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読み物
Culture
2021.08.16

竜宮への手紙を海に投げ入れた!?豊臣秀吉に学ぶデキるリーダーのパフォーマンス術

この記事を書いた人

「豊臣秀吉のコト、よく書かれていますよね」
取材先から、そんなコメントを頂くことがある。

取材の申し込みにあたり、恐らく参考資料としてライター名や過去の記事のURLなどを掲載するからだろう。自分でも全く意識していなかったのだが。客観的に、過去の記事を一覧でチェックしてみると。

なるほど。
確かに、多い。

戦国記事の中でも、とりわけ「豊臣秀吉」の登場回数はダントツ。そのパターンも様々で、秀吉1人に焦点を当てることもあれば、他の戦国武将との絡みを取り上げたものも。ちなみに、「徳川家康」の登場回数も多いことにも驚いた。逆に、そこまで回数を伸ばさなかったのが「織田信長」。

それにしても、一体、この差はなんなのか。
どうして、こんなにも「豊臣秀吉」を多く取り上げてしまうのか、その理由を考えた。

じつは、私が題材を選ぶ基準は1つだけ。
猛烈に「書きたい」と思えるかどうか。

この人を、この出来事を、是非とも読者の方に知ってもらいたい。根底にあるのは、もちろんそんな思いだ。けれど、それだけでは足りない。その事実に対する自分の強い反応、それがプラスでもマイナスでも構わないが、常にリンクされる感情が必要なのである。

そういう意味では。
「豊臣秀吉」は、私の感情を揺さぶる「何か」を持っているのかもしれない。

芳年『月百姿 しつか嶽月 秀吉』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

さて、そんな秀吉だが。
今回も、やはり、彼はやってくれました。
詐欺スレスレの行為から、手段を問わない場の収め方まで。彼が名パフォーマーとの評価を受ける所以が、なんとなくだが、この記事で理解できるのではないだろうか。

それでは、「秀吉あるある」の珍事件簿。
早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、歌川豊国(3世)「桑名浦島浪乙姫」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
※この記事は「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

あわわ。それって詐欺の手口じゃ…?

下剋上の世で、戦国大名が生き残るには、まず戦に勝ち続けるコト。それができりゃ苦労しねーわという野次は、もちろん想定内。ここで議論したいのは、さらに次のレベルでの話。どうすれば勝つことができるのかというコトである。

言わずもがな、トップである戦国大名の采配も重要だ。
しかし、なんといっても、現場である彼ら軍勢の力がとてつもなく大きい。だって、戦況をひっくり返すことができるのも、全ては現場の腕次第。というか、現場の士気次第だからである。

なお、軍勢の士気を上げるには。
まず、彼らのハートに火をつける。そして、互いの結束力を高める。そんな熱い志の「個」が集まって「集団」が形成される。それも「必ずこの戦に勝利できる」という狂信的な集団だ。

このプロセスの実現は非常に厄介で。そのために行われるのが、出陣の儀式の数々。いわゆる、験担ぎ(げんかつぎ)である。

他方、それだけでは足りないことも。
例えば、圧倒的な兵力差や不利な状況など、ネガティブな側面が大きい場合である。マイナスからの出発点を、見事、プラスへと転じさせる。そんな曲芸ができるのは、ある1つの条件が満たされる場合であろう。つまり、自分たちだけではない。尋常ならざる「神の力」が働いているのだと信じた場合である。

人は、それを「奇跡」と呼ぶ。

ちなみに、真偽は不明だが。これまで戦国大名の多くが、実際に「奇跡」を体験している。今回、ご紹介するのも、そのうちの1つ。

豊臣秀吉が、安芸国(広島県)の厳島神社へ参詣したときの話である。

歌川広重(3世)筆 「日本地誌略圖」「五十四」「安藝國」「厳島圖」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

『名将言行録』によれば、参詣したのは天正20(1592)年4月。

天正20(1592)年といえば。ちょうど、かつての主君である織田信長が「本能寺の変」で自刃した10年後ということになる。じつに、この10年で戦国時代は様変わりした。一番大きい変化は、織田信長の家臣の1人であった豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が、天下人となったコトだろう。

それだけではない。
秀吉が異国の地へと手を伸ばした年でもある。

「唐入り」とも呼ばれた「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」。
「明国(当時の中国)」征服のために、2度に渡って、朝鮮に兵を出した侵略戦争のコトである。天正20(1592)年から慶長3(1598)年まで長期間続いたのだが。とにかく、無謀ともいえる計画性ゼロの出兵で、日本軍は大疲弊。秀吉の死により、ようやく撤兵が決定する。

そんな悲惨な結末を迎える「唐入り」だったが。
出兵直後の時期だろうか。秀吉は、厳島神社にてある占いのようなものを行っている。どのような内容のものかというと。『名将言行録』には、このように記されている。

「秀吉は安芸に行って、厳島神社に詣で、百枚の銭を投じて占っていうには『私が明に勝つようなら銭の表が多く出るように』といいながら投げられた。すると銭はみんな表ばかりでた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

うん?
これって、賽銭で占ったってコト?
で、100枚の貨幣が、全て表?

スゴイ、奇跡だ。
と、感心するのは、早計だ。

なんといっても、占ったのは、あの「豊臣秀吉」である。
とにかく、アッと驚かせることに長け、心理戦では負けなしというほどの曲者である。ホントに、奇跡など起こったのだろうかと訝しむ。だって、「唐入り」は散々な結末を迎えるし。勝ったとは到底言い難い状況である。

おっと、失礼。
この先があるではないか。続きをみてみると。

「これは前々から二つの銭の裏を糊で貼りあわせておいたのである」
(同上より一部抜粋)

もう、なんだかな。
落語のようなオチに、一同苦笑。詐欺スレスレの舞台裏である。

それにしても、ただ騙すのではない。タネ明かしをするところまでが1セット。いかにも秀吉らしいという感じではないだろうか。

なんなら、全部表が出たという結果も。
ハッキリ言って、やり過ぎだ。現実離れした「創作」臭がぷんぷんする。

けれど、この「やらせ感」が、逆に、秀吉の人柄を表すような気がしてならない。結果までもコントロールできるという「驕り」と、すぐにバレるくらいのシンプルさが「ご愛嬌」。両者が共存するバランス感覚はさすがといえる。

人間のニーズを見抜く天才

さて「秀吉あるある珍事件簿」のお次はというと。
摩訶不思議な豊臣秀吉の手紙。コチラをご紹介したい。

天正18(1590)年は、彼にとって大きな節目となる年でもある。天正13(1585)年に「関白」となった秀吉は、四国、九州を順次征伐。こうして、迎えたのが天正18(1590)年。徳川家康ら臣従した諸大名を動員して、北条氏のいる小田原攻めを行ったのである。

今回、ご紹介する手紙は、どうやら、この小田原攻めの最中に書かれたモノのようだ。宛先はというと。

驚きの「竜宮」。

月岡芳年 「芳年漫画」「浦島之子帰国従竜宮城之図」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

竜宮って……。
まさか、浦島太郎が行ったとされる、あの竜宮?

どうやら、そのまさかである。それにしても、なんでまたと、そんな疑問を持つ人も多いだろう。ちなみに、私もそのうちの1人。秀吉は、どうして、竜宮なんぞに手紙を出したのか。

それでは、状況からご説明しよう。
小田原に向けて船を回すときのこと。なんでも、現地の船頭らはある1つの噂を信じ切っていた。

「近江の御前崎は、昔から馬はいうまでもなく、馬具も船に乗せない、もしあやまって馬の皮でこしらえたような器が船中にあれば、かならず破損することもたびたびであった。そういうわけだから、つつしんで馬という語も使わぬように忌み嫌うといい伝えている」
(同上より一部抜粋)

経緯は不明だが、なんでも、かの地では「馬」と「船」の相性が悪かったとか。馬、馬具はもちろんのこと、馬の皮の器に至るまで。というか、そもそも「馬」という言葉自体を敬遠していたというのである。

これには、秀吉も困り顔。
天災を心配する彼らの気持ちが分からないでもない。というのも、昔からの言い伝えは、何かしらベースとなる「事実」が実際に起こっていることが多いからだ。一笑に付すこともできたのだが。それでは、何の解決にもならないワケで。

最初は、ほんの偶然だったのかもしれない。だが、それが続けば、自然と疑惑が生じるのも当然だ。その疑惑は次第に膨れ上がり、本来の「船頭の実力」をも封じ込めることになる。100%の実力を出し切れば乗り切れる海の状況も、モチベーション次第では事故に繋がってしまう。

こうなれば、一体、何が原因か分からない。
本当の「罰当たり」的な結果の末に船が転覆するのか。それとも、罰当たりを恐れるあまり、本来の操縦技術を発揮できずに転覆するのか。

この状況を打開するため、思いついたのが「手紙」。

話を聞いた秀吉は、スラスラと紙に書きつけて、船頭に渡したというのである。
そのセリフが極めつけ。

「これを竜宮に届ければ難はないはず」
(同上より一部抜粋)

いや、待てよ。
まず、竜宮にどうやって届けるんだというところから、大いに疑問炸裂。

しかし、そこは、天下人の秀吉。
些細なコトなど気にしない。有無を言わせず、船を出発させたとか。

こうして、船頭らは半信半疑で出発。途中までは順調に進んでいくのだが。やはり、言い伝えの地点で急に天候が崩壊。風雨雷電が激しくなったというのである。日中にもかかわらず、辺りは暗くてヤバい状態。

そこで、船頭はというと。
秀吉から渡された紙片を、えいやっと海に投げ込んだのである。ちなみに、注意しておくが、断じて捨てたワケではない。「なんやこれ、そんなもん効くかいな(笑)」ではないことを、書き足しておこう。

海に入れると、あら不思議。
急に、何事もなかったかのような「静けさ」を取り戻したという。こうして、彼らは恐れる気持ちを払拭して、航海を続行することができたとか。

ちなみに、気になるのが。
秀吉が書いたとされる書状の内容。それが、コチラ。

「その竜宮への書状には『こんど北条氏を誅伐するために、私は船を相州小田原に赴かせる。難なくお通し下さい。竜宮殿、太閤』と書かれた。これで愚昧な船頭どもはみな疑いおそれる気持ちをぬぐい去った」
(同上より一部抜粋)

思いっきり予想を外して。
嘆願やん。

そんな感想をお持ちの方も多いはず。あの秀吉のコト。てっきり、船を通さなくば……みたいな脅迫的な態度でくるかと思ったのに。案外、シンプルでストレートな内容で驚いた。

結果的には、実際に海の荒れ模様も収まったというのである。やはり、信じる者は救われるのだろうか。もちろん、船頭らの迷信を否定するのではなく、彼らに寄り添って解決した秀吉も評価されるべきだろう。相手のニーズを読み取る力は、さすがである。

これで「終わり良ければすべて良し」としたいところなのだが。1点、もやもやと引っ掛かるコトが。それが、最後の「愚昧な船頭ども」という部分である。せっかく、秀吉は名パフォーマーだったねえと、褒めて結びの言葉にしようと思ったのに。

ここで、隠された本音が露わとなる。
──そんな手紙、本気にするなんて
──ただの迷信を、大げさにするから

秀吉の本音か。
それとも、この逸話を書いた作者の本音か。いや、後世で編集されという可能性もある。誰の意図なのかは分からないが。明らかに「秀吉に騙された船頭」という前提で書かれている。

騙す方も騙す方だが、騙される方も……。
そんな冷めた視点での総括が、なんとも後味の悪い印象を残すのであった。

それにしても、である。
マイナスの感情も、プラスの感情も。
ざわざわとかき立てるのは、やはり、彼しかいない。

最後に。
今回の記事を書いてみて、改めて気付いたことがある。

「豊臣秀吉」は。
気まぐれな私の筆を支えてくれる有難い存在なのだと。

パソコンを閉じながら、そう確信した。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月など
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。