「わざと、そのままにしておきましょう」
目をまん丸くした私に、その人はニッコリと笑った。
この信じられない言葉を発したのは、当時の直属の上司。
企画書のミスをそのままにしておく?
いやいやいや。あかんでしょ。
我に返って、私も食い下がる。どうしても通したい案件なのだ。なんでまた、上層部に指摘されそうな箇所を残しておくというのだ。
「だから、『あえて』です。指摘できるところを作っておくんです」
ぐうの音も出ない完璧な企画書は可愛げがない。プライドが邪魔して、かえって認められないのだと説明してくれた。一言、注意すべきところを予め用意しておく。上司に、まだまだ自分の助言が必要だと思わせるのがポイントなのだとか。
今回の記事を書くときに、ふと10年前の出来事を思い出した。
組織の中でバリバリと働いていた前職時代の話だ。当時は、凡庸な上司だと思っていたが。今回のテーマを意識して考えてみると。意外にも、計算し尽くした立ち回りをしていたのかもしれない。
さて、前置きが長くなったが。
今回の記事のテーマは「つくり馬鹿」。
つくり馬鹿とは、いつわって実際に愚か者のように振舞うこと、またはそのような人を意味する。
このワードがくれば、真っ先に思いだす戦国武将といえば。
もちろん、あの人。タヌキ親父とか、散々言われているあのお方。
そう、江戸幕府の礎を築いた御仁。「徳川家康」である。
今回は、「つくり馬鹿」に見る、徳川家康の真の凄さをご紹介。
じつに、一流といわれる条件は、ここにあったのだ。
あの家康が「源義経」に!
どうして「つくり馬鹿」の記事で、冒頭の画像なのか。
そんな素朴な疑問をお持ちの方も多いだろう。じつは、冒頭の画像は「船弁慶(ふなべんけい)」に関連したもの。
「船弁慶」とは、能楽の曲目の1つ。
タイトルに「弁慶」と入るだけあって。源義経(よしつね)らが都落ちする道中での内容なのだとか。
目覚ましい活躍をしたはいいが。
兄の頼朝(よりとも)の疑念を避けるため、今度は義経が都落ちに。武蔵坊弁慶らを連れてたどり着いたのは、「大物浦(だいもつのうら、兵庫県尼崎市」。静御前とはここで別れ、一行は船で出発する。
船を漕ぎ出すと、次第に海は荒れ始める。そして、海からは無念に散った平家の怨霊が出現。義経を海に沈めようとするのである。なかでも「平知盛(とももり)」は、薙刀(なぎなた)で義経に襲いかかり、義経も刀を抜いて渡り合う。結果的に、弁慶の必死の祈りによって、怨霊らは退散するというストーリー。
じつは、その「船弁慶」を、徳川家康自らが舞ったというではないか。
話は、そこから始まるのである。
時は、豊臣秀吉が天下人の時代。
京都には、関白となった秀吉ご自慢の豪奢な聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)が建てられていた。聚楽第とは、天正14(1586)年に着工し、翌年の天正15(1587)年に落成した城郭風邸宅のコト。実際に秀吉が住んでいたが、のちに、天正19(1591)年、関白職と共に、この聚楽第も甥の秀次(ひでつぐ)に譲っている。
この聚楽第で、豊臣秀吉主宰の能楽の会が開かれたという。
年月は書かれていないのだが。恐らく、天正15(1587)年から天正19(1591)年の間のことであろう。
豊臣秀吉が開くとあって。
多くの名だたる戦国武将が集まっていたに違いない。『名将言行録』には、このときの様子が描かれている。徳川家康はもちろんのこと、秀吉子飼いの加藤清正。また、黒田長政、浅野幸長、石田三成、島津義弘らの名前も記されている。揃いも揃って戦国時代ファンを沸かせる武将たち。
さて、話を戻そう。
「能楽の会」であるからには、誰かが能を披露するワケで。
そのメンバーはというと。
主催者である秀吉をはじめ、他にも、織田信長の次男の「信雄(のぶかつ)」や、信長の弟である織田長益(有楽、有楽斎など)らも舞うことに。
特に優れていたのが、織田信雄の「竜田舞(たつたまい)」。
竜田明神の縁起と竜田山の紅葉の美を描いたとされる、秋の舞なのだが。これが見事と言わざるを得ない出来栄えだったとか。なんでも、見る者が感嘆し、言葉では言い表せないほど。
会は自然と盛り上がる。
そんな場面で。なんと、演者として出てきたのは。
「徳川家康」。
演目は「船弁慶」。
それも、家康が「源義経」となったのである。
あれれ。
源義経ってシュッとしたイメージなのだが。
さあ、目を閉じて。少し想像してみよう。
家康の「ザ・義経」を。
当時の家康は…。
江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書である『徳川実紀』。
この中で、秀吉の近臣が発した言葉が記されている。
「徳川殿ほど、おかしい人はいないでしょう。下腹が膨れていらっしゃるので、自ら下帯をしめることができず、侍女どもに任せて結ばせておられるのです」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)
身も蓋もない言い方だが、家康は太っていた。それに加えて、帯を結べないほど腹が出ていたというではないか。ただ、フォローすれば。水泳や鷹狩りで鍛えていたこともあり、筋肉太りの可能性も。それにしても、見た目は相当にお腹周りが膨れていたようだ。
それでも、家康は意に介することなく。
船弁慶の「義経」を粛々と演じ切ったのである。
見抜く秀吉もただ者ではない⁈
まずもって、彼らには遠慮がない。
彼らとは、能楽の会に集っていた武将たちである。
というのも、徳川家康が天下人となるのは、まだ先の先。このとき、家康は、ただの戦国大名の1人という立ち位置である。だからというワケではないが。とにかく、ウケた。家康の「源義経」が、大いに場を沸かしたのである。
『徳川実紀』や『名将言行録』には、この様子がそのまま描かれている。
「君(家康)は、舟弁慶の義経を演じられたが、元より太っておられ、舞曲の節々にそれほどまで御心を傾けていらっしゃらないので、とても義経には見えないと諸人はどよめき笑った」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)「家康は船弁慶のときに義経になった。太った老人だから、どうもみっともない形で『義経らしいところは少しもない』とみなが笑い騒いだ。とくに斬りあいのようすの不調法なことは、腹をよじって笑った」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
今となっては、甚だ信じられない情景だろうが。
「神君」と崇め奉られたあの徳川家康が。
次の天下人となって、江戸時代の礎を築く徳川家康が。
なんと、その場にいた戦国武将らに、大爆笑されたのである。
家康も、まさか、自分が「源義経」に似ているなどとは思っていないだろう。実際に、自分が舞えば、どのような反応となるかは、百も承知なワケで。それでも、あえて、家康はそんな自分のみっともない、情けない部分を表に出したのである。
一体、徳川家康にはどのような腹積もりがあったのだろうか。
関白となった豊臣秀吉に対して、自分の「隙」を見せて従順の意を示したのか。はたまた、不得意なところをあえてアピールして、秀吉を油断させる計算だったのか。
これに対して、秀吉はというと。
なんとも、徳川家康を擁護するような発言がなされている。それが、コチラ。
「『常真(織田信雄のこと)のように家や国を失い、能ばかりがうまくても何の利益もない。うつけものである。徳川殿は雑技に心を傾けていないので、現在、弓矢を取ってその上に出る者はいない。お前たちも小事に心を傾け、大事に関心を持たないことは、これまた、うつけ者という』と、いましめられた」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)
徳川家康にとって、能は「小事」。
もっといえば、これは、別段、徳川家康に限ったことではない。国を治める上で、芸事など取るに足らないコト。それよりも、もっと大事なモノがあるだろう。「小事」よりも「大事」に心を傾けろ。そう、秀吉は言いたいのだ。
さすがに、織田信長亡きあと、天下人となるだけのことはある。物事の本質を見極められるかどうかは、時流を読む上で欠かせない。秀吉が台頭するのも、当然の結果といえるのかも。
一方で。全く別の捉え方をした人たちも。
じつは、『名将言行録』では、一部の戦国武将たちの真逆の反応が描かれている。秀吉が家康に対して一定の理解を見せるのとは、全く異なるモノの見方。彼らの家康の評価は、なんと「つくり馬鹿」。
その内容が、コチラ。
「加藤清正・黒田長政・浅野幸長・石田三成・島津義弘らは『さてさて常真(織田信雄のこと)は馬鹿者よ。見事に舞ったからとてなんの益があるのだと』といって嘲った。家康のことは『あの古狸が、作り馬鹿をして太閤様をなぶっている。あの姿をみろ。さてさて兵者(心臓男)よ。とにかくいけ好かぬ。恐ろしいことだ』とみな心中に舌を巻いたという」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
言うねえ。つくり馬鹿をして、家康が秀吉をなぶっている?
じつに、彼らは、家康に対して「恐ろしい男」という評価を下していたのである。わざと「馬鹿」なように振舞って、あの秀吉さえをも、騙すほど。
いけ好かない。恐ろしい。
これは、徳川家康の凄さを見せつけるための表現方法なのか。といっても、単なる悪口でしかないのだが。とにかく、家康はそんじょそこらの戦国大名とは、ちょっと違うぜ。そんな印象を与えた「能楽の会」だったのである。
最後に。
本当に、徳川家康は、「つくり馬鹿」だったのか。
この疑問を解消しておきたい。
ここからは、私個人の意見となることを予めお断りして。
これまで、私は、取材を通して、幸いにも多くの職人の方とお会いする機会を頂いた。いずれも、その方面では「一流」といわれる方たちだ。
彼らの共通点は、1つ。
自慢をしないコト。
自分の言動に、一切見栄がない。他人からどのように思われるかを、全く気にしないところが、皆、同じであった。
どう思われるか。どう思われたいか、ではない。
自分が何をしたいか。その一点で、判断する。
じつに、徳川家康も、そんな気持ちだったのではないだろうか。「あえて無様な姿を見せて、秀吉にこう思われよう」などとは計算せず。ただ、戦国武将が集まったあの場面で、自分なりの能を舞おうと。
織田信雄が見事な能を待った。だからこそ、今度は、大笑いできるような「義経」の舞。だから、私は、家康の言動が「つくり馬鹿」とは思わない。これまで敵方として戦った者たちもいる。ただ、今は、こうして酒を飲み、能楽を味わえるのだ。だから、単純に、場を盛り上げるべく、自ら能を舞った。
自分に自信があるからこそ。
笑われる結果となったとしても、己に「恥」の概念は存在しない。
私には、そう思えて仕方ないのだ。
さて、それにしても。
ほとほと可哀そうなのは。
秀吉からも、そして、その場にいた名だたる戦国武将からも「真の馬鹿者」扱いをされている「織田信雄」。
誰もが、ため息が出るほどの舞を見せたというのに。
世は無常。
切なくなる「竜田舞」であった。
参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月