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この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)

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Culture
2021.09.24

オランダ国書を見た黄門さま——幕末維新クロニクル1846年3月

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 幕末・維新期の様々な出来事を網羅している『維新史料綱要』という書物を元に、日常の出来事も、画期的な出来事も、漏れなく御紹介します。そして、気になる出来事については、ちょっとずつ解説をつけて参ります。
 何処の大名が参勤交代で江戸に出て来た、というような特記すべきでもないようなことも、あえて省略しません。ツマラナイ日常があってこそ、歴史の転換点が際立つからです。
 今回は弘化3年2月13日(1846年3月10日)から、弘化3年3月末までです。その間の日常と非日常、あるいは迫り来る大事件の予感など、とくと御覧くだいませ。

※サムネイル画像は「徳川斉昭肖像」(京都大学附属図書館所蔵)部分

弘化3年(1846)丙午

 阿片戦争(1840年6月28日 – 1842年8月29日)によって、東アジアの安全が脅かされた時期です。頻りに外国船が日本近海に出没、江戸湾にまで入ってくるようになりました。目に見える形で、日本に外圧が迫ってきています。

2月(小の月)

 江戸時代に使用されていた「太陰太陽暦」は月の満ち欠けに合わせて新月が朔日、満月が15日になるようにつくられます。月の満ち欠けの周期は約29.5日なので、1ヶ月が30日の大の月と、1ヶ月が29日の小の月を作って調節していました。地球が太陽のまわりをまわる公転周期は約365.24日で、大小の月の繰り返しでは、だんだん暦と季節とがズレを生じて合わなくなってきます。そこで19年に7回の閏年を設け、閏年には、いずれかの月が2回設けられて13ヶ月になります。弘化3年は5月の後に閏5月があって、そのつぎに6月が来ます。大小の月の並び方は、毎年、次の年の暦を計算して決定するので、年ごとに替わりました。

13日(1846年3月10日)

皇太子統仁親王、践祚ス。

是ヨリ先、正月26日仁孝天皇崩ズ。宝算47。大喪ヲ秘シ、関白鷹司政通ヲ摂政ニ准ズ。2月5日東宮踐祚ヲ宣布ス。翌6日大喪ヲ発シ、剣璽渡御ノ儀ヲ行ヒ、踐祚・諒闇・凶事ノ諸司ヲ定ム。3月朔日諡号ヲ上ル。同4日遺詔奏、朝ヲ廃スルコト5日、是夜泉涌寺ニ葬ル。

 統仁親王すなわち孝明天皇は、仁孝天皇の第四皇子として天保2年6月14日(1831年7月22日のお生まれで、はじめ煕宮(ひろのみや)と称せられました。
 さる1月26日に仁孝天皇(46)が崩御あそばされ、しばらく大喪を秘し、2月6日に大喪を発して剣璽渡御の儀を行いました。
 剣璽とは、三種の神器のうちの剣と璽(天叢雲剣と八尺瓊勾玉)のことです。剣璽は常に天皇とともに移動する建前で、明治以降は泊まりがけの行幸に際し、侍従が剣と璽を携えて随行しています。現在は限られた事例でのみ、剣と璽が宮中から持ち出されるようです。なお、剣のオリジナルは熱田神宮の御神体、鏡のオリジナルは伊勢神宮の御神体であり、宮中に伝わるのは形代(レプリカ)です。璽については宮中に伝わっているのがオリジナルだとされ、壇ノ浦合戦で安徳天皇入水の際には、源氏によって回収されています。(その際、剣の形代は失われ、伊勢神宮から献上された替わりの剣を形代にしているといわれます)
 そして、この13日に孝明天皇が践祚あそばされました。践祚とは、天皇の位に就くことです。国の内外に、新たな天皇が皇位に就いたことを示す「即位大礼」は、別の儀式として後日あらためて行われます。仁孝天皇は3月1日に諡(おくりな)されたあと、13日夜、泉涌寺に葬られました。

准摂政鷹司政通「太政大臣」ヲ関白ト為ス。

参議野宮定祥「左近衛権少将」ヲ議奏加勢ト為ス。

15日

佐野藩主堀田正衡「摂津守」・小田原藩主大久保忠愨「加賀守」・安中藩主板倉勝明「伊予守」・烏山藩主大久保忠保「佐渡守」・一宮藩主加納久徴「備中守」・荻野山中藩主大久保教義「長門守」就封ニ依リ、各登営ス。

 就封とは参勤の期限を迎えて帰国することをいいます。また、登営(とうえい)とは、幕府に出仕することを意味していて、江戸城に登城することです。

18日

是ヨリ先「朔日」前水戸藩主徳川斉昭「景山・前権中納言」老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」ニ蘭国国書及幕府返翰ノ内閲ヲ求メ、蝦夷地ヲ幕府直轄ニ移サンコトヲ警告ス。正弘、内閲ノコトヲ諾ス。是日、斉昭、正弘ニ蘭国国書及幕府返翰ニ関スル所見ヲ陳述シ、併セテ対外意見ヲ披瀝ス。29日亦同ジ。

 水戸の御隠居さま徳川斉昭が、オランダから届いた「国書」と、それに対する幕府からの返書を「ナイショで見せてくれないか」と、かねて老中の阿部正弘に申し入れていたところ、この日、それが実現し、正弘は斉昭から意見を受けています。29日にも同様のことがありました。
 オランダからの国書は『和蘭告密』と呼ばれ、日本に開国を勧告するものでした。幕府は天保13年(1842)に薪水給与令を発し、漂着した外国船に食料や燃料を供給することを認め、それまで問答無用に外国船を追い返していた異国船打払令を緩和していました。隣国で起きた阿片戦争に衝撃を受けたためです。こうした経緯から、オランダ国王ウィレム2世は「この機会に開国すべし」という内容の国書を送り、天保15年(1844)7月、特使コープスによって長崎へ届けられていました。幕府は、この勧告を丁重に謝絶しています。

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」弟直弼「鉄三郎・後掃部頭」ヲ養子ト為ス。

 大名は世継ぎがいないまま世を去ると、御家断絶になってしまいます。男児に恵まれなかった殿様が、弟を養子にして世継ぎとすることは普通にあることでした。彦根の殿様は直弼とは別の弟を世継ぎに定めていましたが早くに死去したため、あらためて直弼を世継ぎにしました。

23日

是ヨリ先、右大臣九条尚忠ノ女夙子ヲ皇太子統仁親王ノ妃ト定ム。親王踐祚ノコトアルヲ以テ、是日、御息所ノ称ヲ女御ニ代ヘシム。

 御息所(みやすどころ)は親王妃のことで、統仁親王が践祚あそばされたので、この日から女御(にょうご)と呼ぶことになりました。のちの英照皇太后さまです。

28日

館林藩主秋元志朝「但馬守」参府ニ依リ、唐津藩主小笠原長国「佐渡守」・福江藩主五島盛成「左衛門尉」・佐貫藩主阿部正身「駿河守」就封ニ依リ、各登営ス。

 参府とは、参勤交代で江戸に来ることです。就封は帰国することです。

是月

 何日に起きたことか定かでないけれど、この月に起きたっぽいことを、その月の最後に「是月」として掲げています。

韮山「伊豆」代官江川太郎左衛門「英竜」海防意見ヲ幕府ニ上ル。

 江川太郎左衛門は韮山代官の世襲名です。いくつもの飛び領地を管轄しています。伊豆国にとどまらず、駿河国・相模国・武蔵国に所在する幕府領も支配していました。英竜は蘭学に造詣が深い人でした。西洋を嫌うあまり蛮社の獄で蘭学者を弾圧した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と対立しつつ無傷で過ごせるだけの政治力も持っていました。

萩藩主毛利慶親「後敬親・大膳大夫」倹素励行ヲ有司ニ諭ス。

 殿様が「倹約に励みましょう」というのだから、この時期の長州藩は財政難だったのかな?

金沢藩、領内海岸ニ遠見番所ノ設置及宇出津演砲場ノ補修ヲ命ズ。

 金沢藩は、加賀藩ともいう100万石の大藩です。日本近海に外国船が出没するようになったので、沿岸部で警戒を強めています。

3月(大の月)

2日

准大臣日野資愛「従一位」薨ズ。

 薨は、身分の高い人が亡くなることです。

7日

倚廬殿ニ渡御シ、錫紵ヲ著御ス。

 倚廬殿(いろでん)は、天皇が父母の喪に服するときにこもる仮屋のことです。錫紵(しゃくちょ)は、浅黒色の細布で作った闕腋(けつてき)の袍(ほう)で、天皇が二親等以内の親族の服喪の際に着用するものです。闕腋の袍は、両わきの袖付けの下を縫い合わせないで開け広げたままの袍のことです。

17日

征夷大将軍徳川家慶「従一位左大臣」踐祚奉賀ノ為、高家大沢基昭「右京大夫」ニ上京ヲ命ズ。

 家慶は徳川12代将軍です。

18日

錫紵ヲ脱御シテ諒闇服ヲ著御シ、倚廬殿ヨリ本殿ニ還御ス。

諒闇(りょうあん)は、天皇が父母の崩御にあたり喪に服する期間のことをいいます。その期間に天皇が着用するのが諒闇服で、地味な色合いに染められた服だったとされます。

19日

前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」曩ニ関白鷹司政通「太政大臣」ニ頼リテ、八洲文藻・丙丁録ヲ上ル。是日、斉昭、復タ政通ニ書ヲ贈リテ、新帝輔導ノ議及皇族帰仏ノ弊ヲ論ジ、添フルニ藩士会沢恒蔵「安」編述ノ迪彜編ヲ以テス。

 またまた登場、水戸の御隠居です。行き過ぎた藩政改革を幕府から咎められ、隠居謹慎の憂き目に遭ったのが弘化元年(1844)のことで、なにをやらかしたかというと、仏教を抑圧して神道を興隆させようとしたのですが、その手段たるや、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料にするなど、過激なものでした。処分を受けても神道への熱は冷めず、 このとき「皇室の葬礼が仏式で行われている現状はよろしくない」という意見を、関白に訴えています。その際、水戸学の重鎮たる会沢正志斎の著作を添えました。水戸学は、武家社会の基礎的教養だった儒学に、国学や神道の考え方を加味した一種独特の哲学で、尊皇攘夷思想の源流です。

20日

幕府、尼崎藩主桜井忠栄「遠江守」ノ居城罹災ニ依リ、金参千両ヲ貸与ス。

 尼崎城は本丸御殿が全焼したので、幕府から3000両の貸与を受け、一年も経たないうちに再建しています。幕府から出たヒモ付き予算が入ってますから、早く再建しないと、別件への流用を疑われるでしょうしね。

22日

幕府、韮山「伊豆」代官江川太郎左衛門「英竜」ニ命ジ、伊豆七島ヲ巡視セシム。

24日

幕府、納戸頭中島真宰「平四郎・後佐渡守」ヲ以テ佐渡奉行ニ補ス。

幕府、高松藩主松平頼胤「讃岐守」ノ帰藩ヲ停ム。

 高松藩は水戸徳川家の分家筋にあたります。徳川斉昭が隠居させられたあと、頼胤は幕府に水戸藩の後見を命じられていました。水戸の御隠居様がちっともおとなしくしていないので「しっかり見張っていろ」ということで、帰国を差し止められてしまったのでしょうね。

27日

音奏警蹕ヲ元ニ復シ、吉書御覧ノ儀アリ。

 音奏は「禁中で声を上げて時刻を告げること」で、警蹕(けいひつ)は「声を上げて天皇の出入りを告げること」です。皇室で、だんだんと服喪による制限が解除されていきます。吉書御覧は、物事の始めを祝う儀礼の一つで、孝明天皇が践祚してから、このとき初めて奏聞を受けました。

28日

幕府、駿府城代小笠原信名「豊後守」ヲ転ジテ側衆ト為シ、大番頭本多忠興「対馬守」ヲ以テ之ニ代ヘ、大目付土岐頼旨「丹波守」ヲ大番頭ト為ス。

是月

寄合筒井政憲「紀伊守・後肥前守」 海防意見ヲ具シテ幕府ノ諮問ニ対フ。

 筒井政憲は長く南町奉行を務めた旗本でしたが、幕閣の権力争いに巻き込まれ、このときは無役に退けられていました。しかし、学識を高く評価されていたので、将軍・徳川家慶に進講したり、幕政に意見を求められたりしていたのです。このときは「海防」に関する諮問に応じました。

水戸藩士住谷寅之介「信順」 和歌山藩主徳川斉順「権大納言」ニ頼リ、前藩主徳川斉昭ヲシテ再ビ藩政ニ与カラシメンコトヲ歎願ス。

 水戸藩士の住谷寅之介が、隠居させられた徳川斉昭を「再び藩政に関与させて欲しい」と、 紀伊家の徳川斉順を頼って嘆願しています。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。