鏡には不思議な力が宿っている。そう信じていたのは、なにも白雪姫に登場する性悪の魔女だけではない。かつて鏡にはこの世とあの世を結び、真実を映し出し、呪いを解く力があると信じられていた。人びとは鏡面の裏側をさまざまな意味や願いを込めた美しい文様で飾り、葬祭儀礼や護法に鏡を用いたのだ。
今となってはもっぱら姿形を映すためだけに使われるこの生活道具は、古くは魔除けや神聖なものとして大切にされてきた。そんな歴史を物語るように、日本にも鏡にまつわる話がたくさんある。とくに江戸時代に生まれた物語には鏡にまつわるものが多い。私たちが一日に何度も覗き込む「鏡」は、じつは不思議の世界への入り口でもあるのだ。
江戸の人びとは鏡になにを見たのだろう。そんな心のうちを物語から紐解いてみたい。鏡をめぐる江戸の怪奇なワンダーランドへ、ようこそ。
鏡には人も映るが鬼も映る
江戸後期劇壇が生んだ名作者、鶴屋南北による歌舞伎に『金幣猿嶋郡(きんのざいさるしまだいり)』がある。平将門と藤原純友の乱を中心とする前太平記の世界に安珍清姫の道成寺伝説をからませたもので、初演は文政12(1829)年11月の中村座。
『金幣猿嶋郡』に登場する藤原忠文は渡し船で対岸へと向かう頼光と七綾姫の仲睦まじい姿に嫉妬し、あまりの想いの強さから鬼になってしまう。その変貌を鏡に映して知るのだ。しかし鬼になっても愛する人への執念は断ち切れなかったようで、やがて体を刃が貫き、血汐に染まる。そして木津川に身を沈めると川面に炎が燃え上がり、その中から鬼形の藤原忠文が舞い上がる。藤原忠文は邪恋に狂い、女を追ってゆく。
おぞましい自分の姿を鏡に見て、身を震わせる。そんな哀れな人間の姿を描いた作品はほかにもある。近松半二らによる浄瑠璃『小夜中山鐘由来(さよのなかやまつりがねのゆらい)』もその一つだ。こちらに登場するのは、男ではなく女。しかし彼女もまた、鏡に恐ろしい自分の姿を見ることになる。
貞心尼は仏に仕える尼僧でありながら、かつて見初めた男性に再会し、彼への想いを募らせる。そして最後には、恐ろしい形相と化した自分の顔を鏡で見ながら畜生道へと墜ちていく。
道具としての鏡の役割は、ありのままの姿形を映すことにある。しかし鏡に映るのがいつも人間の顔をしているとは限らない。鏡はときに隠された人間の本性を暴いてしまう。人が映るなら、鬼だって映るだろう。顔を背けたくなるような醜悪な自分の姿も。
目に見えるものだけが真実とは限らない。人を惑わす鏡の力
もし鏡にこの世ならざるものを映す力があるのなら、鏡像(鏡に映った像)を信じすぎないほうがよいかもしれない。滝沢馬琴による江戸時代後期の読本『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は、まさにそんな話。
妖僧朦雲は琉球国の乗っ取りをもくろむ人物。計画のために、邪魔な忠臣毛国鼎をなんとかしたい。そこで妖僧朦雲は鏡の妖術を使ってみせる。
「それがしは只今より千里眼の法術を行い、中城の毛国鼎らの悪事を映し出してごらんに入れます」
そう言って妖僧朦雲が鏡に向かって三度お祈りすると鏡の表面が月のように輝き、ある映像が浮かびあがる。そこに映っているのは貞節な国王の后、簾夫人が姦通しているあられもない光景だった。もちろんこれは事実ではない。妖術によって歪められた偽りの光景だ。しかし巧みに騙されてしまった国王は自分の娘が不義の子だと思い込み、さらには国を奪われてしまう。
妖怪を退治する小さな鏡たち
嘉永6(1853)年に初演の黙阿弥作『しらぬひ譚』には小さな鏡が出てくる。そしてこの鏡は、小さいながらも護符の役割を果たすのだ。
蜘蛛の妖術をつかう若菜姫は菊池家の領主、貞行を惑わそうとする。しかし貞行が懐に宝物の名鏡を持っていたため術をほどこすことができず、逃げ去らねばならなかった。小さい鏡が妖魔を退けた例である。
小型鏡をめぐる説話は他にもある。
前漢の逸話を集めた書物『西京雑記(せいけいざっき)』に出てくる小さな鏡は、妖怪を映すことができるという。そのうえ、この鏡を身につけることができた人は天の神から幸福が授けられるのだとか。
悪いものを遠ざけ、幸福を呼びこむ鏡。メイク直しのために持ち歩くような小さい鏡には、魔除けの効果があると信じられていたのかもしれない。
鏡を通って愛しい人を訪ねる
鏡は人の願いを叶えてくれることもあるようだ。正徳6(1716)年に刊行された『本朝怪談故事(ほんちょうかいだんこじ)』には鏡にまつわる物語がいくつか収められている。そのひとつ『足柄神鏡』を紹介しよう。
ここでは夫の寵愛を受けていた妻が病の末に亡くなってしまう。「私を恋しく思う時は鏡を見て」妻は夫にそう言い残し、鏡を渡して息絶える。愛する人の死後、懐かしさから男が鏡をのぞくと、そこに妻の姿が映ったという。もう会うことが叶わない相手が鏡を通って会いに来てくれたのだ。
強い想いをもって鏡を覗けば、鏡はこの世とあの世を結ぶ通路にもなる。しかし『本朝怪談故事』にはこの他にも鏡を見ると死んでしまうという恐ろしい話も記されている。興味深いのは、鏡の霊力が鏡を見る行為によって発動することだ。
生者は鏡を通して死者との再会を叶え、運が悪ければ人間を生きたまま黄泉の国へと連れて行く。鏡に宿る力が現実世界と超越世界との往復を可能にするのだろうか。鏡はまさに不思議の世界への入り口というわけだ。
死してなお大切な人へ。鏡に託された想い
日本で初めて金属製の鏡が出現したのは弥生時代と言われている。古墳時代に作られた古墳の中からはたくさんの鏡が副葬品として出土していて、古代の祭祀を知るうえで重要な手がかりになる。
記録によると、鏡は木棺を囲むように置かれ、仕切り板に立てかけられたりして埋められていたらしい。古代人がわざわざ鏡を人の体の近くに置いたのはなぜだろう。単に、死者の遺体を保護する目的だったのだろうか。
もし彼らが鏡に何らかの力があると信じていたのなら、鏡を死者と一緒に葬ることで目には見えない別の効果を期待していたと想像することもできる。あるいは死に伴う邪気を払うために鏡を置いたのかもしれないし、死者を護ってくれるようにと死体の隣に鏡を置いたのかも。もしそうなら、古代の人びとが鏡に託した想いに胸が締めつけられる。
おわりに
江戸時代に生まれた鏡にまつわる数々の作品は、今もなおぞくぞくするほど魅力的なものばかりだ。物語の主人公たちは嫉妬で鬼と化した自分に慄き、騙され、たぶらかされ、ときに想いを託し、鏡をのぞき込んでは愛する人にもう一度だけ会わせてほしいと願った。
鏡というこの薄くて脆い小さな道具に、かつて人はどれほどの願いを託したのだろう。その姿は物語の世界を超えて、まるで現実を生きる人間のように生生しく、あまりにも切ない。
【参考文献】
『国文学 解釈と教材の研究 1992年8月号 江戸の怪奇・幻想空間』
『鏡が語る古代史』岡村秀典、岩波新書、2017年
『鏡の古代史』辻田淳一郎、角川選書、2019年
『椿説弓張月』平岩弓枝、学習研究社、1982年
『本朝怪談故事 校註索引』高田衛他、現代ジャーナリズム出版会、1978年