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2021.11.10

ザビエルの来日後、信者が急増!?イエズス会がキリスト教布教のためにとった戦略とは

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異教徒間には争いが付き物だ。

例えば、現在イスラム諸国のタリバン情勢をめぐる問題が紙面を賑わせている。これは元を辿ればアフガニスタンで活動するイスラム教スンナ派と諸派のデーオバンド派との対立、すなわち宗教的対立から生じたものだ。

また、ヨーロッパ諸国では17世紀、ドイツを主戦場に三十年戦争が展開された。ルターによる宗教改革からほぼ100年後、プロテスタントとカトリックの対立がきっかけとなって起こった出来事であり、ここでも原因はやはり宗教である。

日本国内で宗教絡みの出来事と言えば、1990年代にメディアを賑わせたオウム真理教による一連の事件が記憶に新しい。歴史を遡ること約1500年、仏教が伝わったばかりの古代日本では、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)氏と渡来系の子孫で崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)氏との間で争いが勃発。最終的に大陸からの仏教が受け入れられ、現在に至るわけだが、ここにも宗教が絡んでいる。

天文18(1549)年、フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えたことは、歴史教科書でも知る事実だ。キリスト教がイエス・キリストという絶対神を崇拝する宗教であり、その神は超越的な存在であるのに対し、仏教のそれは絶対神ではないうえ、内在的である。仏教とキリスト教は互いに相反する宗教であり、仏教とキリスト教が初めて交わった時、何らかの対立が起きていたとしても決しておかしくない。

ところが、実際は対立を生むどころか、ザビエル来日後には信者が急増したという。

一五七〇年から一五七八年の間に洗礼を受ける大名はますます増え、教会に向かう波が広がり、イエズス会の活動に新たな局面が開かれた。一五七一年に古参のガスパル・ヴィレラが一七年にわたる宣教に疲れ果ててゴアに引き上げたが、彼は日本のカトリック信者を三万人と見積もっている。八年後にはその数は一五万人になった。

W・バンガード著/上智大学中世思想研究所監修『イエズス会の歴史(上)』

結構な人数に増えてる!なんでだろう?

後に江戸幕府がとった政策が原因でキリスト教徒の迫害をもたらすことになるわけだが、少なくともキリスト教が初めて日本に伝わった当初は、葛藤もなく、すんなり受け入れられた。

ここでカギを握るのが、イエズス会が日本でのキリスト教の布教のためにとった戦略だ。その戦略とは一体……。

イエズス会の垂涎の地、アジアへ

イエズス会がまず布教のターゲットとしてまず目を付けたのがアジア諸国であった。アジア諸国が布教の恰好の地とされた背景には、以下のような事情があった。

中世のヨーロッパは貧しい農業地帯で、当時の世界の後発地域であった。これに対し、東洋の絹や香料は奢侈品であり、これらを産出する中国はヨーロッパの支配階級にとって、インドとならぶ、文字通りの「憧憬の地」であった。(中略)マルコ・ポーロの『東方見聞録』がヨーロッパで幅広い読者層を獲得したのも、「富の国」「文明の国」である中国に対する強烈な憧憬があってこそのことであった。マルコ・ポーロが見た世界とは、中国から溢れでた富が南シナ海からインド洋に循環し、そこでイスラム世界からの商品と交換されて繁栄を謳歌している港湾都市であった。

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』

東洋諸国を新たな霊魂獲得地として位置づけるとともに、「霊魂と胡椒を求めて」という動機のもと福音宣布のために世界進出を企てたイエズス会。さらに、『旧約聖書』の「創世記」第2章第8節の「主なる神は東方のエデンに楽園を設け、御自ら形作られた人間をそこに置き給うた」という記述に示された「エデンの園」が「インド」であると考えた。

同じく「創世記」第2章10節には「エデンからは一つの川が流れ出ていた。この川は楽園を潤し、そこにおいて四つの川となって分かれた」と記されている。ピソン、ギホン、ヒデケル、ユフラテがその四つの川のことであり、それぞれ順に、ガンジス、ナイル、ティグリス、ユーフラテスの各河川に比定されている。このような「創世記」に見られる東方楽園説と、そこを潤すピソン川=ガンジス川説によって、インドはキリスト教宣教師の強く憧れる地とされたのである。

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』

インドを目指すにはそんな理由があったんだ!

インドを主要布教地としたイエズス会の企ての動機は、インドとキリスト教を結びつけるさまざまな伝説によって裏付けられ得ると思想学者などは捉えているが、こうして東洋世界の中でもまずインドを垂涎の布教地として布教活動を展開するに至った。

アンジロウとの出会いを経て、日本での本格的な布教へ

インドでの布教は最終的に失敗に終わり、次なるターゲットとして浮上したのが日本であった。ザビエルはインドのゴアから東南アジアのマラッカへと移動。新たな渡航先で出会ったのがキリスト教徒としてパウル・デ・サンタ・フェの洗礼名を授かったばかりの薩摩出身のアンジロウであった。青年時代に犯してしまった大きな罪を神に許してもらうべく遥々マラッカへ足を運び、洗礼を受けたアンジロウ。マラッカでのザビエルとの出会いは願ってもないものであった。一方、当時日本文化や日本の宗教に関する知識が乏しかったザビエルにとって、アンジロウが貴重な情報源となったのは言うまでもない。

キリスト教徒として洗礼を受けたばかりのアンジロウは、仏教に対して批判的な考えを示していた。ザビエルとの対話の中で、日本仏教に対する批判の矛先は太陽と月に向けられることとなった。

日本人が神として崇拝していた太陽と月は、ユダヤ教、またキリスト教思想から見ると、天地創造の4日目に神によってつくられ、単なる昼と夜を照らす役目を与えられた召使だと言われている。この神学的な解釈の他に、実験または天体観測によりルネサンスの知識人が生み出した科学技術による影響があったとも考えられる。つまり、月や太陽というのは自然科学の対象であった。イエズス会士は科学者たちと議論しただけでなく、積極的に、この科学という新しい分野に貢献したことも忘れてはならない。したがって日本人が崇拝していた神々(太陽と月)はただの自然の現象であり、それらはキリスト教の神の被造物であるということにアンジロウは気づき、非常にショックを受けたであろうことは想像にかたくない。

アンドレス・メナチェ氏の論文「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡における僧侶像–好意的な印象から好戦的な態度へ–」

太陽と月、こんなにも捉え方が違うとは知らずびっくり

当時のイエズス会は宗教的組織であるとともに、最新の科学技術を伝えるコミュニケーターとしての役目も担っていた。ちょうどその頃、日本は戦国時代真っ只中にあった。敵を倒すためにも、より高度な技術を必要としていたはずだ。高度な科学技術を伝えることを大義名分にすれば、日本での布教を成功させることができる、そんな思惑がザビエルにあったのかもしれない。

聖フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のために初めて上陸した地として知られる鹿児島県鹿児島市の中心部に、来航400年を記念して造られたザビエル記念公園内にあるザビエル滞鹿記念碑。その向かいには、鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂がある。(出典:公益社団法人鹿児島県観光連盟)

その後、ザビエルは1549年8月15日、薩摩藩の島津隆久に歓迎されながら来日。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の3名が軍事的支配のもとに国家統一を図るなかで、この時期にイエズス会の大立者となった敏腕イタリア人長上のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、数回にわたり日本を訪れた。その中で日本文化の豊かさに関する深い鑑識眼を持つとともに、中国人は別格として、日本人は東洋ではキリスト教信仰を生み出す状態にある国民であるという判断を下した。

あの信長もキリスト教を好意的に受け入れていた

こうして、日本をターゲットにした布教戦略は順調に事が運んでいき、1569年、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスは京都で織田信長と接見。戦国大名から恐れられ、好戦的であった信長だが、イエズス会士とは相性が良かったようだ。

一五六九年には強大な織田信長が国の頂点に登りつめ、分裂していた国を統一した。その年の四月、この尊大で人に恐れられている指導者が、京都でルイス・フロイスと接見した。貴人は明らかにこのイエズス会士に好意をもち、どちらかというと非公式なこの会合が、不可知論者を自認するこの人物とキリスト教宣教師の間の珍しい親交の始まりとなった。これは日本の教会の未来を約束するものだった。

W・バンガード著/上智大学中世思想研究所監修『イエズス会の歴史(上)』

イギリスの版画家と風刺漫画家が1771年に刊行した『カリカチュラス』には、このようなイエズス会宣教師の絵が描かれている。 -メトロポリタン美術館

キリスト教宣教師と仏僧との頂上決戦の場「山口の討論」へ。その結末は

そしていざ、キリスト教宣教師と仏僧・信教徒との宗教討論のため山口へ。いわゆる「山口の討論」としても知られるその宗教会議には、日本の仏教の誤謬や過ちを指摘するためだけでなく、僧侶の弱点を攻め、僧侶がいかに無知であるかを仏教の信教徒に示すことで、結果的に改宗者を増やしたいという狙いがイエズス会にあった。

虎視眈々と……どうなるのかしら

1551年4月から約半年にわたり行われた「山口の討論」では、「天地万物の創造主は善であるのか悪であるのか?」とか「もし神が善であるなれば、なぜ悪い者を造るのか?」とか、「神が人間を造ったことが本当なら、悪い悪魔が人間を悪に誘うことを知っていながら、なぜ悪魔の存在を許しておくのか?」といった仏僧からの非常に示唆に富んだ質問が飛び交った。仏僧からのキリスト教に対する疑問や反論はあったものの、大きな対立へと発展することはなかった。

そんななかで、僧侶の自堕落な生活の実態にも批判が向けられた。四分律という仏教の戒律を遵守するべきであるはずの僧侶たちがお酒を飲んだり、尼僧と性行為をしたりしていたことが明らかとなり、ザビエルたちは聖職者としてあるまじき行為であると糾弾した。

やば、バレちゃった!(勝手に想像した仏僧の声)

寺院内での邪悪な生活が明るみとなり、仏僧は信頼を失った。山口の町ではそれから2ヶ月の間に、500人前後の人たちが新たに洗礼を受け、キリスト教徒に。これをもって、イエズス会は第一関門をクリアすることとなった。

日本ナイズされた適応主義政策で日本での布教は成功

キリスト教徒を増やすためのイエズス会の闘いは続いた。さらなる戦略として用意されたのが適応主義政策であった。日本のみならず、中国やインドでの布教時にも適用されたわけだが、その政策について簡単に言うと、「日本の流儀を習得するともに、カトリックの教義に危険が生じない限りにおいて日本文化に生活の仕方などを合わせるべきだ」というものであった。

例えば、イエズス会の司祭たちは仏教の僧侶の中でも禅宗の僧侶のような地位となり、日本に滞在中は肉食をしない覚悟で臨んだ。日本人の習慣を奇異に思ったり悪く言ったりしないよう徹した。日本人は形式美をこの上なく尊重する国民であると見抜き、その形式の美学に合わせるべく、キリスト教の諸典礼やイエズス会関連施設を美しく整えた。

慎重に戦略をとったんだな

唐船・南蛮船図屏風(狩野孝信筆/九州国立博物館)-Colbase

また、ヴァリニャーノは日本人にとって有益なものをもたらすことも布教のためのひとつのステップと考えた。硝石や火器、中国産生糸など、日本国内では手に入らないあらゆる物資を長崎に寄港する南蛮船に運び込んだ。その点、鹿児島の種子島への鉄砲伝来は領国の富国強兵化を求めていた九州の大名たちの思惑を汲み取ったうえで、イエズス会により画策された計画のひとつであったと捉えることができよう。

ザビエルは、日本人が武器を非常に大切にして尊重し、「よい武器を持っていることが何よりも自慢」とする様を知り、「私はこれほどまでに武器をたいせつにする人たちをいまだかつて見たことがない」と書き残している。いまさら指摘するまでもないが、ポルトガル船は鉄砲や大砲、硝石や鉛などの軍需物資をもたらしていた。これらの軍需物資は、その入手がきわめて困難であったため、鉄砲などの場合、『長崎古事集一』には「其頃日本ニて鉄砲と云もの不見馴重寶なる物とおもひ、しハらくハ其名を重寶と名付」と言及されているように、その頃の日本では「見馴れない物」であった。新たな布教地「日本」において、福音の布教と霊魂の獲得をおこなおうとしている宣教師たちが、日本人の武器に対する嗜好に着目し、鉄砲などの軍需物資を「外交儀礼品」として提供し、それと引き換えに、領内での布教を認めさせようとの戦略に思い至ったことは、容易に推測のできるところである。

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』

このように、日本人は領主の意向に大いに左右されること、そして領主からの好意と援助を得られなければ布教は難しいこと、いわゆる忖度の文化をイエズス会の宣教師たちは理解していた。とにかく日本で改宗を広めるためならどんな手段も厭わなかった。これが日本での布教が成功した最大の要因であると言える。

イエズス会の宣教師たちは日本文化の翻訳者に

以上の適応主義政策を実行するために、イエズス会の宣教師たちは日本の文化や日本人の行動律を学び、教会内でそれを伝授するために、自ら日本文化の翻訳者となることが求められた。

とはいえ、イエズス会の宣教師にとってキリスト教典の日本語翻訳は苦労を強いられるものであった。実際、そのハードルの高さはイエズス会が日本国内でとったあらゆる適応主義政策の中でも群を抜いていた。

「大日」の誤訳がイエズス会の命取りに

命取りってどういうことだろう?

まず翻訳作業の中で宣教師たちが直面したのが、キリスト教の「神」を日本人向けにどう訳すかどうかであった。結局、「大日」と訳してしまったわけであるが、それが日本での布教の終わりの始まりであった。

イエズス会の宣教師たちはインドに滞在していた頃からアンジロウのもとで日本語学習に励んでいたわけであるが、翻訳された日本語訳が正しいものかどうか見抜けるほどに日本語力が上達した。「大日如来=神」ではないことが信教徒の間で判明すると、「大日」という仏教用語は「神」に対する日本語訳に相応しくないとして却下した。

「大日」問題をめぐり仏教用語をどう扱うかが取り沙汰されるなかで、1555年9月23日付の『ガゴの書簡』では仏教用語は「虚偽の言葉」「有害な言葉」と看做(みな)された。そこで、今後の翻訳方針として、出版物における語彙や表記の統一を図ることを名目上の理由に、仏教用語の代わりにラテン語を使用する「原語主義」に則らなければならないとした。

ところが、1611年に印刷された長崎のイエズス会学院の『ひですの経』では、原語主義が忠実に守られておらず、使用が禁止されたはずの仏教用語が多数見受けられた。例えば原語主義に則れば、ポルトガル語で天使を意味する「anjo」は仏教用語を用いず、そのまま「anjo」とすることが求められた。が、残念なことに第29章だけでも漢字表記である「安如」の使用が5回、平仮名表記では2回確認された。

また、全体的に表記が統一されておらず、独特の漢字表記や類似のキリシタン版にはない当て字のような用語(例えば、「天心」「尊主」「妙理」)も数多く見られた。

以上のような不適切な翻訳が多数確認されるに至った原因は何か。出版物の完成度よりも、多くの日本人を救済したいという宣教師としての使命感を最優先したことが原因と捉える説もある。それはともかく、こうした事態はキリスト教典の日本語翻訳がいかに難航したかを物語っているようにも思われるのだ。

そもそも「大日」「弘法大師」といった固有名詞をはじめ、高野山や大峰修験など(概ね真言宗に関連するものが多いが……)、キリスト教典の翻訳時に問題視されたこれらの仏教用語は、アンジロウが伝えた日本情報の中に含まれていたものであった。アンジロウは「大日如来」に対して誤った解釈をしており、日本の寺院にある大日如来の像は3つの頭を持っていると説明していた。また、日本人として常識程度の仏教の知識を有していたものの、その知識は体系的なものではなく、学僧として仏教を究めていなかったため、結果的にイエズス会にとっての悲劇を生むこととなった。ちなみに、宗教学者の大和昌平氏によると、その訳は「大日」ではなく、仏教の三宝を保護する「荒神」が正しいそうだ。

対外的な出来事が重なり、イエズス会の威信が失墜、鎖国政策へ

さらに、対外的な出来事が立て続けに発生した。準管区長のガスペル・コエリョは、中国遠征を企てていた秀吉に、九州のカトリックの援助ばかりか、ポルトガル海軍の支援をも取り付ける約束をするという、大失態をやらかしてしまったのだ。原則として、イエズス会士がその国の政治に介入することは禁じられていたにもかかわらず。コエリョの軽率な行動をきっかけに、秀吉はイエズス会に対し、日本に対する西欧の軍隊の襲撃を準備する諜報員ではないかと疑うようになった。

写真は無原罪の聖母を表す真鍮製のメダイ。裏面には右手に正義を貫く剣、左手に公正を象徴する秤を持った大天使ミカエルが表されている。-Colbase

また、家康自身が篤い仏教徒であり、日本国内で仏教が復興し始めたこともイエズス会にとっては想定外の出来事であった。家康は当初、キリスト教全般に対し寛容な態度を示し、お抱えの通訳者としてジョアン・ロドリゲスを召し入れた。が、後に三浦按針の名のもとに徳川幕府に仕えることになるイギリス人航海士のウィリアム・アダムズが豊後に停泊したのをきっかけに事態は急変。貿易戦争をめぐってポルトガル人とスペイン人に対する格好の均衡勢力を得たと判断した家康はその新参者を歓迎したのだ。

こうして、ジョアン・ロドリゲスはウィリアム・アダムズにとって代わられるとともに、プロテスタント系の船乗りたちによって反カトリック言説が流布。イベリア半島の影響力が低下したことで、それに伴いイエズス会士の威信が失墜。家康はすべての宣教師の日本からの退去と、キリスト教徒に対しては仏教への改宗を命じた。その後、第3代将軍・家光によって鎖国政策が敷かれたのである。

(参考文献)
『イエズス会の歴史(上・下)』W・バンガード著/上智大学中世思想研究所監修 中公文庫
『イエズス会の世界戦略』高橋裕史 講談社選書メチエ
「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡における僧侶像–好意的な印象から好戦的な態度へ–」アンドレス・メナチェ『アジア・キリスト教・多元性18』京都大学 2020年
「仏教用語によるキリスト教布教:イエズス会の翻訳作業における葛藤、『ひですの経』第29章の例から」エフライン・ビジャモール・エレロ 『日本国際文化学会年報15』2017年
「キリシタン時代最初期におけるキリスト教と仏教の交渉」大和昌平『キリストと世界:東京基督教大学紀要24』2014年

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

この記事に合いの手する人

編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『アートラジオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。