明治天皇が天地神明に誓った五箇条は、新政権の理念を高らかにうたいあげ、現行の日本国憲法にも影響を及ぼした不朽の名文です。それが、どのように起草され、修正されていったかを追うとともに、五箇条を練った真の目的とすることが「起きなかった」事情を探ります。
天皇とはなにか
幕末には、一君万民という考え方がありました。日本のなかで、天皇だけが君主で、公家も武士も庶民も、一人の君主に従う万民であるべきだということです。これは身分差別を否定する考え方でもあり、擬似的に「自由平等」を表現することでもありました。
一神教じゃない人からすると、たとえば「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」といっても、「天」という目には見えない唯一絶対の存在がイメージしづらいです。誤解を怖れずにいうならば、一君万民という考え方は、天=唯一神の代替として天皇を利用したものだといえるでしょう。
王政復古クーデター以来、新政府は「日本に君臨すべきは天皇であり、将軍ではない。日本を統治すべきは朝廷であって幕府ではない」と主張してきました。鳥羽伏見の戦いに勝利してからは、もはや天皇は単なるお飾りではありません。そのことを如実に示したのが「開国の詔」です。
日本国天皇、告各国帝王及其臣人、嚮者将軍徳川慶喜請帰政権、制允之内、外政事親裁之、乃曰、従前條約雖大君名称、自今而後尚換以天皇称、而諸国交際之職、専命有司等、各国公使諒知掻旨。
慶応四年
戊辰正月十日 御名御璽
読み下し
日本国天皇、諸外国帝王及其臣人に告ぐ。嚮者(さきに)将軍徳川慶喜、政権を帰さんと請いたるや、之を制允して内外政事之を親裁せり。すなわち曰、従前條約、大君の名称を用いたりと雖も、今より後は、まさに換うるに天皇の称を以てすべし、しこうして諸国との交際之儀は、専ら有司等に命ぜん。各国公使斯旨を諒知せよ。
先代の孝明天皇は多年にわたって攘夷を望み、開国を是認することを迫られて逡巡してきましたが、明治天皇は、外国に対し「日本に君臨し、統治する存在」として名乗りをあげるとともに、幕府が締結した諸条約の継続を宣言、キッパリ開国を承認しました。
この時点では、徳川慶喜が恭順の意志を伝えてくる前で、鳥羽伏見の戦いに勝利したとはいえ、江戸開城交渉がどうなるかはわかりませんし、状況は不透明でした。
そのなかで、理想の天皇像を創出するために大坂遷都論が提唱され、御所の奥深くに「生きた御神体」として秘められていた天皇を、天下万民の前に姿を現すよう方針転換を図り、それが徹底できずに終わったのは【大久保利通の回】で述べたとおりです。
これから新時代を開いていこうとする日本人にとって、まだ天皇のイメージは曖昧なものでしかなかったといえそうです。
由利公正の当初案
遷都のテストケースを兼ねた大坂への御親征行幸に出る前、明治天皇は天地神明に五箇条の誓いを立てました。日本に民主主義が芽生えたのは、そのときです。五箇条の文案を決定するプロセスが史料から追えるようになっているので、ざっと見ていきましょう。
第一案は、慶応4年1月に福井藩の由利公正が考えた「議事之体大意」というものです。
議事の体大意
一 庶民志を遂け
人心をして倦ま
さらしむるを欲す
一 士民心を一にし盛に
経綸を行ふを要す
一 知識を世界に求め
広く
皇基を振起すへし
一 貢士期限を以て
賢才に譲るへし
一 万機公論に決し
私に論するなかれ
諸侯会盟之御趣意
右等之筋ニ可被
仰出哉 大赦之勅
一 列侯会盟式 一 列藩巡見使ノ式
「議事の体」というからには、この文案を列侯会議に諮ってみましょう、というような「叩き台」なのでしょうね。もちろん異論は出ます。そのための叩き台ですから。
諸侯会盟ではどうか
つぎに土佐藩の福岡孝弟が、以下の修正案を提示しました。
会盟式
一 上ノ議事所ニ於テ
皇帝陛下臨御列侯会同三職出座(衣冠礼ノ如ク坐配議事式ノ如クス但下参与ノ者席ニ列坐スヘシ)総裁職盟約書ヲ捧テ読之(御諱并総裁名印既ニ存ス)列侯拝聴就約
一 総裁職盟約書ヲ読ミ終リ議定諸侯一人宛中央ニ進ミ名印ヲ記ス(本氏ヲ書スヘシ)次ニ列侯同之
一 盟約式終リ列侯退ク次日約書ノ写ヲ以テ天下ニ布告ス
盟約
一 列侯会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ
倦マサラシムルヲ欲ス
一 上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ
皇基ヲ振起スヘシ
一 徴士期限ヲ以テ賢才ニ譲ルヘシ
右ノ条々公平簡易ニ基キ
朕列侯庶民協心同力唯我日本ヲ保全スルヲ要トシ盟ヲ立ル事如斯背ク所アル勿レ
この福岡案では「会盟」とか「盟約」とかいっているので、天地神明に誓うんじゃなくて、ニンゲン同士が約束する形式を想定しています。大政奉還が実現して以来、ずっと目指して来た諸侯会盟(列侯会議)は実現できず、王政復古クーデターをやらなきゃならなかったけれども、鳥羽伏見の戦いに勝って「今度こそ」ということなのでしょうね。しかし、公卿たちは、この案にダメ出ししました。
言ふ迄もなく、此の両案の主意は、孰れも天皇が新政の基本となるべきものに就いて、諸侯と会盟遊ばされると言ふにあつた。されば公卿等はこれ異国の体に倣へるものであり、神武天皇の古に復る神国の体でないとて、大いに反対し、紛議を生じたのであつた。
なんだかノリが西洋臭いので、もそっと日本風にアレンジして欲しいというのです。
木戸孝允の修正案
公卿たちの意向も踏まえ、長州藩の木戸孝允が手を加えて、こうなりました。
会誓式
内容は福岡案のまま題名のみ修正
誓
一 列侯会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ
倦マサラシムルヲ欲ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ宇内ノ通議ニ従フヘシ
一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ
皇基ヲ振起スヘシ
以下福岡案に同じ明治神宮宝物殿 編 『明治天皇と維新の群像』所収の原本画像より
最終的に「列侯会議を」が「広く会議を」に修正されて、完成です。
天地神明に誓った五箇条
慶応4年3月14日(1868年4月6日)、京都御所紫宸殿において天皇臨席のもと、公卿・諸侯が列座するなか、副総裁三條実美が神前に五箇条を奉読しました。
教科書などで見たことあるあるな文言だと思いますけれど……
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ
人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
我国未曽有ノ変革ヲ為ントシ
朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ
大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ
立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ
慶応四年三月十四日 御諱
勅意宏遠誠ニ以テ感銘ニ不堪今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出ベカラズ臣等謹ンデ 叡旨ヲ奉載シ死ヲ誓ヒ黽勉従事冀クハ以テ 宸襟ヲ安ジ奉ラン
慶応四年戊辰三月
総裁名印
公卿各名印
諸侯各名印
なりゆきでそうなったとはいえ、西洋的な色彩を拭い去ったことでオリジナリティーが生じた感じがしますね。
五箇条がもたらしたもの
天皇が天地神明に誓った五箇条は、近代の政治や思想に色濃く影響を与えました。意図したことではないけれど、冒頭の「列侯会議」を「広く会議」に替えたことでグッと応用の幅が広がりましたからね。国会開設を求めた自由民権運動の闘士たちも引用しているくらいですから。
影響を受けたのは明治憲法は無論のこと、現行の日本国憲法を制定する際にも当時の首相、吉田茂は「この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」と述べています。また、昭和天皇の人間宣言においても御誓文の全文が引用されています。昭和52(1977)年8月23日記者会見で、昭和天皇は「民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います」と、人間宣言で御誓文を引用した理由を述べていて、のちのちまで大きな影響を及ぼしていることがわかります。
不安感も率直に
五箇条誓文と同時に国民一般に対する「御宸翰」が示されました。
宸翰とは、天皇自筆の書簡のことです。詔は公表される天皇の声明、勅は天皇の命令です。宸翰は私信であることが多く、本来は公表されるものではありませんが、内容が一般国民を意味する「汝億兆」に対して呼び掛けるものなので、実質的には詔だといえます。
史料の名前を確定したくて大元を辿ってみると、 『稿本詔勅録・巻之一・内部上』(アジア歴史資料センターA04017122900)に入っていて、そこでは単に「御宸翰」と題しています。教養書などでは「億兆安撫国威宣揚の宸翰」と題しているものが多いようですが、明治大帝威徳宣揚会 編 『明治天皇詔勅集 : おほみ心』 (大正9)では、「維新の詔」というタイトルをつけて掲載されています。いずれも内容は同じです。
朕幼弱を以て猝に大統を紹ぎ爾来何を以て万国に対立し 列祖に事へ奉らんと朝夕恐催に堪へざるなり窃に考るに中葉 朝政衰てより武家権を専らにし表は 朝廷を推尊して実は敬して是れを遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果其が為に今日 朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて 朝威は倍衰へ上下相離るゝこと霄壌の如しかゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや今般 朝政一新の時に膺り天下億兆一人も其処を得ざる時は皆 朕が罪なれば今日の事 朕自身骨を労し心志を苦め艱難の先に立古 列祖の尽させ給ひし蹤を履み治跡を勤めてこそ始て 天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし往昔 列祖万機を親らし不臣のものあれば自ら将としてこれを征し玉ひ 朝廷の政総て簡易にして如此尊重ならざるゆへ君臣相親しみて上下相愛し徳沢天下に洽く国威海外に輝きしなり然るに近来宇内大に開け各国四方に相雄飛するの時に当り独我国のみ世界の形勢にうとく旧習を固守し一新の効をはからず 朕徒らに九重中に安居し一日の安きを偸み百年の憂を忘るゝときは遂に各国の凌侮を受け上は 列聖を辱しめ奉り下は億兆を苦めん事を恐る故に 朕こゝに百官諸侯と広く相誓ひ 列祖の御偉業を継述し一身の難難辛苦を問はず親ら四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波濤を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置んことを欲す汝億兆、旧来の陋習に慣れ尊重のみを 朝廷の事となし 神州の危急をしらず 朕一たび足を挙れば非常に驚き種々の疑惑を生じ万口紛紜として 朕が志をなさゞらしむる時は是れ 朕をして君たる道を失はしむるのみならず従て 列祖の天下を失はしむるなり汝億兆能々 朕が志を躰認し相率て私見を去り公義を採り 朕が業を助て神州を保全し 列聖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん
右
御宸翰之通広く天下億兆蒼生を 思食させ給ふ深き 御仁恵の 御趣旨に付、末々之者に至る迄敬承し奉り心得違無之 国家の為に精々其分を尽すべき事三月
総裁
補弼(『復古記』第2冊 p834より)
※この引用部分は『復古記』だと総ルビがふってあって、読みやすいです
ワタクシが肝心だと思うのは「何を以て万国に対立し……」という部分です。孝明天皇が急逝したため、にわかに天皇として践祚して、どうしたら世界各国と対等に向き合えるのか、という不安感をそのまま率直に述べています。
その不安感を具体的に示したのは「独我国のみ世界の形勢にうとく」という部分で、長い海禁政策によって世界の潮流から取り残されてしまったことを問題視しています。
そして「四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波涛を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置んことを」と、国民を安撫(安んじなだめること)して、国威(その国の威勢)を四方に宣布(広く世の中に行き渡らせる)という、新政権の主としての決意を示しています。
まだまだ纏まりのない新政府でしたが、こんな不安感を織り交ぜた決意表明を「天皇の言葉」として発表することが、当時の首脳陣の総意だったわけです。
原文のとおり「万国と対立」というと誤解を招くので、ワタクシは「万国対峙」という言葉を用いて説明することが多いですけれども、治外法権や協定関税など、幕府が残した負の遺産である不平等条約を抱え込んで、国際社会の荒海に船出して、世界万国と対峙しなければならないキビシイ状況をお察しいただきたいところです。
もうひとつ「汝億兆、舊來の陋習に慣れ尊重のみを 朝廷の事となし 神州の危急をしらず」という部分にも着目しましょう。なんでもかんでも旧来の慣習を守り受け継ぐのでは進歩がありません。明治天皇は明治6年春という、かなり早い段階で、髷を切り、顔を白く塗ったり眉を描いたりすることもやめ、洋装をお召しになりました。このように、明治天皇は国民に先んじて新たな歴史を開いてきた人でもあります。そして文明開化という本来はカタチの無いものを、断髪や洋装など、つぎつぎに体現して見せたことにより、あともどり出来ないほどに神格化が進んでいったのだろうなと想像しています。なので、天皇の神格化は「朕は神なり」みたいな中二病的自己肥大とは、まったく異なるところから生じていると、ワタクシは考えています。
五箇条を誓って、なにが起きなかったか
天地神明に誓った五箇条にしても、「汝億兆」に向けて発せられた宸翰にしても、どこをどう読んでも、戦争のさなかにいうような台詞には聞こえませんよね。でも、駿府での江戸開城交渉は決裂して、予備ルートであった勝・西郷による高輪会談が御誓文と同時進行中でした。江戸開城は、まだ決まったことではなかったのです。
この五箇条が戦争中に発表されたことを考えると、まったく意味するところが違って見えます。まだ新政府に従っていない諸藩に対して示したマニフェストなのです。これからは「万機公論」に決することにした、という宣言ですよ。だから新政府に従え、というメッセージでもあります。
まあ、しかし、戊辰戦争は予期せぬ第二幕を迎えてしまいました。旧幕府陸軍は集団脱走して北関東や東北、信越地方に走り、ついには奥羽越列藩同盟が新政府と覇権を争う、東北北越戦争に発展してしまいます。
五箇条の文案を練るあいだ、起草した人も、修正案を出した人も、不朽の名文を生み出そうなどとは考えてもいなかったでしょうが、偶然にも近代史に重大な影響を及ぼすほどのものが出来ました。しかし、短期的な狙いが戊辰戦争の早期終結だったとしたら、これはもう大失敗だったとしかいえません。
徳川宗家に伝えられている『奥州改元大政元年資料』 (東武皇帝の閣僚名簿)によると、奥羽越列藩同盟は輪王寺宮を東武皇帝とし、伊達慶邦を権征夷大将軍とする、あらたな武家政権の樹立を夢見ていたわけで、五箇条で示された民主的理想論など、まるで通じていなかったことがわかります。議会制なんかゴメンだよということです。
戦争はリアリズムの世界であって、ロマンは通用しません。おそらく、五箇条を誓ってみせた主目的だったはずの、キレイな戊辰戦争終結は「起きなかった」のです。
(オマケとして)理想と現実
高らかに新政権の理想をうたいあげた翌日のことです。新政府は3月15日に「五榜の掲示」という禁令を出しました。画期的な政策理念を示したばかりなのに、「五榜の掲示」は切支丹禁令など概ね旧幕府の禁令を引き継ぐもので、たいして変革を感じさせない内容です。きのうは理想、きょうは現実、といったところなのでしょうが、もう戦争のことなど忘れ去ったかのように、戦後統治を視野に入れていたことがわかります。
ちょっと脱線しますが、切支丹禁令の継続については、欧米諸国を大いに失望させました。
政権は交替しても基督教の禁令は従来同様だというので、欧米諸国は当然のように抗議しました。近代国家になるんじゃなかったのかよ、というわけです。この場合「信教の自由」を訴えたというより、基督教こそ文明国に相応しい宗教だという押しつけがましさもあったように思います。
はじめの禁令は「切支丹邪宗門之儀は是まで御制禁の通りかたく可相守候事」でしたが、抗議を受けて「一、切支丹之儀は……」とし、そのうしろに「一、邪宗門之儀は……」と、項目を分けました。
なんの意味かというと、切支丹を邪教と同一視していたのを「邪宗門とは別扱い」にしたことになるわけです。
さあ、基督教を邪教と看做すのはやめたので、禁教に対して御理解ください……それで納得できるわけがないのです。
幕末から明治維新を跨いだ弾圧事件の「浦上四番崩れ」があって、まさに禁教は時事問題でした。明治4年から岩倉使節団が欧米諸国を歴訪しておりますが彼らは「切支丹弾圧は不平等条約改正に差し障る」という具合に空気を読み、その結果、明治6年から高札を撤去して信仰を黙認するようになりました。なお、正式に基督教の信仰を公認するのは明治32年のことでした。(オシマイ)
アイキャッチ画像:明治天皇(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)