お風呂好きですか?
日本人はお風呂や温泉が好きだといわれています。外出自粛で遠出ができない中、自宅でのお風呂時間を充実させる工夫をされている方もいるかもしれません。お風呂で汗や1日の汚れを流してリフレッシュしたり、湯船にゆっくりつかってリラックスする時間にしたりするだけではなく、市販の入浴剤を使って各地の温泉めぐりを楽しんだり。バスタイムを利用してマッサージをするなど、こっそり女磨きをしている女子もいるかもしれませんね。
江戸の町は風が強く、埃(ほこり)っぽかったそうです。このため、お風呂に入って、さっぱりしたかったようで、江戸の人々もお風呂が大好きでした。
そこで、この記事では、江戸女子のお風呂事情を、当時の風俗を描いた浮世絵を参考にしながら解説していこうと思います。
江戸のお風呂事情
江戸では、内風呂がある家はほとんどなかったと言われています。大店で内風呂があっても、主人の家族のみが使用し、下男、下女、番頭、小僧などの奉公人は、仕事が終わったあとに湯屋(=銭湯)に行きました。
自宅に風呂がなかったのは、大量に使う水に不自由していたこと、お湯を沸かすために必要な薪(まき)が高価だったことがありますが、何よりも火事を一番恐れたからです。その代わり、町のいたるところに湯屋があり、人々は毎日のように足しげく湯屋に通っていました。
江戸時代後期、文化11(1814)年に刊行された『塵塚談(ちりづかばなし)』は医者である小川顕道(おがわ けんどう)が江戸の風物・流行をまとめた本ですが、この本によると、江戸市中に湯屋は約600軒あったそうです。
湯屋の営業時間は、午前8時頃から午後8時頃まででした。
湯銭(=入浴料)は、時代によって変化がありましたが、嘉永4(1851)年に刊行された向晦亭等琳(こうかいてい とうりん)の『洗湯手引草(せんとうてびきぐさ)』によると、寛政6(1794)年は大人10文(約250円)、子ども6文(約150円)でした。(湯銭は、年代により、多少の変動があったようです。)
正月初風呂の様子を描いています。正月二日、新年になって初めて入る初風呂に来る馴染客(なじみきゃく)は、湯銭を白紙に包み、おひねりとして渡したそうです。おひねりは、目立つところに置かれた三方(さんぼう)に積み上げられました。
男湯の2階は、町のサロン
湯屋の2階には、休憩所が設けられていました。
入浴後は2階に行って、座敷にある碁や将棋をしたり、煙草を一服しながら歓談をしたりしまた。休憩所には絵草紙などの手軽な読本も置かれ、壁には芝居や時には相撲の番付や寄席・見世物・その他催物の引札(ひきふだ/広告チラシ)などが掲示されていました。時には、寄席が行われることもあったのだとか。
このように、湯屋は町内の人々の集合所であり、社交場でもあっただけではなく、祭礼や年中行事のことから江戸の噂など、情報交換の場でもあったのです!
なお、休憩用の座敷があったのは、男湯だけでした。女子たちは、脱衣所で、洗い場で、そして湯船の中で、賑やかにおしゃべりをしていたのかもしれませんね。
湯屋は混浴が基本だった?
江戸の湯屋は「入り込み湯」といわれ、男女混浴でした。これは江戸末期まで続きました。石榴口の中は暗く、風紀を乱す者も少なくなかったのかもしれません。何度か禁止令が出されますが、なかなか改まらず、天保の改革(1841~43年)の際に厳しい取り締まりが行なわれました。
その結果、浴槽の中央に仕切りを取り付けたり、男女の入浴日時を分けたり、また男湯だけ、女湯だけという湯屋も現われました。
明治時代に入り、明治政府は幕府以来の旧弊として、男女入り込み湯に対して特に厳しく禁止し、たびたび通達を出しますが、長年の風習はそう簡単には改まりません。実際に混浴がなくなったのは、明治時代中頃でした。
江戸の湯屋の利用方法・女子編
江戸の湯屋の様子がどうだったのか、気になりませんか?
明治元(1868)年に刊行された豊原国周の浮世絵「肌競花の勝婦湯(はだきそいはなのしょうぶゆ)」は、様々な世代の女子たちで賑やかな江戸の女湯の様子を描いたものです。壁には、薬などの広告が貼られています。
この絵を使って、湯屋の様子や利用方法を見ていきましょう。現代と同じところもあれば、違うところもあるようです。
番台へお金を払う
絵の左側にある番台でお金を払って入場します。
ちょうど、紫色の着物の女性が湯屋にやって来て、番台に料金を置こうとしています。右手に弁慶縞の浴衣(ゆかた)を持っています。
着物を葛籠の中にしまって流し場へ
番台を通って、板の間に上がり、葛籠(つづら/カゴの一種)に脱いだ着物などを入れ、戸棚にしまい、流し場へ進みます。
現代の銭湯は、脱衣所と流し場の間は仕切られており、ガラス戸を通って流し場に行きますが、絵では仕切りはありません。流し場と脱衣所が一体となっているので、脱衣所にも湯気が立ち込めていたのかもしれませんが、冬は寒そうですね。
洗い場で湯をかけてから奥の湯船へ
洗い場にある大箱(絵では、中央奥)から湯を汲んで体にかけ、石榴口(ざくろぐち)を通って、奥の湯船に入ります。絵の右側にある、赤い色の鳥居のような形をしたものが石榴口です。入口が低いので、かがんで入ります。
糠袋を使って、肌磨き
湯船を出て流し場に戻ると、糠袋(ぬかぶくろ)を使って肌磨きタイム。
この絵には描かれていないのですが、洗い場には米糠が入った箱も置いてあり、女子たちは、手作りの赤い糠袋の中に糠を入れて、体を洗いました。米糠には酵素と油脂が含まれており、現代でも、米糠には美容効果があるとして、米糠成分を使った化粧品もあります。江戸の女子たちは、米糠という自然派コスメを使ってお肌を磨いていたのですね!
なお、湯船に入る前に肌磨きをする女子もいたようです。体を洗ってから湯船につかるか、湯船につかってから体を洗うか。これは、現代と同じでしょうか?
なお、米糠は時間が経つと酸化するため、毎回、糠を捨てて帰ります。
石榴口の横のふんどし姿の男性と、子ども連れの母親の体を洗っている黒い腹掛け姿の男性は、風呂焚きをしたり、お湯を汲んだりという仕事もしましたが、希望者には有料で背中を流したりのサービスもしたのだとか。若くてイケメンの男性従業員はモテて、収入も多かったそうです。
浴衣で水気をとって、着物を着る
脱衣所に戻り、浴衣を羽織って水気をとり、着物を着ます。浴衣は、現代のバスタオルのようなものとして使っていたので、浴衣を持って湯屋に行きました。
両国広小路の南にある薬研堀(やげんぼり)は、元々、隣接する米沢町に幕府の米蔵があったときに、米を運ぶために造られた入り堀でした。その形が薬を調合するときに使う薬研に似ていることから、薬研堀という名が付きました。江戸中期に米蔵が築地に移り、堀の大半は埋められてしまいました。
コマ絵には、薬研堀にある湯屋が描かれています。入口の暖簾(のれん)には、黒地に白の柳が染め出され、赤い地で「やなぎゆ」と書かれた提灯が軒先にぶら下がっています。2階の休憩所では、裸の男たちが騒いでいます。
薬研堀は、江戸一番の繁華街である両国広小路に近く、料理茶屋や遊郭などもあったことから、そこで働く女性たちが多く住んでいました。美女は、薬研堀に住む芸者でしょうか? 出勤前にひと風呂浴びて、これから身支度をするようです。
湯から上がったばかりの美女は、湯屋の1階の脱衣場で、持参した蛸(たこ)が描かれた絞り模様の浴衣を羽織り、番台に手を添えながら手ぬぐいで足を拭いています。髪の毛が少しほつれていて、顔も上気していて、色っぽいですね。口には、糠袋(ぬかぶくろ)の紐をくわえています。足元に広げた風呂敷の上に、脱いだ縞の着物が置かれています。赤い布は、湯文字(ゆもじ/女性用の下着の一つ)でしょうか?
湯屋帰りの3人の美女たち。お風呂上がりのためか、何となく、顔が上気しているような? 左側の提灯を持つ女子は、左脇に浴衣を抱えています。右側と真ん中の美女の、手ぬぐいをくわえた姿も色っぽいですね。
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端午の節句の主役は女性? 菖蒲湯は、沐浴の儀式の名残り?
5月5日の「こどもの日」は、子どもたちの健やかな成長を願う日とされています。その前身の「端午の節句」は男の子の成長を願う日として知られていますが、現在でも男の子のいる家では兜(かぶと)をかぶった五月人形を飾ったり、こいのぼりを庭先に飾ったりします。
また、5月5日、あるいは翌日の6日に、無病息災を願って、菖蒲(しょうぶ)の根葉を刻んで湯に入れた「菖蒲湯」に入る風習もあります。
絵に描かれているのは、屋敷の中に設けられた据風呂(すえふろ)の様子です。
軒先には菖蒲と蓬(よもぎ)が挿されていますが、これは「軒菖蒲(のきしょうぶ)」という邪気を払うおまじないです。桶を持つ右端の女性の髪をよく見ると、髪に菖蒲を巻いていることがわかりますか?
旧暦の5月は、日本では田植えの時期にあたります。そのため、5月最初の午の日に、稲の神様に豊穣を祈願する「早乙女(さおとめ)」と呼ばれる若い娘たちが、小屋や神社にこもって、飲食を慎み、不浄を避けて心身を清浄に保つ「五月忌み」をする風習がありました。このことから、「端午の節句」は女性の行事だったとする説もあります。
そして、日本人が神を礼拝、祈願する場合には、汚れや穢(けが)れを取り除き、心身を清めるために水を浴びる「沐浴(もくよく)」の風習がありますが、「菖蒲湯」の起源は、水を浴びて身を清める沐浴だとも言われています。
江戸女子も、お風呂でこっそり女磨き?
お風呂好きだったと言われる江戸の人々ですが、庶民の銭湯利用は日常的なものではなく、湯や水をたらいに入れて、体を洗う行水(ぎょうずい)が一般的だったとも言われています。
画面右端に水を張った盥(たらい)が見えます。暑い夏の日、汗をかいてしまったので、美女は行水をしてさっぱりしたところのようです。背景が薄暗いので、夜の時刻でしょうか?
ちょっと汗を流したり、さっぱりしたい時、あるいはお化粧をする前の準備として、現代のシャワーのような感じで行水を使っていたのかもしれません。
縁側で夕涼みをする女性は、行水(ぎょうずい)の後なのか、ゆるやかに着物をまとっています。後ろに座る侍女が振り返っているのは、時計が鳴ったからでしょうか? 屋外から座敷を見下ろす絵の構図は、風の入る涼しげな空間でのくつろいだ雰囲気を想像させます。
江戸女子たちも、お風呂でこっそり女磨きをしていたのかもしれませんね。
主な参考文献
- ・『国史大辞典』 吉川弘文館 「風呂屋」「端午」の項目など
- ・『ニッポンの浮世絵』 太田記念美術館監修 日野原健司、渡邉晃著 小学館 2020年9月
- ・『イラストで見る花の大江戸風俗案内(新潮文庫)』 菊地ひと美著 新潮社 2013年9月
- ・『入浴と銭湯(雄山閣アーカイブス 歴史篇)』 中野栄三著 雄山閣 2016年9月
- ・銭湯の歴史(東京銭湯/東京都浴場組合)