日本文化の入り口マガジン和樂web
11月29日(月)
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
11月25日(木)

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)

読み物
Culture
2021.10.20

あの武勇伝は二次創作!? “猛将”加藤清正のサラリーマン的素顔を3分で解説

この記事を書いた人
この記事に合いの手する人

この記事に合いの手する人

加藤清正(かとうきよまさ)は安土桃山時代の武将で、豊臣秀吉の忠臣。朝鮮出兵では虎退治までしたといわれる伝説的な猛将です。
けれども実は、加藤清正の英雄的なエピソードの多くが、事実ではないともいわれています。本当の加藤清正はどんな人物で、なぜ英雄になったのでしょうか。

名前はよく聞くけど、どんな人物か詳しく知らないな~

加藤清正の虎退治をモチーフにした刀の鍔(つば)。江戸時代に作られたもので、当時の人気の高さがうかがえます
Sword Guard (Tsuba) 18th century(メトロポリタン美術館より)

秀吉の小姓から大出世、加藤清正の生涯

加藤清正は「秀吉の子飼い衆」。子どもの頃から母方の遠縁だった秀吉に仕え、秀吉のいとこにあたる武将の福島正則(ふくしままさのり)らとともに側近へと成長していきました。子飼いという言葉には生き物を小さなころから飼い育てることから転じて、人を未熟なうちから育てて一人前にするという意味があります。

秀吉とは親戚だったのですね!

賤ケ岳の七本槍

成り上がりで譜代の家臣を持たなかった秀吉もまた、清正のような自分が育てた家臣を信頼し、重用しました。
戦の先陣を切って手柄を立てることを「一番槍」といいますが、清正は1583(天正11)年の賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで、「賤ケ岳の七本槍」の一人として3000石の領地を授かっています。
賤ケ岳の戦いは本能寺の変で織田信長が斃(たお)れた後の、秀吉と柴田勝家との争い。秀吉の天下統一への大きな一歩となりました。

七本槍って、槍のこと言ってるの?って最初思いました。7人の若武者のことなんですよね!

賤ケ岳の戦のとき清正は数え年で22歳、若い!
『七本鎗高名之図加藤清正』豊国(国立国会図書館デジタルコレクションより)

朝鮮出兵の立役者

1588(天正16)年には肥後(ひご)の半国、北東部19万5000石の領主として現在の熊本県へ。
九州を平定した秀吉が次に見据えていたのは、朝鮮への出兵です。1592(文禄元)年に始まった文禄・慶長の役では、小西行長(こにしゆきなが)と先陣争いをしながら半島へ渡りました。

清正は現在のロシア国境付近オランカイまで兵を進め、秀吉の夢だった明(みん)を攻略する道を探ります。けれども道のりは遠く、一度は明との和平交渉にのぞむも決裂。1597(慶長2)年に朝鮮へ再出兵をするのですが、翌年に秀吉が亡くなると明・朝鮮連合軍からの激しい追撃にあいながら撤収します。

清正の圧倒的な強さを、敵軍は「鬼上官」と恐れたとか…….。エネルギッシュな武将だったのかも?

なぜ? 関ケ原では東軍へ

日本へ帰国後、清正は朝鮮の最前線で戦った武将らとともに、秀吉の意図に反して明との和平を進めた石田三成(いしだみつなり)・小西行長らと激しく対立する一方、徳川家康に接近していきます。やがて徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍の関ヶ原合戦が勃発。清正は美濃での天下分け目の合戦には参加していませんが、西軍の誘いには乗らず、九州で東軍として西軍勢力と戦いました。

そして関ヶ原合戦の後で、肥後一国(天草・球磨を除く)と豊後(ぶんご)国の一部を含む54万石の大名となるのです。
清正はこの時期に領内の河川工事と新田開発を進め、また熊本城や名古屋城の築城を手掛けて、治水と築城の名人としても名を残しました。

鉄壁の守りを目指した築城名人だったとか。熊本城の反りの強い石垣は、「武者返し」と呼ばれてますね!

二条城の会見と疑惑の死

天下を統一して征夷大将軍となった家康は、秀吉の子どもである豊臣秀頼(とよとみひでより)との面会を望みますが、豊臣側は拒否。それを清正が仲介し1611(慶長16)年、二条城で家康と秀頼との会見が行われました。この会見には、豊臣家が徳川政権を認めたといった形式的な意味合いがあったのでしょう。

けれどもその後、清正が急死。病死だったと考えられていますが、もしかすると徳川側による毒殺ではないかという憶測が飛び交います。
結局、1614~15(慶長19~20)年の大坂の役で豊臣氏は滅亡、1632(寛永9)年には御家騒動などを理由に加藤家も断絶となります。

秀吉に恩がある清正は、命がけで秀頼を護ったんですね(涙)。以前から病を患っていたという説も。

つかみかけていた徳川家からの信頼、捨てきれなかった豊臣家への忠義。『二条城の清正』は歌舞伎のテーマにもなって、多くの人々の心をつかみました。

『二条城の清正』は、昭和の名優・初代中村吉右衛門に合わせて書かれた名作です。現在も上演されることがあるので、機会があれば是非!

歌舞伎のヒーロー、そして武運長久のシンボルへ

江戸時代には、徳川政権の成立に関わる歴史を赤裸々に描いたり、演じたりすることは禁止されていました。それでも足利時代をモチーフにした歴史パロディとして、清正は歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵のヒーローになっていきます。

江戸時代に文楽で初演された『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』は、清正の忠誠をテーマにしています。その後歌舞伎でも上演されました。

教科書にものった「地震加藤」

朝鮮出兵を描いた歌舞伎の演目『鬼上官漢土日記(きじょうかんもろこしにっき)』には、「地震加藤」というエピソードが登場。
清正は朝鮮出兵での明との交渉を巡って秀吉の怒りをかい、謹慎中です。そこに伏見での大地震。有事とはいえ、謹慎を破ればどんな罰が与えられるか分かりません。それでも清正は秀吉の警護に駆け付けます。清正の忠義心に、秀吉の怒りも溶ける……という内容です。
このお話は忠君愛国の手本として明治以降も語り継がれるのですが、地震のときに清正が遠方にいたとする史料があるため、実は創作。

えっ、創作を教科書に!?

虎退治も秀吉のため?

朝鮮出兵中に槍で虎退治をしたという武勇伝も創作。高齢になって息子秀頼を授かった秀吉が、子どものために長生きをしたいと当時体に良いといわれていた虎を求めたのは事実で、たくさんの虎の肉や皮が大陸から日本へ送られたのだそう。もしかしたら清正も虎退治に出かけたことがあったかもしれませんが、はっきりとは伝えられていません。

英雄になった意外なわけ

清正は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を掲げるほど熱心な日蓮宗の信徒でした。日蓮宗の寺院は清正の没後百回忌、二百回忌と末永く法要を行っています。
江戸時代に仏教が庶民の間にも広まっていく中で、やがて神格化された存在へとなっていったのでしょう。清正公(せいしょうこう)の呼び名で、武運長久や所願成就のシンボルとして祀られるようになります。

なるほど~

朝鮮出兵での加藤清正を描いた浮世絵、ぎろっとした目が歌舞伎役者のにらみっぽい
『武勇三番続 其三』勝川春亭(シカゴ美術館より)

加藤清正の知られざる一面とは?

ところで、有名な地震加藤や虎退治の話が創作だとしたら、本当はどんな人物だったのかが気になるところです。
秀吉の家臣といっても、仕事はいろいろ。実は清正には、豊臣家直轄の蔵入地で年貢の管理をする代官をしていたという経歴があります。
肥後半国の領主を任せられたときも前年に肥後国で一揆があり、その後始末に取り組んでいるので、代官としての才能があったのではないでしょうか。

また秀吉の九州征伐では城番をつとめ、兵糧(ひょうろう)の輸送管理などに携わっていたと考えられていて、戦でも前線よりはむしろ後方支援を得意としていたことがうかがえます。
当時は戦になると農民も徴兵されていましたが、ずっと徴兵し続けて農作物が収穫できなければ、武士も農民も共倒れです。朝鮮出兵ではそのあたりの調整に苦労をしていたという記録も。

虎退治のような派手さはありませんが、清正が手腕を発揮していた年貢や兵糧の管理こそ、秀吉の天下統一の大きな支えとなったはず。そのあたりのエピソードがあまり伝えられていないのは、ちょっと残念な気がします。槍の代わりに算盤を持たせて、中間管理職的な苦悩を描いた「兵糧加藤」みたいな話があったって、いいじゃないかと思いませんか。

確かに!そんな新しい切り口の作品も見てみたい!

スタッフおすすめマンガ

石田三成を中心とした、ギャグとともに楽しめる作品! 加藤清正はどんなキャラで描かれているのか? 読んでからのお楽しみ♡


ミツナリズム(1) (モーニングコミックス)

サラリーマンといえばこの漫画! なんと無料で読めます。


サラリーマン金太郎 第1巻

アイキャッチ:『武勇三番続 其三』勝川春亭(シカゴ美術館より)

参考資料:
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
シリーズ・織豊大名の研究2 加藤清正(戎光祥出版)
加藤清正 朝鮮侵略の実像(吉川弘文館)
加藤清正 築城と治水(冨山房インターナショナル)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。

この記事に合いの手する人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。