大阪は今も昔も商業がさかんな街です。400年ほど前の江戸時代は、「天下の台所」と異名で呼ばれるほどでした。
中でも大阪市北区の堂島川と土佐堀川に挟まれた中州・中之島は、物流や商業の中心地の役割を担いました。全国各地の蔵屋敷が設けられ、生活物資の多くが一旦生産者から集められ、再度全国の消費者へと送られていたのです。またこの地は、大阪商人たちが集まり、新たなビジネスが編み出される活気に満ちた場所でもあったようです。
目を引くレトロモダンな佇まい
現在の中之島は、市庁、日本銀行大阪支店、図書館などがあり、大阪市の行政や経済、文化の中心地になっています。その中でも、ひときわ目立つ華やかな建物が、大阪市中央公会堂です。
大正7(1918)年、東京駅などを設計した辰野金吾の指導で造られました。ネオ・ルネサンス様式の外観、天井画のある特別室、ステンドグラス、シャンデリアなど、当時の職人の技術を結集。平成14(2002)年には、国の重要文化財に指定されました。貴重な建物ですが、貸館として市民が利用できるのが特徴です。それは、1人の大阪市民の思いが、受け継がれている証拠でもあります。
私費を投じた岩本栄之助とは
大阪市中央公会堂は、北浜の風雲児といわれた株式仲買人・岩本栄之助の寄付金を元にして建てられました。その金額100万円は、現在の数10億に当たる大金です。
栄之助は、明治10(1877)年に大阪で両替商を営む岩本家の次男として生まれました。両替商とは、両替および金融を主な業務とする商店のことです。栄之助の父の栄蔵は、一代で両替商『銭屋』を立ち上げた苦労人です。口数は少ないけれど実直な人柄の栄蔵は、周囲から信用の厚い人物でした。
栄之助が誕生した時期、渋沢栄一らによって東京株式取引所の設立願いが出されて、認められます。呼応するように五代友厚(ごだいともあつ)※1らの働きかけで、大阪株式取引所も設立免許がおります。この大阪の株式仲買人の人数は限定されていましたが、栄蔵の『銭屋』もメンバーに加えられました。鴻池(こうのいけ)※2や、住友※3も共に一員だったと記録にあります。
岩本家には跡取りの長男がいましたが、急死したために、栄之助が『銭屋』を継ぎます。栄蔵は、日露戦争から帰還した栄之助の姿に安堵して、家督を譲ったのでした。こうして大阪の株式仲買人となった栄之助のことを、周囲は「曲がったことが嫌いな剛毅な性格」と評したそうです。ただ骨太だけではない、どことなく温かみのある性格は愛されてもいました。
義侠の成り行き売り
栄之助は『銭屋』から『岩本仲買店』と名前をあらためて、家業に取り組みました。当時は「成金」や「一攫千金」の言葉が踊るような、熱狂相場でしたが、父譲りの冷静沈着さで手堅く対応していました。
明治40(1907)年、激しい暴騰の波は引くことがなく、大株の棒立ち相場※4が続きました。地場筋(じばすじ)※5と呼ばれる大阪市場の株式仲買人は、いずれ暴落すると見越して大半が売り方にまわっていました。しかし株価は下がらず困難な状況に追い込まれます。相場損方が支払う追加金の請求から逃れるために、あてどなく街をうろつく人もいる始末でした。
相場では大別して買い方か、売り方に分かれます。買って儲けるのが買い方で、100円で買った株が200円に上がれば、差額の100円が利益になります。相場が上がれば上がるほど、利益が大きくなります。その逆に売って儲けるのが売り方です。200円で売った株を、100円に下がった時に買い戻せば、差額の100円が利益になります。相場が下がれば潤う訳です。
破産寸前となった地場売り方の代表10余名が、栄之助を訪ねてきます。栄之助は大阪株式取引所の大株主でした。彼らは、「持ち株を売ってほしい」と申し出たのです。株の買いで得た利益を吐き出して、株価を下げて欲しいという常識外れの願いではありました。
30歳の若き株式仲買人の栄之助は、同業者の必死な願いに心を揺さぶられ、売ることを決意します。「どうなるかわかりませんが、やってみましょう」。栄之助は自ら市場に立って「成り行き売り」に打って出ました。「成り行き売り」とは、値段を指定しないで、その時の相場で売ることを指します。棒立ち相場が続く中で相当の覚悟がいる行動でした。全資力を投じて激しく売り続ける栄之助。自身も破滅するかもしれない、まさに一世一代の大勝負でした。
栄之助が義侠成り行き売りを行うと相場の空気が変わり、東京市場では、大株主の大売りが発せられたとの情報が飛び込んできました。この機を読んだ大阪の相場師は、次々に売りにまわり始めます。売りは売りを呼び、買い方は総崩れとなって、株価は急激に下落しました。株の女神が微笑んだ瞬間でした。
瀕死の状態だった大阪市場の地場筋たちは、栄之助によって救われ、莫大な利益も得ます。その中には、友人の野村商店の徳七※6も含まれていました。一方の栄之助も地場の売り方と徳七を救い、思いがけない巨利まで手に入れることになったのです。
渋沢栄一と共にアメリカへ
栄之助の義侠心に溢れた勇敢な行動は、東西の市場で讃えられました。株界のスターとしてもてはやされましたが、「勝ちすぎるのも良くない」と諭す父の言葉もあって、栄之助はうわつくことはありませんでした。得た大金を、いつか人のために役立てたいと考えます。
周囲の喧騒もどこ吹く風で、地道にボランティアで教育に取り組みはじめます。当時の株式仲買人たちは勉学を重要視されずに、ほとんどが小学校卒業か中学校の中退者ばかり。栄之助は取引所で働く少年たちのために私塾を作り、自らも講師として経済学などの授業を受け持ち、熱心に指導しました。
明治41(1908)年、アメリカ太平洋沿岸の商業会議所メンバーが来日し、東京や大阪の都市を視察して回りました。日本の熱烈な歓迎に感激したお礼に、翌年には日本の主要な商業会議所の議員がアメリカに招待を受けます。この渋沢栄一を団長とする渡米実業団の一員に、栄之助は選ばれたのです。今や大阪財界を代表する1人となった栄之助は、豊かな大都市アメリカの姿に驚きます。また、公共施設建築のために富豪たちが私財を投じていることにも感銘を受けます。
父への思いを込めて公会堂建設に動く
そんなアメリカ滞在を満喫していた栄之助に、父の栄蔵が亡くなったとの知らせが入ります。急遽帰国する栄之助。人徳者だった父の供養として、岩本家のお金を公共事業に使いたいとの考えが沸き起こってきます。様々な人に相談する中で頭に浮かんだのは、渡米実業団で親しくしていた渋沢でした。
渋沢は生涯に関係した実業分野の役職は、500以上といいます。しかし、教育や文化事業の役職はそれを上回る600ほどでした。上京して渋沢の屋敷を訪ねると、「家母の承諾を得ること、資産の整理をすること」と、的確なアドバイスを授けられます。自身の婚約や結婚、仕事も多忙を極めていましたが、栄之助は寄付へ向けて行動を始めます。
その後、アドバイス通りに進めた栄之助は、渋沢に報告をします。義理堅く志の高い栄之助のことを渋沢は好ましく思い、栄之助の母にも対面したと記録にあります。そして明治44(1911)年、大阪府知事、大阪市長、大阪の財界人などが集まった集会で、渋沢より栄之助の寄付について発表されます。父の遺産50万と私財50万を合わせて100万を寄付する。その寄付金を元に公共事業を5年以内に完成させるという内容でした。翌日の新聞には、「百万円寄付の岩本家、近頃侠心の美学」との見出しで大きく報じられ、人々の注目を集めました。
寄付金の使途については様々な意見がありましたが、「これからの大都市には、市民の集会場が必要」という栄之助の意見が採用されて、公会堂建設が決定します。
起きなかった二度目の奇跡
好事魔多しとはこのことなのか? 幸せな家庭を築いた栄之助は、大阪電灯(後の関西電力)の取締役となり、新たな道で生きようとしていました。念願だった公会堂の建築も始まり、全てにおいて完璧だった栄之助に、暗い影が忍び寄ってきます。
世界情勢のデマを信じて売った株で大損をしてしまったのです。そしてまたもや、自分たちの力では及ばぬとみた地場筋が、栄之助を頼ってきたのです。義侠心に溢れた栄之助は、断ることができませんでした。
自ら売りに出るも、暴騰した株価は上がるばかりで、下がる気配を見せません。次第に資金は枯渇し、最後まで大事に残していた株さえも売らざるを得なくなります。番頭役の支配人からは、「寄付をしたお金の一部を借用しては」という案も出されますが、栄之助は首をたてにふりませんでした。
大正5(1916)年十月二十二日、栄之助は従業員40名ほどを引き連れて、松茸狩りに行く予定でした。しかし、気分がすぐれないからと、栄之助は残ると言います。妻のてると二人だけの夕食を終えた後、栄之助は一人離れの茶室に入りました。しーんとした静寂が流れた後、突然銃声が鳴り響きます。てるが慌てて駆けつけると、拳銃を握った栄之助が血だらけで倒れていました。そして遺書と共に、辞世の句が見つかります。
「その秋を またで散りゆく 紅葉かな」
病院へ救急搬送された栄之助は、皆の願いもむなしく、5日後に永眠します。三十九歳の若さでした。野村徳七は、「私は北浜街ただ一人の親友を失った」と嘆き悲しみました。渋沢を師とあおぎ、実業家としての道、教育や文化活動も模索していた栄之助。志半ばで力尽きた青年の死を、渋沢は悲しみ、また惜しんだことでしょう。
大相場師と呼ばれ、武士のごとく自決を選んだ栄之助。長い付き合いの友人は、「本来の純真で高潔な性格は、駆け引きの世界には合わない」と危惧していたといいます。別の生き方があったら、人生の幕切れは違っていたのでしょうか。
今も市民に愛される大阪市中央公会堂
栄之助の長年の夢だった公会堂は、亡くなって2年後の秋に完成します。そして今も、美しい姿を保ち続けています。関東大震災以前の建物であったことから、耐震性が十分ではないと、取り壊す案が出たこともありました。けれども景観保存運動が起こり、昭和63(1988)年には公会堂の永久保存が決まります。再生事業の募金には、市民や企業から7億あまりも集まり、改修工事が行われました。創建当時の姿に復元し、高い耐震性も兼ね備えた公会堂は、これからも市民に愛され続けていくことでしょう。
大阪市中央公会堂基本情報
〒530-0005大阪市北区中之島1-1-27
開館時間:9時半~21時半
休館日:毎月第4火曜日(祝日の場合は直後の平日、および12月28日~翌年1月4日)
※新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、変更の場合があります。詳しくはウェブサイトでお確かめください。
公式ウェブサイト:https://osaka-chuokokaido.jp/
写真提供:大阪市中央公会堂
参考資料:『またで散りゆく-岩本栄之助と中央公会堂』伊勢田史郎著 編集工房ノア出版、『ジャパトラ』住まい教育推進協会発行