Culture
2021.10.05

ロータリーエンジンは広島復興の象徴だった。世界的自動車メーカー『マツダ』の物語

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1945年8月6日、広島市は焦土と化した。1発の原子爆弾が夏の空に炸裂したのだ。

東洋工業株式会社社長・松田重次郎にとって、この日は満70歳の誕生日でもあった。幸いにも重次郎は一命を取り留めたが、史上初の核兵器実戦使用の標的になった広島市はまさに地獄と化した。

東洋工業の本社は爆心地から5km以上離れていたため、壊滅的被害は免れた。そしてこの1945年8月6日から、東洋工業は広島復興の旗手としての歴史的使命を与えられたのだ。

のちの世界的自動車メーカー『マツダ』の物語が始まった。

広島の三輪トラックメーカー

更地と化した広島に、山本健一という旧海軍の技術将校が帰郷した。

元々は川西飛行機の社員だった山本は、母親の勧めで地元企業の東洋工業に就職する。山本が希望した配属部署は設計部。しかし東洋工業の人事担当者は、彼を三輪トラックの組立ラインにあてがった。

これに当初は不満を持っていた山本だったが、自分たちの生産した三輪トラックが広島の復興に役立っていると知り、心を入れ替える。それが向上心にもつながり、山本は組立ラインの仕事をこなしつつも設計部での自習を始めた。彼の努力は社内でも評価され、入社から2年後にようやく設計部へ異動となる。

彼はのちにマツダの社長にまで登り詰めるが、それは遥か後の話である。

当初は三輪トラックを生産していた東洋工業は、50年代中頃から始まるマイカーブームに乗って一般向け乗用車の開発も開始した。が、60年代までの東洋工業は国内四輪メーカーの中でも後発組で、トヨタや日産といった先発組にいつ吸収合併されるのかという状態だった。

現に知名度のあるエンジン技師を擁していたプリンス自動車は、日産に吸収されてしまった。数あるメーカーの統合は、当時の日本政府の方針でもあった。

松田重次郎から彼の長男の恒次に社長が代替わりしていた東洋工業は、吸収合併を免れるための「技術」を模索していた。東洋工業は東洋工業だけでやっていかなければならない。それを国に理解させるための、独自の「技術」である。

そんな時に恒次は、西ドイツのNSUという自動車メーカーがロータリーエンジンの試験開発を行ったというニュースを目にする。

これだ。このロータリーエンジンのライセンス契約をNSUと交わして我々の自動車に載せれば、東洋工業はオンリーワンの企業として存続できる。

1960年10月、恒次はNSUとのロータリーエンジンに関する諸契約を締結させた。

ロータリーエンジン実用化を阻む「チャターマーク」

最も一般的な内燃機関であるレシプロエンジンは、ピストンの上下運動から始まる。

その上下運動をプロセスのどこかで回転運動に転換させてクルマを動かすが、ロータリーエンジンの場合は当初から回転運動をする。すると同排気量のレシプロエンジンよりも軽量化できる上、出力も高くなる。繭型気筒とおむすびにも似たローターの組み合わせが成せる現象だ。が、この時代のロータリーエンジンはとても実用化できるものではなかった。

最大の問題は「おむすびの頂点と繭との接触」である。ここは当然ながら常に触れているのだが、ローターの回転運動によって気筒の内側に無数の傷がついてしまう。これは「チャターマーク」というもので、その正体はローターとの摩擦痕。内燃機関にとって最もデリケートな部分を容赦なく破壊した。

よく考えたら、なぜNSUは自分でロータリーエンジン車を開発しないのか? 東洋工業の技術者たちはそんな疑問を持ったが、要するにNSUはチャターマークの問題を改善できなかったのだ。

山本健一をリーダーに添えた「ロータリーエンジン研究部」は、そのプロジェクト自体が成功するかどうか怪しい部署と見なされた。しかし山本の部下は若手を中心に構成され、故に画期的な発想が次々と捻り出されていく。

ローターの各頂点にはアペックスシールという部品が設置される。このアペックスシールの内部に縦と横の空洞(クロスホロー)を作り、ローターの振動を調整してみた。するとチャターマークがつかなくなった。

アペックスシールの素材にも工夫を加える。これは日本カーボン社との協力で新素材を開発し、摩耗の少ない部品を実現させた。海外企業に押し付けられた欠陥エンジンが、遂に実用的なハイパワーエンジンへと生まれ変わったのだ。

世界はコスモスポーツの耐久性に驚愕した

ホテルニューオータニのブルースカイラウンジは、東京都内の名所のひとつである。そしてこのホテル自体、国内大企業が重大な発表をする際の記者会見場としても頻繁に利用されている。

1967年5月30日、東洋工業はホテルニューオータニで新型車『コスモスポーツ』を発表した。

この3年前、ヨーロッパでは既にロータリーエンジン市販車が登場していた。あのNSUが開発した『ヴァンケルスパイダー』である。67年にはその後継車『Ro80』の生産が開始されているが、何とこれらの製品はチャターマークの問題を解決しないまま発売に踏み切った。Ro80は空力性能と居住性を兼ね備えた先進的な設計だったが、反面エンジントラブルが頻発し、大金をかけて何度もエンジン交換をしなければならなかった。NSUはクレーム対応に追われ、その果てにフォルクスワーゲン傘下のアウディと統合されていく。

一方、コスモスポーツはドイツ・ニュルブルクリンクで開催のマラソン・デ・ラ・ルートというレースに参加し、総合4位でフィニッシュした。このマラソン・デ・ラ・ルートは84時間耐久レースで、3日半をひたすら全力で走り続ける酔狂の極致のような大会だ。

全59台が出場する中、レース中盤から10位以内の好位置に喰い込む大健闘を見せたのだ。無念にも、うち1台は82時間過ぎ、走行中にリアタイヤが外れるトラブルでコースアウトし、チェッカー目前でリタイアを喫するが、残る1台が無事84時間を走り切り、ポルシェ、ランチアに次ぐ総合4位という好成績でフィニッシュを果たした。
『同じ壁なら、高い方がいい』MAZDA 100TH ANNIVERSARY

ここに、マツダブランドのロータリーエンジンの耐久性は証明された。

ロータリーエンジン車の最高峰

が、ロータリーエンジンには「燃費が悪い」という短所があった。

これは1973年のオイルショックで非常に重大な問題として、東洋工業にのしかかる。

この時代まで、ガソリンとは「安定供給できる燃料」という認識だった。だからこそアメリカの自動車市場では燃費の悪さはあまり苦にされず、高出力・大排気量のクライスラーV8Hemiエンジンを搭載したマッスルカーが一大ブームを形成した。

しかしオイルショックでガソリン価格が従来の3倍になると、消費者は極力ガソリンを消費しないクルマを選択するようになる。マッスルカー並みの燃費のロータリーエンジン車は、日本でもアメリカでも敬遠されるようになった。

そこで東洋工業は、ロータリーエンジンの燃費を40%向上させる計画に着手。結果、1978年に『サバンナRX-7』が登場する。

2度のフルモデルチェンジを挟みつつ2002年まで生産されたRX-7は、模型でしか実現できなかった「幻のエンジン」を実用的な内燃機関として昇華させたモデルだった。世界各国にオーナーズクラブが存在し、自動車番組でも頻繁に取り上げられている。上の動画は中古自動車ディーラーのマイク・ブルーワーが司会を務める『名車再生! クラシックカー・ディーラーズ』だ。

原爆投下の焼け野原から立ち上がった人々は、世界の誰も成し得なかった偉業を達成した。「広島復興の象徴」は、今も世界中の道路を唸りを上げて疾走している。

【参考】

プロジェクトX ロータリー47士の闘い 夢のエンジン誕生からルマン制覇まで(NHK出版)
マツダRX-7の24年と愉快な時代(マガジンボックス)
マツダ百年史③ 地元広島とともに志した復興(1940年代)-マツダ公式ブログ
同じ壁なら、高い方がいい-MAZDA 100TH ANNIVERSARY
Mazda Cosmo 110S: A Japanese classic on the North Coast 500 – Mazda UK-YouTube
Mazda RX7 – Wheeler Dealers-YouTube