ記念碑

創業者は、鄭永慶(ていえいけい)氏(日本人)。海外生活が長かった鄭永慶氏は、「知識を共通に学べる新しい場(コーヒーハウス)」を提供したいという思いから、可否茶館を作りました。

国内外の書籍や新聞を取り揃え、トランプにクリケット、将棋や碁、化粧室にシャワー室、ビリヤード場もあったそう。喫茶店というより、社交場やサロンのほうがイメージに近いかもしれません。

現在の喫茶店のイメージとは違いますが、行ってみたいです!

可否茶館の構想「知識を学べる場」は当時の日本人には理解されず、コーヒーを注文せず施設で遊ぶだけの客も多かったようです。経営が立ち行かなくなり、可否茶館は1892(明治25)年に閉店します。

可否茶館の跡地には、記念碑があります。ご興味ある方は見に行ってみてはいかがでしょうか。

コンビニの前にひっそりと

銀座に「カフェー・プランタン」がオープン。喫茶店文化が花開く

可否茶館以降、当時有数の繁華街だった銀座を中心に、喫茶店やカフェー、それらに近しい業態の店が次々に誕生しました。

今も昔も、わくわくする銀ブラ(銀座のブラブラ散歩)ですね!

ビヤホールやミルクホールと呼ばれた飲食店、台湾茶を出した「ウーロン」。
現在も銀座に店舗を構える資生堂パーラーの前身「ソーダファウンテン」が誕生したのも、この時期です(資生堂は元々薬局を営んでおり、アメリカのドラッグストアにならい、店内にソーダ水やアイスクリームを提供するスペース=ソーダファウンテンを設置)。

1911(明治44)年、日本で初めて「カフェー」を店名につけた店「カフェー・プランタン」が銀座に誕生。この頃から、日本の喫茶店文化は大きく発展します。

カフェー・プランタンの創業者は、松山省三氏と平岡権八郎氏。2人とも画家です。

松山氏は留学経験のある知人から、「パリには画家や文学者など、芸術家たちが集い交遊する『カフェー』がある」と聞いたのをきっかけに、「日本にもカフェーを作ろう!」と考え、カフェー・プランタンを創業しました。

当時パリのカフェー(カフェ・コンセール)は、ショーを見ながら酒を飲み、食事をする場所だったそう。カフェー・プランタンもパリのカフェーにならい、洋酒を数多く取り揃えていました。

「カフェ・コンセール」 エドガー・ドガ

お酒も飲めるカフェー! 芸術家たちの本音が、もしかしたら聞けたのかもしれませんね。

創業者の2人は経営に不慣れだったため、店の経営を安定させる目的で「維持会」という会員組織を設立。2階を会員専用フロアとして、維持会メンバーからは会費を徴収していました。

維持会には画家(黒田清輝)や文学者(森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎)、マスコミ関係者(松崎天民)、俳優(市川猿之助)、政治家(鳩山一郎)など、そうそうたる文化人が参加していました。(※カッコ内は会員の一例。順不同、敬称略)

と、とんでもないメンバーだ!

維持会は会費が徴収できなかったり、会員同士の不仲があったりとうまく機能しなかったため、半年ほどで廃止に。維持会廃止後も、元会員を中心に、多くの文化人が常連客としてカフェー・プランタンに訪れました。

当時を代表する芸術家が集うカフェー・プランタンは、文学少年・少女にとっては、憧れの場所だったそうです。

大人も憧れてしまう……♡

「プランタン」は、フランス語で「春」。暖かな春の光を浴び、膨らんだつぼみがほどけ花開くさまがイメージされるような、美しい名を冠したこの店の登場を機に、日本の喫茶店文化は大きく花開きます。

当時の銀座3大カフェーのひとつ「カフェー・パウリスタ」は今も営業中

カフェー・プランタンとほぼ同時期にオープンしたのは、美人女給が多く有名だった「カフェー・ライオン」と、「ブラジル移民の父」と呼ばれる水野龍氏が創業した「カフェー・パウリスタ」です。この3店舗は、当時の銀座を代表するカフェーでした。

カフェー・パウリスタは、一時閉店・移転を経て現在も銀座で営業を続けている、現存する日本最古の喫茶店です。

ブラジル移民政策に尽力した水野氏は、ブラジル・サンパウロ州政府よりコーヒー豆の無償提供を受け、カフェー・パウリスタをオープン。本格的なブラジルコーヒーを安価で提供し大きな話題を呼びました。

今でも行けるんですね!

カフェーパウリスタはフランス・パリの「カフェー・プロコープ」(パリに現存する最古のカフェ)をモデルにしていたため、明治、大正時代に女性の給仕は存在せず、全員が男性(特に若い男性が多い)でした。

カフェー・パウリスタには、芥川龍之介や森鴎外、森茉莉、菊池寛など、たくさんの有名人が足繁く通っていたそう。

こちらもすごい顔ぶれ!

現在は歴史ある喫茶店として有名なカフェー・パウリスタも、当時は話題の最先端スポット。カフェー・パウリスタに通った歴史に名を残す文化人たちは、もしかしたら新しいもの好きでミーハーな人々だったのかもしれません。そう思うと、オシャレなカフェに通う現代の若者とそう変わらなかったのかな、とも感じます。

現在店舗で使われているカップやスプーンは、昔のデザインを復元しているそう。店頭には開店時の新聞広告なども展示してあります。当時の文化人に思いを馳せつつ、コーヒーを飲む……なんてのも乙なもの。ご興味のある方はぜひ行ってみてください。

おしゃれ! つかの間のタイムトリップですね!

この頃の女給はまだ接待サービスは行っていませんでしたが、女給目当てに店に足を運ぶ客は多かったようです。

当時の顧客には文学者やマスコミ関係者が多くいたこともあり、女給をテーマにした小説が書かれたり、雑誌で女給が特集されたりと、注目を集める存在でした。

また当時のカフェーにはチップの文化があり、目当ての女給にはチップを多めに渡すこともあったのだとか。女給たちは、明治〜昭和初期にかけての「会いに行けるアイドル」とも言える存在だったのかもしれません。

あの子に会いに、あのカフェーに行こう! なんていう会話も、もしかしたらあったのかも!?

関東大震災を境に、銀座カフェーの「エロ化」が進む

さて、この記事のテーマでもある「不純な喫茶」について。
冒頭で「女給のサービスをウリにするお店のこと」と書きましたが、なぜそういった店が増えてしまったのか——?

転機が訪れたのは、関東大震災の後でした。

1923(大正12)年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。関東大震災により、文化人たちの華やかな交遊の場となっていた銀座のカフェーも、壊滅的な被害を受けます。

震災後の銀座を描いた絵 国立国会図書館デジタルコレクションより

震災の被害により閉店したカフェーもあった一方で、震災からの復興の流れで個人経営の小さな喫茶店が銀座に急増しました。

この頃から、文化人のサロンとして生まれた「カフェー」は、じわじわとその姿を変えていきます。女給が客の隣に座り接待をする、「エロ」を売りにする店が増えていったのです。

ここからは、昭和初期の銀座を知る美術史家・安藤更生氏が書いた『銀座細見』から引用しつつ、「エロ」を売りにしていた代表的な店を紹介していきます。

獅子vs虎?!火花を散らした「カフェー・ライオン」と「カフェー・タイガー」

震災前から営業をしていた3大カフェーのひとつ「カフェー・ライオン」は、震災後に営業を再開。しかし震災の翌年1924(大正13)年、美人揃いの女給による濃厚なサービスを売りにした「カフェー・タイガー」が、ライオンの向かいにオープンします。

獅子vs虎、レディー……ファイト!

右円内:カフェー・タイガーの女給と客/左:同時期に銀座にて営業していた「カフェークロネコ」店内。 国立国会図書館デジタルコレクションより

ライオンは美人で客がついていても、品行が悪い女給はすぐクビにしていたそうで、タイガーはライオンをクビになった女給をどんどん雇いました。

ライオンではつつましやかに対応していた女給が、タイガーに行くとメイクも着物も派手になり、会話の際には体をすりつけるような濃厚なサービスをしてくれるとあって、かなりの客がライオンからタイガーに流れたようです。

その後ライオンも、女給が客と同じテーブルに座り接待をする営業形態に変わりました。

行き過ぎた「エロ」で何度も営業停止になった「バッカス」

『銀座細見』の記述によると、「銀座エロの元祖」とのこと。

あちこちのカフェでクビになった女給を集め、エロを売り物に大々的に営業を開始したところ、風紀上問題があるとして早々に一週間の営業停止を言い渡されました。

営業停止の際には、「休みが開けたら更始一新活躍します(意訳:営業再開したら女給のサービスをもっとグレードアップします)」と表に大きな掲示を出し、警察にも呆れられたのだとか。

取り締まるほうはたまったものではないけど、なんだかユーモアがあって笑えるなあ。

バッカスはその後何度も営業停止を受けたそうです。

美人座、日輪、赤玉……「大阪エロ」の大洪水が銀座を飲み込む

震災後の銀座カフェー界における大きなトピックのひとつが、大阪カフェの進出です。

最初に東京進出を果たしたのは、大阪の「ユニオン」。1928(昭和3)年に東京・人形町に店を構えましたが、さほど話題にはなりませんでした。

1930(昭和5)年、「美人座」「日輪」「赤玉」など、大阪の大規模カフェーが銀座に立て続けに進出。
数十名もの女給を飛行機で東京へ連れて来たり、銀座のビルを丸ごと買い取って店舗を構えたり、莫大な宣伝費を投下して電飾ギラギラの広告をビルに掲げたり……。

やることが派手で弾けてる!

大阪カフェはド派手な行動の数々で一大センセーションを巻き起こします。ここから、銀座の街を「大阪エロ」が席巻しました。

銀座に進出した大規模カフェ「日輪」の全景 国立国会図書館デジタルコレクションより

『銀座細見』によると、大阪カフェの特色は「エロ」と「大衆性」。

派手なメイクや着物で着飾った女給のサービスを売りにしていた大阪カフェの中には、1人の客に1人の女給がつく店もありました。また大阪カフェは、従来の銀座カフェーとは異なり、インテリ層ではない一般人も気軽に入りやすい雰囲気だったそう。

喫茶店って、今だと誰でも入れる雰囲気があるかなと思うんだけど、当時のカフェーは少し違ったんですね。

『銀座細見』には「銀座は今や大阪カフェ、大阪娘、大阪エロの洪水である」との記述があります。多くのカフェーはその勢いに押され、閉店する店も少なくなかったそうです。

(※補足:本稿では原則、「カフェー」の表記を用いていますが、『銀座細見』では「大阪カフェ」としているため、大阪のカフェについては本章内もその表記としました)

「エロ」なカフェーの取り締まり強化により「純喫茶」が誕生

「エロ」を売る店が急増する中、最初のうちは客の横に座ってお酌をしたり、「アイス食べたいな〜頼んでもいい?」とおねだりしたりするくらいだったようですが、徐々にエスカレートしていきます。

客引きや同伴外出が常態化したり、個室や客用の浴槽を設ける店が現れたりと、風紀の乱れが問題視されるようになりました。

コーヒーなどの飲食や、文化人が交流を楽しむ、といった最初の目的が、だんだん変わっていってしまったのですね。

1929(昭和4)年頃から警察はカフェーへの取り締まりを強化し始め、1933(昭和8)年に「特殊飲食店営業取締規制」が出されます。
「洋風の設備があり、女性が客席に座って接待する飲食店」を「特殊飲食店」として、細かい規制・罰則規定を設けました。

そして、酒類を出さず女給による接待サービスを行わない店は、「純喫茶」と呼ばれるようになったのです。
「純喫茶」という言葉は、こうして生まれました。

純喫茶、誕生の瞬間!

その後、第二次世界大戦に突入するとコーヒーは輸入禁止に。喫茶店も営業できない状況になりますが、戦後の復興に伴い、1950年代から再び喫茶店は増えていきます。

この時代にオープンした店の中には、今も営業を続け、多くの純喫茶愛好家が足を運ぶ店はたくさんあります。
いくつか例を挙げると、神保町の「さぼうる」や「ラドリオ」、銀座の「銀座ウエスト」、浅草の「銀座ブラジル」、新宿「名曲珈琲 らんぶる」など……。

聞いたことあるお店がたくさん!

以前は銀座が中心だった喫茶店ブームは全国に広がっていき、そして現在に至ります。

「純喫茶」は時代の変化とともに新たな意味を持つように

歴史的な流れでいうと、純喫茶は「酒類を扱わず、女給の接待サービスがない店」ですが、現代における「純喫茶」は当時とは意味が変わってきています。

「純喫茶」と聞いて多くの人が抱くイメージは、「レトロな雰囲気が素敵な老舗の喫茶店」ではないでしょうか?

うんうん。そういうイメージです。

酒を置いていても昔ながらの喫茶店であれば「純喫茶」だし、最近オープンした店なら酒を扱っていなくても「純喫茶」ではない。少なくとも私はそう感じています。

銀座「カフェー・パウリスタ」店内

「カフェー」の意味が、文化人のサロン→女給が接待サービスをする「エロ」な店→現代においては純粋に喫茶店を示す言葉(※)……と時代の流れとともに変わってきたように、「純喫茶」も時代とともに新たな意味を持つようになってきました。

※実は、風俗営業・接待飲食等営業の「1号営業 料理店、社交飲食店」には現在も「カフェー」の記載がありますが、現代においては「カフェー=喫茶店」のイメージを持つ人が多いのではと、個人的には感じています。

こんなに大きく意味が変わっていたなんて、初めて知りました!

古くて新しい、「純喫茶」という存在。
雑誌やネットで特集されるような有名なお店以外にも、魅力的な純喫茶はそこかしこにあります。もしかしたら、あなたの住む街にも。

なかなか遠出もしにくく、気の詰まる日々を送る方も多いと思いますが、純喫茶は過去への小旅行にぴったりの場所。散歩の途中や仕事帰りなど、気になるお店を見つけたらぜひ入ってみてください。

歴史に思いを馳せつつコーヒーを一口飲めば、たちまちタイムトリップ。

※参考文献
『喫茶店と日本人』赤土亮二
『喫茶店の時代』林哲夫
『銀座カフェー興亡史』野口孝一
『銀座細見』安藤更生
『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェーパウリスタ物語』長谷川泰三

※アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより

書いた人

浅草出身のフリーライター。街歩きや公園でのんびりするのが好きで、気が向くとふらりと散歩に出かけがち。趣味はイラスト、読書、写真、純喫茶めぐりなど。 レトロなお出かけスポットを紹介するWebマガジン「てくてくレトロ」を運営しています。

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。