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2021.09.19

実は戦争反対!勝海舟とはどんな人?77年の生涯を解説

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「私、まだみんなに言ってないことがあって……」
大学時代、とある友人が神妙な面持ちでこう言いました。

恋人でもできたのかと身を乗り出せば、
「実は私、勝海舟(かつかいしゅう)の子孫なんだ」
え⁉︎ なにそれ!
はじめて目の当たりにする「歴史上の人物の子孫」にみな大興奮。
その場ではひとしきりはしゃいだものの、あれ? 勝海舟って何をした人だっけ?
その疑問を特に解決するでもなく、月日は流れ、あの子元気にしているかな……?

スゴい!勝海舟の子孫!今までそんな人に会ったことないなぁ。

そんなわけで、和樂webの幕末記事にもしょっちゅう登場する勝海舟がどんな人生をたどり、何を成し遂げたのかをまとめました。

海軍練習生時代の勝海舟(国立国会図書館デジタルコレクションより)

生まれは身分の低い旗本

勝海舟は文政6(1823)年、現在の墨田区で生まれました。
勝家は、旗本とはいえど役職のない、小普請(こぶしん)と呼ばれる組織に属していました。そのため暮らしぶりは庶民的だったそうです。

恵まれた環境ではなかったのですね…….。

まさに文武両道!蘭学知識で役職を掴み取る

剣術修行に専念していた勝海舟は、20歳のころ免許皆伝を受けます。それと同時に西洋兵術の勉強も始め、熱心にオランダ語の書物を書き写したことで有名になりました。
20代後半で赤坂に蘭学の私塾を開きますが、ペリー来航後、たびたび幕府へ意見書を送ったことがきっかけでその識見を知られるようになります。
幕府の目に留まった勝海舟は、洋学研究機関(蕃書調所)のオランダ語翻訳スタッフに任命され、続いて長崎の海軍養成所でオランダ人に学ぶチャンスを与えられるなど、立て続けに役職をゲットします。

身分に関係なく、有用な人材の登用や、軍艦の建造などを提言する意見書だったとか。勇気もすごいし、幕府の目に留まるほどの内容だったんですね!

アメリカに学び、人材育成を志すも…

長崎でみっちりと航海術を学んだのちは江戸に戻り、築地の海軍学校(軍艦操練所)の頭取となります。
そして万延元(1860)年、日米修好通商条約を結ぶ使節のために、咸臨丸(かんりんまる)の艦長として日本人による初の太平洋横断に成功したのです。
アメリカの近代社会をその目で見てきた勝海舟は、軍艦奉行に昇進し、倒れかけた幕府の中で海軍創設に尽力します。
文久2(1862)年、長崎にあらたな海軍学校(海軍操練所)を開き、国防のための人材育成の場として、幕府の家臣だけではなく、坂本龍馬をはじめとする攘夷派の脱藩志士も教育しました。
このことが問題視され、翌年には免職となってしまいますが、この間に、木戸孝允 (きどたかよし) や西郷隆盛 (さいごうたかもり) と接触し、影響を与えたと言われています。

早くから海外へ目を向けていたからか、視野の広い人物だったのかも?志を持つ坂本龍馬や、西郷隆盛と、強い絆で結ばれていたのでしょうね。

渦中を行ったり来たり。ついに無血開城へ

慶応2(1866)年、難航した幕朝戦争の後始末のために軍艦奉行に復任。大坂で薩摩藩と幕府との紛争の調停や、宮島で長州藩との停戦交渉を行うなど、幕府のために奔走しますが、新たに構想した政策をめぐり、最後の将軍となる徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と対立してしまいます。

幕府の主戦的な流れから孤立した勝海舟は、江戸での日常業務へと戻りますが、あれよという間に時代は慶応4(明治元、1868)年へ。
慶喜による形式的な大政奉還を受けた朝廷方と幕府方との武力衝突から、戊辰戦争が始まっていきます。
初戦である鳥羽・伏見の戦で敗れた慶喜から後始末を依頼された勝海舟は、戦を続けようとする幕臣をなだめ、新政府派の西郷隆盛と和平交渉を行います。
これが江戸総攻撃予定日の前夜だったため、無血開城と呼ばれているんですね。
勝海舟45歳の春でした。

敵味方を超えた勝海舟と西郷隆盛の絆のお蔭で、穏やかな幕引きになったのですね。

明治政府にも出仕、戦争反対を貫いた

新政府発足後、しばらくは新政府からの誘いを断り、静岡を拠点に新旧政権間の引き継ぎ業務や、廃藩置県など政策への進言を行っていました。
明治5(1872)年、海軍大埔就任を機に東京に居をうつし、3年ほど官職を務めるも辞任。
政権を離れて以降は、政界の陰の相談役として重要な地位を保ちながら、徳川家の後見人として隠居した慶喜の面倒を見たりもしています。
また旧幕臣の生活救済や、逆賊となってしまった西郷の名誉回復にも心を配っていました。

明治21(1888)年、憲法を扱う枢密院の顧問官に就任し、政府への活発な意見を再開します。
海軍の祖である勝海舟ですが、朝鮮出兵には終始反対し、日清戦争も批判的でした。

明治期の勝海舟(国立国会図書館デジタルコレクションより)

晩年は旧幕時代の歴史や記録を執筆・編集し、『開国起原』『吹塵録』がそれぞれ生前に刊行されています。
明治32(1899)年1月19日、現在の大田区南千束にある別荘で、勝海舟は77歳の生涯を閉じました。

お墓は洗足池公園にあり、妻 民子とともに葬られています。

生涯、国や人のために尽力したのですね。戦いに負けた西郷隆盛の名誉を挽回したり、将軍ではなくなった慶喜をずっと気に掛けたり、義理堅さや人情味を感じます。

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渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる!慶喜をめぐる二人の暗闘 (朝日新書)

参考文献
吉川弘文館『国史大辞典』
平凡社『世界大百科事典』
小学館『日本大百科全書』

書いた人

平成元年生まれ。コピーライターとして10年勤めるも、ひょんなことからイスラエル在住に。好物の茗荷と長ネギが食べられずに悶絶する日々を送っています。好きなものは妖怪と盆踊りと飲酒。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。